第28話 止まった呼吸
「……呼吸、していない?」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
ミレイユは答えず、細い管をポッチの体から離さなかった。眼鏡の奥の目が、一点を睨んでいる。
「スライムは肺で息をしないわ。体表で、ごく微量の気体をやり取りしている。普通なら、表面に細かな波が立つの」
「波……」
「それが、ない。完全に凪いでいるわ」
地下の冷気が、急に重くなった。
「死んでる、のか」
「いいえ」
ミレイユは、首を振った。
「核の脈は残っている。ほら」
差し出された管の端に、耳を寄せた。
とく。
……とく。
遠かった。昨日までより、ずっと間隔が開いている。
「体温も下がっているわ。けれど、組織は崩れていない。死ならば、粘性が緩んで形が保てなくなる。この子は、形を保ったまま、全部を止めている」
「止めて、いる」
「冬眠に近いわね。あるいは、仮死状態」
「いつから、ですか」
「それは、あなたの記録に聞くのが早いわ」
ミレイユが、記録帳を僕に突き返した。
「時系列を、全部出して。この子が止まる前と後で、何が変わったか」
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卓に記録を広げた。
ポッチが動かなくなったのは、青白い粉を見た夜だ。それより前の日は、石を半個、食べていた。
「粉の夜、ポッチは粉を食べず、触れず、見つめて動かなくなった。翌朝も静止。石への反応は薄い」
「その前日までは、普通に動いていた?」
「はい。影を渡る日は控えていましたが、石も食べていました」
「粉に会った直後に、停止。因果の疑いは濃いわね」
ミレイユは、粉の小箱を手の中で転がした。
「ただし、粉が原因とは言い切れない。きっかけであって、原因は別にある可能性も」
「断定は、できません」
「そうね。あなたの口癖」
くすりとも笑わずに、彼女は続けた。
「それにしても、この症状……」
言いかけて、唇が止まった。
「ミレイユ?」
「……前にも、似たものを見たことがあるわ」
呟きが、床に落ちた。
僕とシルヴィアの視線が、同時に彼女へ向いた。
ミレイユは、はっとして口を押さえた。
「違う。文献で、よ。文献で読んだことが、あるだけ」
「どんな文献ですか」
「今は、思い出せない。後で調べておくわ」
早口だった。
シルヴィアの目が、すっと細くなった。けれど、何も言わなかった。
僕も、聞かなかった。
聞いている場合じゃない。
「どうすれば、起こせますか」
「分からない。刺激を与えれば戻る場合もあるけれど、この状態で無理に起こせば、核が壊れる恐れもある」
「壊れる……」
「だから、待つのか、探るのか。その判断が要るの」
待つ。
それは、僕が覚えた一番の技のはずだった。
けれど今は、その言葉が、胸の奥を冷たく刺した。
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目の前の黒い塊が、動かない。
三歩の距離で、影に沈んだまま。
――見ているだけ。
頭の奥で、何かがきしんだ。
クローゼットの中。扉の隙間。赤い光。
動けなかった。声も出せなかった。
あの夜も、息を殺して、見ていた。
「……っ」
視界が揺れた。
耳の奥で、血の音が鳴っている。手が冷たい。膝に、力が入らない。
また、同じだ。
また、僕は見ているだけで。
「レン」
遠くで、声がした。
「レン、聞こえる?」
肩を、強く掴まれた。
シルヴィアだった。
琥珀色の瞳が、目の前にあった。
「息して。吸って、吐く。ほら」
「僕は」
「いいから。吸って」
言われるまま、息を吸った。
胸が痛い。もう一度、吐く。
「そう。もう一回」
「…………」
「あんたは今、クローゼットの中じゃない。ここは地下。あたしがいる。ミレイユもいる。モリもいる」
「……ああ」
「見てるだけの人は、記録を総ざらいしたりしない。倒れる寸前でも、手を動かしてたでしょ。あんたは、ずっと動いてる」
その声が、じんわりと染みた。
肩に置かれた手が、あたたかかった。
「……大丈夫、だ」
「嘘」
「嘘じゃない。大丈夫に、なってきた」
「よし」
彼女は、手を離さなかった。
モリが、僕の足にしがみついていた。木彫りを胸に抱えたまま、きゅい、と震える声で鳴いている。
ミレイユが、無言で僕らを見ていた。
視線に、気づく。
「……すみません。取り乱しました」
「謝るところじゃないわ」
ミレイユが、静かに言った。
「恐怖は、観察を鈍らせるけれど、恐怖を知っている観察者は、強いのよ」
彼女らしくない、柔らかい声だった。
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選択の時が来た。
僕は、ポッチの前に膝をついた。
目の奥が、疼いている。
見たい、と思った。何が起きているのか。線は、どうなっているのか。死ではないと、確かめたい。
けれど、これは、これまでの「見たい」とは違った。
焦りでも、証明でもない。
――この子を、助けたい。
その一点だけだった。
「シルヴィア」
「うん」
「前に、言ってくれた」
「覚えてるわ」
「使う時は、呼んでくれ。隣で見てる、と」
「呼ばれるのを、待ってた」
彼女は、僕の隣に膝を並べた。
「使うの?」
「三秒だけ。ポッチの線の状態を見る。それ以上は、開かない」
「分かった。あたしが数える」
「ミレイユ」
「ええ」
「僕の目に何か起きたら、診てください」
「当然よ。そのために来たのだから」
ミレイユは、革鞄から小瓶を取り出して、掌に握った。
僕は、深く息を吸った。
動かないための立ち方。慌てない顔。
目を、閉じる。
そして、開いた。
【生態眼】が、開く。
視界が滲んだ。灯りの輪郭が溶け、世界が薄い膜の向こうへ退いていく。
ポッチの体の中に、線が見えた。
「いち」
シルヴィアの声が、遠くで響く。
黒い体の内側に、細い線が幾筋も走っていた。進化の道筋。分かれ目。前に見た、あの枝。
けれど、それが、動いていない。
枝が、伸びていなかった。
内側へ、畳まれていた。
花が、つぼみに戻るように。傘が、静かに閉じるように。すべての線が、中心の核へ向かって折り重なっている。
「に」
目の奥が、焼ける。
その時だった。
視界の隅で、何かが、よぎった。
石の空洞のような、深い暗がり。壁一面に、円と線が刻まれている。ひどく静かな、冷たい場所。
見たことがないはずだった。
それなのに、胸が、締めつけられるほど懐かしい。
「さん!」
「閉じて!」
僕は、目を閉じた。
熱い涙が、頬を伝った。
痛みが、遅れて波のように押し寄せた。歯を食いしばって、堪える。
「レン!」
肩を抱かれた。
「大丈夫。大丈夫だ。三秒、ちゃんと守った」
「……ああ」
声が、掠れた。
額に、濡れた布が当てられた。ひやりとした感触。ミレイユの、冷たい指先だった。
「動かないで。瞳孔の反応を見るわ」
まぶたを、そっと持ち上げられる。
灯りが、鋭く痛い。
「……対光反応、あり。出血なし。一時的な充血と流涙。許容範囲よ」
「よかった」
シルヴィアが、深く息を吐いた。
僕は、荒い呼吸のまま、見たものを口にした。
「線は、消えてない」
「ええ」
「枝が、内側に畳まれてた。伸びるのをやめて、中心に集まってる」
「死では、ないのね」
「たぶん。何かを、待ってる」
「何を?」
「分からない」
正直に答えた。
「ただ、壊れてはいない。形を保って、全部を中に収めてる。守ってる、みたいに」
ミレイユが、静かに頷いた。
「つまり、無理に起こす段階ではないということね」
「はい。待つのが、正解だと思います」
「根拠は、三秒の観察?」
「三秒と、今までの記録です。三歩の距離。ポッチは、近づきすぎない。急がせない。そういう子だと思うから」
自分で言って、納得した。
ミレイユが、記録帳に手を伸ばした。
「書いていい?」
「お願いします」
彼女の羽根ペンが、さらさらと紙の上を走った。
『生態眼・三秒使用。線は消失せず、内側に畳まれた状態。停止は死に非ず。待機と推定』
その一行の下に、彼女は小さく付け足した。
『観察者の目に代償あり。使用は最小限に』
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僕は、壁にもたれて座り込んでいた。
涙は止まっていたが、目の奥が、ずきずきと脈打っている。ミレイユが、小瓶の中の冷たい液を、布に染み込ませて目元に当ててくれていた。
「しばらく、じっとしていなさい」
「はい」
「これ以上、無茶をしたら、診ないわよ」
「分かってます」
「本当に?」
「本当です」
「……よろしい」
言い方が、シルヴィアそっくりだった。
シルヴィアは、反対側の壁際で、モリを膝に乗せていた。モリは、木彫りを抱えたまま、ポッチのほうを見つめている。
「大丈夫よ。まだ、大丈夫」
「きゅい……」
小さな声だった。けれど、さっきより震えは収まっている。
地下に、静けさが戻った。
ポッチは、三歩の距離で、動かないまま。
けれど、その沈黙は、さっきまでと違って感じられた。
死の静けさではない。
待つものの、静けさだ。
「ねえ」
ミレイユが、ふいに言った。
「もう少し、調べたいことがあるの」
「何を、ですか」
「この子の変化と、粉と、あなたの記録の全部。数日、ここに泊まり込んで観察したい」
「ここ、とは」
「この地下に」
宿の地下。
つまり、僕らの宿に。
「いや、それは」
言いかけた時だった。
「はあっ!?」
シルヴィアの声が、地下に響き渡った。
「泊まる!? ここに!?」
「何か問題がある?」
「問題しかないでしょ!」
「ポッチの観察には、夜間の変化が重要なのよ。私は夜に強いし、ちょうどいいわ」
「あんた、年頃の男と同じ屋根の下に」
「あなたが言うの?」
「あたしは別! 仲間だもの!」
「私も、協力者よ」
「そうじゃなくて!」
地団駄を踏みそうな勢いだった。
モリが、きゅい、と怯えたように縮こまる。
僕は、疲れた頭で、二人を見比べた。
さっきまでの張りつめた空気が、嘘のように、ほどけている。
……ありがたい、のかもしれない。
「宿の主人に、聞いてみます」
「頼むわ」
「ちょっと、レン!」
「部屋は、別にします。それなら」
「部屋が別でも!」
「シルヴィア」
「何!」
「ポッチのためだ」
その一言で、彼女は、ぐっと詰まった。
唇を噛んで、僕を睨んで、それから、ふいと顔を背けた。
「……分かってる。分かってるわよ」
「ありがとう」
「別に! 許したわけじゃないから!」
耳の先が、赤かった。
ミレイユは、その様子を、興味深そうに眺めていた。
「面白い反応ね」
「うるさい!」
地下に、小さな笑い声が落ちた。
モリが、シルヴィアの膝の上で、きゅい、と鳴いた。さっきより、ずっと柔らかい声だった。




