第27話 最適な一口
翌日の昼過ぎ。ミレイユの家の扉は、今日は割れる音もなく開いた。
「時間ぴったりね。偉いわ」
銀髪のショートボブに丸眼鏡。白衣はきちんと乾いていて、ボタンは胸の下まで留まっている。昨日の件を思い出しかけて、僕は慌てて視線を卓に固定した。
「昨日の白衣は」
「洗ったわ。それより、記録を」
話を切られた。
作業台の上には、すでに秤と乳鉢、白紙の束が並べられていた。モリは僕の膝の上で、木彫りを抱えたまま鼻をひくつかせている。
「まず、モリの食事記録から成分表を作る。あなたの記録の、食べたものと時刻、傷の状態の変化を読み上げて」
「はい。五日目の朝は、干し肉の端をふやかしたものと粥。夕方に、傷の縁の赤みが引き始めました」
「干し肉の塩分は?」
「分かりません」
「いいの、推定するわ。次」
ミレイユの羽根ペンが、紙の上を走る。数字と記号が、みるみる並んでいった。僕の観察が、彼女の手で別の言葉に変わっていく。
「面白いわね。傷の治りが良かった日は、前日の夕食に、骨のついた肉を煮たスープが入っている」
「シルヴィアが、野ウサギを煮てくれた日です」
「骨髄ね。脂質とミネラルが豊富。皮膚の再生に必要な材料が揃うわ」
「あたしのスープ、役に立ってたの?」
壁際で腕を組んでいたシルヴィアが、少し身を乗り出した。
「偶然にしては、良い選択だったわ」
「偶然って言い方、引っかかるんだけど」
「狩人の勘、と言い換えましょうか」
「最初からそう言って」
「事実を述べただけよ」
ふたりの間で、小さく火花が散った。僕は黙って記録帳をめくった。巻き込まれたくない。
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試作は、一時間もしないうちに完成した。
小さな椀に、褐色のどろりとした粥が盛られている。立ちのぼる匂いは、薬草と鉄錆と、なぜか焦げたゴムが混ざったような代物だった。
「栄養価は完璧よ。亜鉛、鉄、良質な脂質、それに」
「匂いが」
「匂いは最適化の対象外」
「モリは匂いで食べるかどうか決めます」
「そんな非科学的な」
「観察結果です」
ミレイユは、むっと口を結んだ。それでも椀を卓に置き、モリの前へ、そっと押し出した。
モリは、鼻を近づけた。
きゅ、と短く鳴いて、顔を背けた。
「……拒否ね」
「はい」
「一口も?」
「見てください。耳が後ろに倒れています。嫌悪の反応です」
「データ上は完璧なのに」
ミレイユが椀を睨みつける。肩が、わずかに落ちた。
「また、これ」
「え?」
「何でもないわ」
早口だった。
「前にも、言われたのよ。理屈は合っているのに、結果が伴わない、二流の研究だって」
言ってから、彼女は自分の口を押さえた。
僕は、聞こえなかったふりをしようとした。けれど、声が先に出た。
「二流なら、僕の記録帳を、あんなふうには読めません」
ミレイユが、顔を上げた。
「どうして、あなたが言い切れるの」
「昨日、あなたは数字が出る前の観察を、分かっていると言いました。それは、一流の人の言葉です」
「…………」
眼鏡の奥の瞳が、揺れた。
「……ばかね」
小さく呟いて、彼女は視線を逸らした。
「余計なことを言ってしまったわ。忘れて」
「忘れません。記録します」
「記録しないで!」
その瞬間だった。
「ねえ」
シルヴィアが、椀を覗き込んでいた。
「匂いが問題なら、あたしに任せてくれない?」
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「獣の子が好む匂いは、決まってるの」
シルヴィアは、棚から勝手に小鍋を引き寄せた。
「母親の匂い。温かくて、脂が焦げすぎてなくて、ほんのり甘い」
「甘い?」
「乳の匂い。ゴブリンは哺乳類じゃないでしょうけど、群れで育つ子は、似た匂いに安心するわ」
「根拠は?」
「経験」
「非科学的ね」
「結果が出れば、いいんでしょ」
ミレイユが、ぐっと詰まった。
シルヴィアは気にせず、鍋に水と骨髄を入れ、火にかけた。
「この調合を、そのまま使うの。骨髄はそのまま、薬草は後から。火は弱く、煮立てない。煮立てると、匂いが鋭くなるから」
「煮立てない理由は?」
「揮発成分が飛ぶ。あんたの得意な言葉で言えば、そうなる」
「……なるほど」
ミレイユが、眼鏡を押し上げた。
「理論が通っているわ。続けて」
「偉そうね」
「事実よ」
ふたりの目が、一瞬だけ合った。
どちらからともなく、ふっと息が漏れた。笑ったのだろう。
試作二号は、淡い乳白色になった。
立ちのぼる匂いは、先ほどとは別物だった。骨の甘さと、ほのかな草の香り。僕まで、腹が鳴りそうになった。
「どうぞ」
椀を、モリの前に置いた。
モリは、鼻をひくつかせた。
耳が、ぴくんと前に傾いた。
「きゅ?」
小さな手が、椀の縁に触れた。
そっと、指先をつけて、舐めた。
目が、まん丸になった。
次の瞬間には、両手で椀を抱え込んでいた。
「食べた!」
シルヴィアが、小さく拳を握った。
「成功したわね」
ミレイユが、記録を取る手を忙しなく動かす。
「摂取開始まで三十秒、完食まで十分。耳の角度は終始前方。これは」
そこで、ミレイユの手が止まった。
モリが、椀を空にして、顔を上げていた。
鼻の頭に、乳白色の粥がついている。
そのまま、よたよたと、ミレイユの膝の前まで歩いていった。
「ちょっと、あなた。汚れるわ」
「きゅい」
モリは、ミレイユの白衣の裾を、指でつまんだ。
それから、彼女の指先に、鼻をこすりつけた。
ミレイユの身体が、びくりと固まった。
「…………」
「懐いたな」
「懐いて、いる……?」
声が、裏返っていた。
「これは、データ外の反応だわ。対象が、自発的に接触を」
「ミレイユ」
「な、何」
「観察対象じゃなくて、お礼を言われてるんですよ」
「お礼」
彼女は、モリを見下ろした。
金色の目が、まっすぐ見上げている。
眼鏡の奥で、ミレイユの表情が、ふっと緩んだ。
「……そう」
指先で、モリの頭にそっと触れた。
驚いた様子で、すぐに引っ込めて、それからもう一度、そっと撫でた。
「温かいのね」
小さな声だった。
僕は、何も言わずに、その光景を目に焼きつけた。
人を研究対象としてしか見られない、と彼女自身が自嘲していた。けれど今、彼女の指は、確かに、ひとつの命に触れていた。
後ろで、シルヴィアが、ほんの少しだけ、笑った気がした。
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片付けの最中、僕は、思い切って聞いた。
「粉の分析は、どうでしょうか」
ミレイユの手が、ぴたりと止まった。
「まだ、結果は出ないわ」
「そうですか」
「時間がかかるの。数日と言ったでしょう」
声の調子が、ほんの少しだけ硬かった。
昨日の、あの低い声を思い出す。けれど、僕は追及しなかった。
「分かりました。待ちます」
「……ありがとう」
彼女が、ほっとしたように息をついた。
その瞬間を、僕は見逃さなかった。
見逃さなかった上で、書かなかった。
記録帳には、ただ一行だけ。
『ミレイユ。粉について「まだ結果は出ない」。声が硬い』
事実だけを残す。意味づけは、しない。
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帰り際、扉の前で、ミレイユが言った。
「ねえ」
「はい」
「ポッチという子を、見に行ってもいい?」
「ポッチを?」
「あなたの記録で、一番気になるの。静止期に入ったまま、動かないんでしょう。一度、実物を見たいわ」
少し迷った。
けれど、彼女の目は、昨日の測定の時のような、好奇心だけの目ではなかった。
心配していた。
「お願いします」
「今から、行っていい?」
「え、今から」
「善は急げ、と言うでしょう」
「あんた、夜は研究、昼は寝てるんじゃなかったの」
シルヴィアが、呆れたように言った。
「今日は、例外よ。気になって眠れそうにないもの」
言いながら、ミレイユは白衣のポケットに手を突っ込み、小さな革鞄を引っ張り出した。
「準備はできているわ。行きましょう」
「できてたの!?」
「さっき、鍋を見ている間に」
「いつの間に」
そんなやり取りをしながら、僕らは三人と一匹で、宿へ向かった。
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宿の食堂では、主人が、いつもの調子で皿を拭いていた。
「おう、帰ったか。……客か?」
「錬金術師のミレイユです。ポッチを診てもらいます」
「薬屋の次は、錬金術師か。お前、顔が広くなったな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
主人は、ぶっきらぼうに顎を地下へしゃくった。
階段を降りる。
地下は、いつもの冷たさだった。
ポッチは、三歩の距離で、影の中にいた。
体表の光は、もう、ほとんど消えかけている。
「ポッチ」
呼んでも、反応はない。
ミレイユは、僕の隣で膝をついた。小さな灯りを手に、慎重に顔を近づける。
「外見上は、無傷ね。粘性も保たれている」
「脈は、ありました。昨日の夜も」
「脈……」
彼女は、ポッチの体表に、指先を近づけた。
触れる寸前で、止めた。
そして、眉をひそめた。
「…………」
「どうしました」
「少し、待って」
彼女は、革鞄から、細い管のようなものを取り出した。
ポッチの体に近づけ、耳を澄ますように、じっと動かなくなった。
地下の静けさの中で、時間が流れた。
一分。二分。
ミレイユの顔から、すうっと、血の気が引いていった。
「ミレイユ?」
「……レン」
声が、掠れていた。
「この子、呼吸していないわよ」




