第26話 薬草の匂いの家
町の東の端に近づくと、風向きが変わった。
乾いた草と、酢のような酸っぱい匂い。その奥に、甘ったるい香りが混じっている。
「ここよ」
シルヴィアが足を止めたのは、薬草の束が軒先にぶら下がった、低い石造りの家だった。窓は、色の違う瓶で埋め尽くされている。
モリは、僕の腕の中で鼻をひくつかせていた。木彫りを抱えたまま、きゅい、と小さく鳴く。
「大丈夫だ。僕らがいる」
「ポッチは?」
「宿に残した。静止したままだから、動かせない」
扉に手を伸ばした、その時だった。
ガシャン!
家の中で、ガラスの砕ける音が響いた。
「……あ」
続いて、女性の声。
「あ、やっちゃった」
気の抜けた、のんびりした声だった。
僕が固まっていると、シルヴィアが「はいはい、いつものね」と呟いて、ためらいなく扉を押し開けた。
「ミレイユ! 入るわよ!」
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床一面に、薬瓶の破片が散らばっていた。
その真ん中に、白衣の女性がしゃがみ込んでいる。
銀髪のショートボブ。丸い眼鏡。年は、僕より少し上だろうか。割れた瓶の破片を、素手でつまもうとして、指先をじっと眺めていた。
「動かないで。素手は駄目」
「あら、シルヴィア。早かったじゃない。昼過ぎって言ったのに」
「今、昼過ぎ」
「そう? 時計を見ていないわ」
ミレイユは、緩慢に立ち上がった。
そして、気づいた。
白衣の前身頃が、びしょ濡れだった。
割れた瓶の中身を、浴びたのだろう。透明な液体が、胸元から腰にかけて、べったりと布を濡らしている。
白衣は、薄い綿だった。水を吸うと、驚くほど透ける。
その下に着ていたのは、黒い薄手の肌着だった。レースの縁取りが、濡れた布の向こうに、くっきりと浮かんでいる。
そして、その内側に、豊かな丸みがあった。
濡れて張りついた白衣は、おっぱいの形を、そっくり写し取っていた。左右の膨らみの輪郭。持ち上げられた下側の、重たげな曲線。黒いレースの下で、淡い色の頂が、ほんのりと影を作っている。
彼女が息をするたびに、布が、ゆるやかに上下した。
「……っ」
僕は、反射で天井を見た。
「ミレイユ、前! 濡れてる!」
「ああ、これ? 中和剤よ。皮膚には無害」
「そうじゃなくて! 透けてるの!」
「ふうん」
ミレイユは、自分の胸元をちらりと見下ろした。
「確かに。布の透過率が上がっているわね」
「感想がそれ!?」
「他に何を言えばいいの」
平然と眼鏡を押し上げる。
その仕草で、胸の布が、ぷるん、と小さく揺れた。
僕は、必死で壁の薬瓶を数えていた。
一、二、三、……。
「そこの彼」
声が、飛んできた。
「あなたが例の育成師でしょう。レン・アシュベル」
「は、はい」
「天井ばかり見ていると、首を痛めるわよ」
「いえ、あの、着替えを」
「必要ないわ。乾くから」
「僕が必要です」
「面白い人ね」
くすり、と笑う気配がした。
「失礼。観察対象として興味があるだけよ」
恐る恐る、視線を戻した。
丸眼鏡の奥の瞳が、僕を真っすぐ見つめていた。
理知的で、冷静で、そのくせ、底のほうに、妙な艶がある。濡れた布の透け方よりも、その視線のほうが、よほど落ち着かなかった。
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結局、ミレイユは「面倒だから」と言って、着替えずに作業台へ戻った。
シルヴィアが無言で、自分の外套を彼女の肩に掛けた。ミレイユは「暑いのだけど」と文句を言いながら、結局羽織ったままだった。
僕らは、散らかった卓の片隅に座った。
家の中は、研究室というより、書類と瓶の森だった。壁一面の棚に、乾燥した草、色とりどりの粉、それに、ラベルのない小瓶が並ぶ。
その中に、見覚えのあるものが、ちらりと目に入った。
黒い欠片が入った、小さな瓶。
一つや二つではない。五つ、六つ、並んでいる。艶のない、ざらついた割れ口。
僕は、息を止めた。
「……それ」
「ん?」
「いえ。何でも」
口を閉じた。聞くのは、あとだ。
ミレイユは、モリを見るなり、目を輝かせた。
「ゴブリンの幼体! 傷は右腕の火傷状、治癒経過は良好。皮膚の再生の色が、通常より薄いわね」
「触れないでください。人の手を怖がります」
「触らないわ。見るだけ」
言いながら、彼女はモリの目の高さまで、膝を折った。
銀髪が、さらりと流れた。濡れた白衣が、前屈みの姿勢で、胸元にたっぷりと皺を寄せる。布の合わせ目が、ふわりと浮いて、黒いレースの縁と、柔らかな谷間が、のぞいた。
けれど、彼女の目は、モリの腕の傷だけを見ていた。
「面白い。再生した皮膚の下に、微細な線が走っているわね。色素の沈着というより、構造に近い」
「構造……」
「あなたの記録帳に、似たものが書かれているでしょう。刻印状の筋、と」
「見せてもいないのに、なぜ」
「推測よ。あなたは、そういうものを、書き留める人だと思ったから」
一瞬、返事に詰まった。
ミレイユは、にやりと笑った。
「記録を、見せなさい」
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記録帳を渡した。
彼女は、受け取るなり、ページを繰り始めた。
最初は、斜めに読むような速さだった。けれど、すぐに指が止まった。
ゆっくりと、一行ずつ、目で追う。
沈黙が続いた。
窓の外で、風が瓶を鳴らす。モリが、木彫りを抱いて、僕の袖を掴んだ。
やがて、ミレイユが、顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、まるで別人のように、見開かれていた。
「……あなた、これを、一人で?」
「はい」
「時刻、環境、個体の反応、距離、仮説と検証。しかも、仮説に『断定せず』と書き添えて、結果と切り分けている」
「癖なんです」
「いい癖よ。学会の人間でも、できないわ」
言葉が、真っすぐに胸に落ちた。
三年間、誰にも言われなかったことだった。
「鑑定は、白紙なのよね」
「はい」
「馬鹿ね、ギルドは」
さらりと、そう言った。
「数字が出なければ価値がない、と思っている連中は、数字が出る前に何を観察するかを、知らないのよ」
シルヴィアが、「でしょ?」と、嬉しそうに僕を肘で突いた。
僕は、うまく返事ができなかった。
「それで」
ミレイユが、記録帳を閉じた。
「協力してあげる条件を、言うわね」
「条件?」
「ひとつ。この記録を、今後、全部見せること。ふたつ」
彼女は、指を二本立てた。
「あなた自身のデータを、ちょうだい」
「僕の?」
「身体測定よ。脈、体温、目の状態。育成師が対象に与える影響を、記録したいの」
「それは」
「拒否する権利は、あるわ。でも、拒否すると、私の協力は半分になるわよ」
「断れないじゃないですか」
「そうね。ごめんなさい、研究狂いなの」
悪びれずに言う。
シルヴィアが、後ろで小さく咳払いをした。
「あたしが同席する」
「結構よ。変なことはしないから」
「そういう問題じゃない」
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測定は、窓際の椅子で始まった。
「上着を脱いで」
「え」
「腕の脈を取るの。袖をまくるだけでいいわ」
「ああ」
袖をまくり、腕を差し出す。
ミレイユは、僕の向かいの椅子に腰を下ろした。濡れた白衣は、いつの間にか半分乾き、肩の外套が滑り落ちている。
彼女の指が、僕の手首に触れた。
冷たかった。薬品に慣れた指先は、氷のように滑らかで、脈の上をそっと探ってくる。
「速いわね」
「緊張してます」
「そう? 私のおっぱいでも見てたからじゃなくて?」
「見てません」
「見てたわ。何度か」
心臓が、跳ねた。
「冗談よ」
ミレイユは、くすくす笑った。
「次は目。顔を上げて」
顎に、指がかかった。
顔が、近い。
丸眼鏡の奥の瞳が、僕の瞳を覗き込んでいる。薬草と、少し甘い消毒液の匂いが、鼻先をかすめた。
彼女は片手で眼鏡を押し上げ、もう片方の手で、僕のまぶたをそっと開いた。
その姿勢で身を乗り出すと、前身頃が、僕の目の前に寄った。
乾きかけた白衣は、まだ薄く透けていた。繊維の隙間から、黒いレースの下の肌が、うっすらと蜜色に見える。息を吸うたびに、布がふくらんで、柔らかな丸みが、僕の視界の端をかすめていく。
――見るな。
必死に、彼女の瞳だけを見た。
眼鏡の縁に、小さな光が映っている。その奥で、瞳孔が、わずかに広がった。
「……充血、軽度。毛細血管が拡張している。慢性的な疲労ね」
「はい」
「使ってないのに、この状態?」
「使ってません」
「ふうん」
彼女の指が、そっと、僕のまぶたの下を撫でた。
「無理をしている目ね。ずっと、酷使してきたのが分かるわ」
言葉の調子が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
僕は、息を呑んだ。
その距離で、彼女がふっと我に返った。
「……あ」
自分の顔と、僕の顔が、息のかかる位置にあることに、今さら気づいたらしい。
眼鏡の奥の瞳が、一瞬、泳いだ。
頬に、うっすらと赤みが差した。
「距離が、近すぎたわね」
「は、はい」
「測定のためよ。他意はないから」
「分かってます」
「……本当に?」
その声が、小さかった。
さっきまでの余裕が、どこかへ消えている。ミレイユは、慌てたように眼鏡を直し、薬瓶へ手を伸ばした。
「ち、血圧計を」
手が滑った。
瓶が、棚から転がり落ちそうになる。
「あっ」
彼女が前のめりに飛びつき、瓶を受け止めた。
勢い余って、僕の膝に両手をついた。
至近距離で、白衣の胸元が、ぐっと寄った。
薄い布越しに、おっぱいの重みが、僕の腿の上すれすれで揺れた。ふるん、と。瓶を抱えたまま、彼女が体勢を立て直す。そのたびに、布が滑り、肩口が覗く。
「取れた。……危なかったわ」
ふう、と息を吐く。
けれど、顔を上げた彼女と、目が合った。
眼鏡が、ずれていた。
「…………」
「…………」
「観察対象として興味があるだけよ」
早口だった。
「……今のは、あなた個人にも、少し」
最後だけ、ひどく小さな声だった。
僕は、返事ができなかった。
後ろから、シルヴィアの「ごほん!」という盛大な咳払いが響いた。
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測定は、それ以降、ほとんど事務的に進んだ。
ミレイユは、僕の脈、体温、視力の揺れを、淡々と書き留めていく。その間、時折、手が止まって、ちらりと僕を見る。目が合うと、慌てたように視線を逸らす。
シルヴィアは、腕を組んで、壁に寄りかかっていた。口数が減った。
そして、粉の包みを出したのは、測定の最後だった。
「昨夜、東の畑道で、杖の老人が落としたものです。青白く光ります。ポッチが、これに反応して動かなくなりました」
卓に、紙包みを置いた。
ミレイユが、手を伸ばして、紙を開いた。
その瞬間。
彼女の表情が、止まった。
薄い光が、眼鏡に反射する。さっきまでの、軽やかな笑みが消えていた。
「……これ」
声が、低かった。
「どこで?」
「畑道で。老人が落としていました」
「老人」
「杖をついて、左手で……」
「…………」
ミレイユは、粉を、指先でつまんだ。
そのまま、長いこと見つめていた。
窓の外の風が、瓶を、からんと鳴らした。
「ミレイユ?」
シルヴィアの呼びかけで、彼女は、はっと顔を上げた。
「……いえ。珍しい物質だと思って」
軽い調子に戻っていた。けれど、指先が、かすかに震えている。
「分析に回すわ。結果は、数日後に」
「何か、ご存じなんですか」
「いいえ」
即答だった。
「知らないわ。……今のところは」
最後の一言を、僕は聞き逃さなかった。
視線の端で、棚の黒い欠片の瓶が、ちらりと光った。
聞かない。今は、聞くべきじゃない。
「分かりました。お願いします」
「ええ」
ミレイユは、粉を再び紙に包み、小箱へしまった。
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別れ際、彼女は戸口で腕を組んで立っていた。
「明日から、モリの食事の再設計を始めるわ」
「ありがとうございます」
「あなたも、手伝いなさい」
「僕も?」
「当たり前でしょう。観察できる人がいなければ、調合は始められないの」
眼鏡の奥で、瞳が、悪戯っぽく笑った。
「朝は来ないでね。昼過ぎ」
「聞いてます」
「よろしい」
そして、小さく付け加えた。
「……楽しかったわ。久しぶりに」
扉が閉まる直前、彼女の頬が、ほんのり赤く見えた。
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帰り道、夕焼けが石畳を染めていた。
モリは、僕の腕の中で、うとうとしている。
隣を歩くシルヴィアは、ずっと黙っていた。
しばらくして、僕の袖が、くい、と引かれた。
「……どうした」
「別に」
「怒ってるのか」
「怒ってない」
「じゃあ」
「鼻の下、伸びてた」
ぼそり、と呟かれた。
「は?」
「ミレイユの、ところで。ずっと」
「伸びてない」
「嘘が下手」
「本当だ。僕は、記録帳を褒められて」
「それは、知ってる」
袖を握る指に、力がこもった。
シルヴィアは、顔を逸らしたまま、夕焼けを見ていた。
「……あたしだって、褒めてた」
「え」
「何でもない!」
ぷい、と顔を背けて、彼女は先に歩き出した。
耳の先が、夕日よりも赤かった。
僕は、モリを抱え直して、慌てて後を追った。




