第29話 地下の同居人
「却下だ」
宿の主人は、ミレイユの革鞄を片手で持ち上げたまま言った。
「何が入ってる」
「試薬と器具よ。ごく少量」
「ごく少量で、なんで鞄が石みたいに重い」
「ガラスは重いの」
「中身を出せ」
卓の上に、瓶がひとつずつ並べられていく。赤、青、無色。ミレイユは一本ごとに「安全」「概ね安全」と言い添えた。
主人が、最後の一本をつまみ上げた。
「これは」
「揮発性が高いから、栓を絶対に緩めないで」
「……『概ね』も『安全』もつかねえじゃねえか」
「注意書きよ」
「没収だ」
「それがないと、分析が」
「宿が吹き飛ぶほうが困る」
ミレイユは唇を尖らせた。眼鏡の奥の目が、僕に助けを求めてくる。
「レン」
「僕に振らないでください」
「薄情ね」
「宿の主人の判断が正しいです」
結局、揮発性の瓶三本は主人の戸棚に鍵つきで預けられた。使う時は、主人の立ち会いが条件になった。
「宿代は、前払いだ」
「いくら」
「ひと月分」
「高いわ」
「地下の隣の空き部屋だ。文句があるなら、外で寝ろ」
「払うわ」
即答だった。研究のためなら、金は惜しまないらしい。
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部屋割りでは、もうひと悶着あった。
地下の階段脇にある空き部屋は、元は酒樽の置き場で、寝台が二つ入るのがやっとの広さだった。
「あたしも、ここで寝る」
シルヴィアが、腕を組んで宣言した。
「宿の二階に、君の部屋があるだろう」
「あるけど、ここに移る」
「どうして」
「見張りよ」
「何の」
「ミレイユの」
「私は観察対象ではないのだけど」
ミレイユが、さらりと言った。
「あなたは、観察する側でしょ。レンのデータを取る時、私がちゃんと節度を守るか、見張るの」
「節度なら守るわ」
「昨日の測定、近すぎた」
「測定には必要な距離よ」
「目と目が三十センチなのが?」
「必要です」
「必要じゃない!」
モリが、きゅい、と困ったように鳴いた。
僕は二人の間で、記録帳を抱えて固まっていた。
「あの」
「何!」
「何かしら」
「寝台は二つしかありません」
沈黙が落ちた。
「僕は、ポッチの傍で寝ます。三歩の距離で、毛布で」
「あんた、それ、ずっとじゃない」
「ずっとです」
「体、痛めるわよ」
「慣れました」
「慣れていいことじゃない」
これは、前にも聞いた台詞だった。
結局、決まったのは次の配置だった。
寝台のある空き部屋は、シルヴィアとミレイユが共用する。モリは、シルヴィアの寝台の足もとの籠。僕は、これまでどおり、ポッチのいる地下の主室。壁一枚、扉一枚の距離。
「扉は、開けておくわ」
「閉めて」
「開ける」
「閉めて!」
「ポッチの観察に、夜間の変化の音が必要なの」
「じゃあ、半分」
「半分?」
「指一本ぶんだけ開ける」
「意味が分からないわ」
「あたしの安心の問題!」
最終的に、扉は指二本ぶんの隙間を空けて落ち着いた。
僕は黙って頷いた。何も言わないのが、一番安全だった。
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ミレイユの生活は、僕の想像を超えていた。
夜通し、ポッチの傍で観察を続ける。体表の温度、核の脈、周囲の気温。一時間ごとに、小さな文字で記録を取る。
朝になると、僕の脈と体温、目の状態を測る。それから、ようやく寝る。
その繰り返しだった。
三日目の朝、僕は測定のあとで、彼女の手元を見ていた。
指先が、ひどく冷たい。眼鏡の下の目の縁が、薄く赤い。
「ミレイユさん」
「何」
「最後に食べたのは、いつですか」
「……昨日の昼、かしら」
「それは食べたとは言いません」
「失礼ね。固形物は摂取したわ」
「何を」
「干しイチジクを二粒」
「睡眠は」
「ここに来てから、合計で五時間くらい」
「三日で?」
「集中している時は、そんなものよ」
僕は、ペンを置いた。
そして、少し考えて、言った。
「あなたが倒れたら、ポッチの観察が止まります」
「私は倒れないわ」
「倒れる人の言い方です」
「……」
「それに、僕が心配なんです」
ミレイユの動きが、止まった。
眼鏡の奥の瞳が、ぱちりと瞬いた。
「……心配?」
「はい」
「私を?」
「他に誰が」
「…………」
彼女は、手に持っていた羽根ペンを、ことりと卓に置いた。
それから、小さく口を開けて、閉じた。
「……人に」
「はい」
「心配されたのは、久しぶりだわ」
声が、ひどく平らだった。
感情を、置き忘れたような声だった。けれど、指先が、白衣の袖をきゅっと握っていた。
僕は、何も言えなかった。
部屋の入口で、足音がした。
「ミレイユ」
シルヴィアだった。両手に、木の椀を持っている。
「座って」
「何を」
「食べなさい。いいから」
湯気の立つ椀が、卓に置かれた。
乳白色のスープに、細く刻んだ野菜と、ほぐした肉が沈んでいる。モリ用の試作二号を、人向けに濃く仕立て直したものだった。
「これは」
「あんたのため。倒れられたら迷惑だから」
「迷惑……」
「迷惑よ。分かる?」
「……ええ」
ミレイユは、匙を取った。
一口、含んだ。
ふっと、肩が落ちた。
「……おいしい」
「当たり前でしょ」
「骨髄の出し方が、絶妙ね」
「分析しないで、黙って食べて」
「はい」
素直に頷いた彼女を見て、シルヴィアは、ふいと顔を背けた。
けれど、口の端が、ほんの少し緩んでいた。
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夜が来た。
地下の主室は、冷たく、静かだった。
ポッチは、三歩の距離で、影に沈んでいる。核の脈は、日に日に、ほんのわずかずつ、間隔が縮んでいるようにも思えた。
「ミレイユさん」
「何」
「そろそろ、休んでください」
「あと一時間」
「三十分前も、そう言いました」
「……」
彼女は、長い溜め息をついた。
そして、少しためらってから、言った。
「ポッチの傍で、眠ってもいい?」
「傍で?」
「ここなら、変化にすぐ気づけるもの。別室だと、どうしても、聞き逃すかもしれない」
「条件があります」
「何」
「三歩の距離で」
ミレイユが、ぱちりと瞬いた。
それから、くすりと笑った。
「あなたらしいわね」
「ポッチの距離です。近づきすぎず、遠すぎず」
「分かったわ。測って」
僕は、床に白墨で線を引いた。三歩ぶん離れた場所に、毛布が敷かれる。
彼女は、その上に、白衣のまま、小さく丸まった。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「……あなたも、寝なさいよ」
「寝ます」
「嘘が下手ね」
「あなたに言われたくありません」
「ふふ」
静かな笑い声が、地下に溶けた。
灯りを落とす。
闇の中で、ポッチの脈の音だけが、ほんのかすかに響いていた。
とく。……とく。
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どれくらい経っただろう。
浅い眠りの底で、声が聞こえた気がした。
「……せんせい……」
僕は、目を開けた。
ミレイユだった。
毛布の中で、眉を寄せている。眼鏡は外され、枕もとに置かれていた。銀髪が、額に張りついている。
「……せんせい、ちがう……わたし、にりゅうじゃ……」
寝言だった。
苦しげな、子どもみたいな声だった。
僕は、起き上がらなかった。
ただ、闇の中で、彼女の呼吸が整うのを、待った。
やがて、声は消えた。
穏やかな寝息に変わった。
僕は、息を殺したまま、天井を見上げた。
研究狂いの錬金術師。毒舌で、無自覚に人を観察する癖がある人。
その人が、眠りの中では、誰かに許しを乞うていた。
聞かなかったことにしよう、と思った。
けれど、記録帳には、一行だけ残した。
『夜。ミレイユ寝言。「先生」。内容は記さない』
意味は、書かない。
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翌朝、僕が目を覚ますと、ミレイユはもう起きていた。
荷物の整理をしていた。
鞄の底から、一冊の手記を取り出して、すぐにしまい直す。古びた革表紙で、角が擦り切れていた。
僕と目が合うと、彼女は何でもないように微笑んだ。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨夜は、よく眠れたわ。ありがとう」
「いえ」
「それで、今日は」
彼女は、白衣の袖をまくりあげた。
「分析で、新しい試薬を試したいの。反応を確かめるための、少し特殊なものよ」
「安全ですか」
「概ね」
「……主人の立ち会いが必要では」
「大丈夫よ。私が、自分で確かめるから」
その言い方が、妙に引っかかった。
僕が口を開く前に、ミレイユは小さな瓶を取り出していた。
「大丈夫」
彼女は、栓を抜いた。
「ほんの一滴だもの」




