第24話 動かない三歩
翌朝になっても、ポッチは動かなかった。
地下に降りて、僕はまず脈を確かめた。体表に指を近づける。ひやりとした冷たさの奥で、とく、とく、と小さな鼓動が返ってきた。
「……生きてる」
大きく息を吐いた。膝から力が抜けそうになる。
「一晩中、あの位置のままよ」
背後で、シルヴィアが低く言った。彼女は夜明け前から、ここで見張っていたらしい。目の下に、うっすらと影がある。
「寝てないのか」
「少しは寝たわよ。壁にもたれて」
「それは寝たって言わない」
「あんたが言うな」
言い返せなかった。
粉の包みは、昨夜の位置のまま、三歩の先にある。青白い光は、朝になっても弱く残っていた。
ポッチは、その正面で止まっている。
「石を置いてみる」
割った半個を、ポッチの前に出した。いつもなら、すぐに包み込む。
しゅう、とは鳴らなかった。
ポッチの体が、わずかに震えただけだった。石には、向かわない。
「食べない。食欲がないわけじゃなさそうだ。ただ」
「粉のほうを、見てる」
「ああ」
僕は記録帳を開いた。
『朝。ポッチ、一晩静止。脈あり。石への反応薄。粉の方向に体が正対』
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比較をやろう、と思った。
卓の上に白い布を敷き、三つの皿を並べる。
石の欠片。黒い砂。青白い粉。
それぞれを、ポッチから三歩の位置に、順番に置いていく。
「食べる、触れる、あと一つ。今の反応を言葉にしたい」
「見つめる、とか?」
「それだ」
まず石。ポッチは動かなかった。体の向きも、ほとんど変わらない。
次に砂。ポッチはゆっくりと、皿のほうへ、ひと伸びした。触れる前に、止まった。刻印は出ない。
最後に、粉。
置いた瞬間、変化があった。
ポッチの体が、粉に向かって、すうっと「正面」を向いた。輪郭が、粉の方向へ尖るように整う。
そして、体表が、淡く明滅を始めた。
ぼう。……ぼう。
「光ってる」
「刻印じゃない。模様は出てない。体全体が、うっすらと」
「周期は?」
数えた。
十拍に一度。
「……昨夜の老人の瓶と、同じだ」
「え?」
「歩きながら、十歩ごとに明滅してた。あの光と、周期が同じなんだ」
シルヴィアが、息を呑んだ。
「ポッチが、あの瓶に、合わせてる?」
「断定はできない。偶然かもしれない」
「でも、偶然にしては」
「ああ。気味が悪い」
言葉にしてしまうと、背筋が、すっと冷えた。
僕は、三つの結果を整理して書いた。
『石:反応薄(食べない)。砂:近づくが触れず。粉:正対し、瓶と同周期で明滅(見つめる)』
食べる。触れる。見つめる。
関わり方が、三つに分かれている。
「石、砂、粉。順に、鮮度が落ちて、粒が細かくなってる」
「うん」
「そして、関わり方が変わってる。食べる、から、見つめる、へ」
「近づかなくなってる、ってこと?」
「距離が、増えてる、とも言える」
自分で言って、はっとした。
三歩の距離。
近すぎず、遠すぎず。ポッチが、ずっと守ってきたもの。
もしかして、あれは。
「……仮説だ。まだ、早い」
「でた」
「聞いてくれ。ポッチは、近づきすぎないことで、何かを守ってるのかもしれない」
「何を?」
「分からない。相手か、自分か」
僕は、ペンを置いた。
「今は、書くだけにする」
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昼過ぎ、モリが木彫りを抱えて、地下に降りてきた。
宿の主人が、後ろから階段を支えている。
「こいつが、お前を呼んでたぞ。ずっと下を見てる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。……ポッチは、まだ動かんのか」
「はい。でも、無事です」
「そうか」
主人はそれだけ言って、階段を戻っていった。
モリは、いつもの三歩の位置に座って、ポッチを見つめた。
「きゅ……」
心配そうな声だった。
僕は、迷った。
粉を、モリに近づけていいのか。
けれど、モリが何に反応するかも、知りたい。
「モリ。少しだけ、試していいか。嫌なら、すぐ止める」
「きゅい」
頷いた。
粉の皿を、モリの木彫りの近くに、そっと置いた。三歩の距離で、触れない。
その瞬間だった。
木彫りの台座の裏。円と線一本の刻印が、ごくごく淡く、光った。
ぼう、と。
次の瞬間には、もう消えていた。
「……今」
「見た」
シルヴィアも、身を乗り出していた。
「木彫りが、粉に反応した」
「ええ。でも、すごく弱かった」
モリが、木彫りをぎゅっと抱きしめた。目が、見開かれている。
「ル、ゥ」
小さな声が、漏れた。
怖がっているのではなかった。確かめるような、問いかけるような声だった。
僕は、粉の皿を、すぐに下げた。
「ありがとう。もう大丈夫だ」
モリの肩が、ふっと落ちた。
記録した。
『木彫りの刻印、粉に反応(極弱)。モリ、「ル、ゥ」と発声。恐怖ではなく確認の調子』
粉と、木彫り。
あの老人と、木彫りを彫った人物は、同じなのか。
指先が、疼いた。いや、目の奥だ。
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夕方、ひとりになりたくて、僕は地下の隅に座った。
ポッチは、まだ動かない。
目の奥が、じんじんと熱を持っていた。
――使えば、分かる。
ポッチが、何を見ているのか。何を感じているのか。体の中の線が、今、どうなっているのか。
今なら、聞ける。数秒、開くだけで。
「……っ」
こめかみを、指で押さえた。
あの線を見たい。この謎を、解きたい。
三年間、誰にも見てもらえなかった。数字にならなかった。使えば、全部分かる。
その誘惑は、今までで一番強かった。
「レン」
階段の上から、声がした。
シルヴィアだった。
彼女は、降りてこなかった。階段の途中で、足を止めている。
「入っていい?」
「ああ」
「邪魔なら、戻る」
「いい。……いてくれ」
彼女は、黙って、僕の隣に腰を下ろした。
少し間があった。
「使いたいんでしょ」
「……ああ」
「今日は、特にね。顔に出てる」
「分かるのか」
「あんた、分かりやすいもの」
くすりと笑われた。
「前に言ったこと、覚えてる?」
「使う時は、自分で決めろ」
「そう」
「今は、決められない。使いたい気持ちと、使わなくても進めるはずだって気持ちが、ぶつかってる」
「それ、いい状態よ」
「そうか?」
「焦って使うんじゃなくて、迷えてるんだから」
彼女は、膝を抱えた。
「あたしね、思うの。あんたの目は、道具じゃないって」
「道具じゃない?」
「使い減らすものじゃなくて、あんた自身の一部。だから、使う時は、ちゃんと、覚悟のある時がいい」
その言葉が、胸に、静かに落ちた。
僕は、目を閉じた。
ポッチの前で、深呼吸した。
見たい。けれど、今じゃない。
粉は、まだ手がかりが少ない。ポッチは、動かないだけで、無事だ。焦る理由は、ない。
「……使うのは、今じゃない」
声に出した。
「そう決めた」
「うん」
「でも、いつか、使う日が来ると思う」
「その時は、あたしを呼びなさい」
「どうして」
「隣で、見てるから」
さらりと言われて、また、胸が熱くなった。
目の奥の熱が、ゆっくりと引いていく。
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夜、食堂の卓に、地図を広げた。
宿の主人が、くすんだ町の図を貸してくれた。
「ここが宿。東の端が、ここ」
シルヴィアの指が、町の端の小さな印を指した。
「薬草の匂いの家。ここに、例の知り合いがいる」
「訪問、明日にするか」
「だめ」
即答だった。
「え」
「その人、午前中は寝てるの。昼過ぎに行きましょ」
「午前中、寝てる」
「夜通し、研究してるから。起こすと、機嫌が悪いの。ものすごく」
「どう悪いんだ」
「毒舌が三割増しになる」
「……もともと毒舌なのか」
「そうよ。しかも」
シルヴィアは、そこで一度、言葉を切った。
「人の体を、じろじろ見る癖があるの」
「体を」
「観察と称して。あんた、覚悟しておいたほうがいいわ」
「何の覚悟だ」
「いろいろ」
濁された。
僕は、湯気の立つ茶を啜りながら、想像した。
白衣だろうか。あの、ぼんやりと浮かんだ輪郭。
「……楽しみにしてるか?」
「は?」
「顔が、緩んでるわよ」
「緩んでない」
「嘘が、下手」
「僕は知識の話をしてるんだ」
「ふうん」
シルヴィアは、じとっとした目で僕を見た。
ほんの少し、むくれているように見えた。
けれど、それを尋ねる勇気は、僕にはなかった。
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その夜、遅く。
ポッチは、まだ動かない。けれど、体表の明滅が、昼よりも少し、弱くなっているように見えた。
階段の上で、足音がした。
シルヴィアではなかった。もっと、重い。
宿の主人かと思って、振り向いた。
違った。
食堂の戸口から、小さな布袋を提げた、見慣れない中年の女性が顔を出していた。薬屋の前掛けをしている。
「ごめんよ、こんな時間に。あんたが、レンさんだね?」
「はい」
「うちの人が、これ、あんたたちに渡してくれって」
袋の中には、乾いた薬草の束が入っていた。
「あの、どちらから?」
「町の薬屋だよ。さっき、狩人の娘さんが来てね。ずいぶん、あれこれ聞いて帰った」
「シルヴィアが」
「ああ。で、帰り際に、うちの人に言ったのさ。『この町に、昔、育成師がいたって話、知らない?』って」
胸が、どきりとした。
「うちの人が、ぽつぽつ話してたよ。ガルムって名の、年寄りの話だ」
「ガルム……」
「禁忌に手を出して、ギルドに睨まれた育成師さ。今は、辺境の外れで、一人暮らしだって聞いてる」
女性は、肩をすくめた。
「詳しいことは、知らないよ。ただ、あの人の家には、誰も寄りつかない。あんたが会いたいなら、娘さんと相談しな」
そう言って、彼女は袋を置いて、去っていった。
僕は、薬草の袋を握りしめた。
ガルム。
噂の育成師が、実在していた。
そして、まだ、生きている。




