第23話 東の灯り
「夜に、モリを置いて出るのか」
宿の主人は、薪を割る手を止めなかった。
「町の東の外れまでです。灯りを一つ、確かめたいだけで」
「灯り?」
「青白い光です。坑道の方角で見たものと、同じ色でした」
斧が、ぴたりと止まった。
主人はしばらく、割りかけの薪を睨んでいた。
「……あの子は、俺が見る。膝に乗せときゃ、静かにしてるだろう」
「ありがとうございます」
「礼はいい。ただな」
主人は、斧を地面に突き立てた。
「預かった以上、無事に返す責任が俺にもある。それは、お前も同じだぞ。夜中に出て行って、戻ってこなかったら、あのガキはどうなる」
胸の奥に、ずしりと落ちる言葉だった。
「必ず、戻ります」
「約束しろ」
「約束します」
「……ふん。行け」
背中を向けた主人の肩が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
食堂の隅で、モリが木彫りを抱いて座っていた。僕を見て、きゅい、と鳴く。
「すぐ戻る。ポッチと待っていてくれ」
三歩の距離に、ポッチを残した。モリは、こくりと頷いた。
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町の東は、夜になると、畑ばかりの暗い道になる。
月は薄雲に隠れていた。シルヴィアが、足音を立てずに先を歩く。僕は彼女の足跡を踏むようにして、後ろをついていった。
「あれ」
彼女が、低く囁いた。
畑の向こう、百歩ほど先。
青白い灯りが、ぽつりと浮かんでいた。
ランタンの炎とは違う。揺れが、少ない。冷たい光だった。
「動いてる」
「ええ。ゆっくり。人の歩幅ね」
彼女は膝をついて、畝の影に身を沈めた。僕も隣に並ぶ。
「明滅してるの、分かる?」
「……ああ。一定の間隔だ」
数えた。
十歩進むごとに、光が一度、揺らぐ。
「歩きながら、何かを確かめてるのかしら。立ち止まりも、振り向きもしない」
「規則的すぎる」
「うん。慣れた人の動きよ。毎晩、同じ道を歩いてる」
毎晩。
その言葉が、引っかかった。
塚に供えられていた白い花。茎の切り口が湿っていた。毎日、誰かが来ている、と僕らは言った。
「追うぞ。距離は保って」
「了解。風下に回るわ」
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灯りは、畑道を抜け、小さな林のそばで止まった。
僕らは、積まれた藁の山の陰に身を潜めた。
そこで、見えた。
杖をついた、背の曲がった人影だった。
顔は、フードの影で見えない。灰色ではなく、くすんだ茶の外套だ。
その手に、青白いガラス瓶が提げられていた。
光の源は、あの瓶だった。中で、何かが、淡く発光している。
人影は、林の縁の一本の木の前で、足を止めた。
瓶を、そっと地面に置く。
そして、杖を持ち替えた。
「……左手」
シルヴィアが、息を呑むように囁いた。
杖を預けた手を、僕は見ていた。
外套の下から、ゆっくりと、左手が伸びた。節くれだった、細い指。その左手が、木の幹に、何かを描くように動いた。
円の形、だった。
僕は、息を止めた。
円を描き終えると、老人は、その中心に、指で一本、縦の線を引いた。
――円と、線一本。
塚の石と、木彫りの底に刻まれていたのと、同じ印だった。
「……あの人が」
「声を出さないで」
彼女の指が、僕の袖を強く掴んだ。
老人は、しばらく木の前に立ったまま、動かなかった。
何か、言っているようだった。唇が動いているのが、青白い光に照らされて、かすかに見えた。
聞こえない。
けれど、祈りのような、静かな動きだった。
僕は、自分の中に、奇妙な感情が湧くのを感じた。
怖さではなかった。
――悲しい。
そう感じた。
理由は、分からなかった。
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その時だった。
僕の足もとで、ぱきり、と乾いた音がした。
藁の山の下の、細い枝を踏んだのだ。
「っ……!」
老人の動きが、止まった。
ゆっくりと、フードの影が、こちらを向く。
僕は、動かなかった。
動かないための立ち方を、思い出した。慌てない顔。重心は、真ん中。
シルヴィアが、弓にそっと手を伸ばした。
「撃たないで」
唇だけで、伝えた。
彼女は、一瞬、僕の顔を見て、手を止めた。
老人は、こちらを見つめていた。
顔は、見えない。ただ、見られていることだけが、分かった。
一秒。
二秒。
三秒。
老人は、何も言わなかった。
ゆっくりと、瓶を持ち上げた。杖をつき直した。
そして、無言のまま、くるりと背を向けた。
足音もなく、闇へ歩いていく。
青白い光が、林の奥へ、小さくなって、消えた。
「……追わないの?」
「追わない」
僕は、首を振った。
「あの人は、僕らに気づいた上で、立ち去った。敵意があるなら、何か仕掛けてきたはずだ」
「でも、正体も分からないまま」
「分からないままでいい。今夜は」
そう言って、自分でも少し驚いた。
見たい、のに、追わない。
でも、それが正しい気がした。
「あの人は、毎晩あの木に来てる。それが分かっただけで、十分だ」
「……そっか」
シルヴィアが、小さく息を吐いた。
「あんた、なんだか、落ち着いたわね」
「そうか?」
「初めて会った時は、すぐ前のめりになってた」
「今も、なってる」
「少しはね。でも、押さないで、待てるようになった」
「君が、そう教えてくれた」
「別に、教えてない」
そう言いながら、彼女は耳を赤くして、顔を逸らした。
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老人が立っていた場所に、近づいた。
木の幹には、描かれた円と線の跡が、うっすらと残っていた。
指で描いたはずなのに、樹皮が、薄く黒ずんでいる。ここも、灰だった。
「足跡は、ほとんどない」
「地面が、乾いてるからね。杖の跡が、二つ」
足もとを見て、僕は、あるものに気づいた。
地面の上に、細かな粉が、薄く散っていた。
青白く、微かに光っている。
「これ」
指でつまむと、さらさらと崩れた。砂よりも、ずっと細かい。
「石の粉に、似てるけど」
「黒くないわね」
「ああ。色が違う。でも、粒の感じが似ている」
僕は、懐から紙を出して、粉を少しだけ包んだ。
光は、紙の中でも、まだ、かすかに残っていた。
「持ち帰るの?」
「ポッチに見せたい。食べさせるわけじゃない。反応を見るだけだ」
「……危なくない?」
「分からない。だから、慎重に」
シルヴィアは、少し考えて、頷いた。
「あたしが、見張る」
「頼む」
「その代わり、無茶したら、怒るからね」
「分かってる」
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帰り道は、町の中心を通った。
酒場の前を通りかかると、扉が半分開いていた。笑い声と、酒の匂いが漏れてくる。
通り過ぎようとした時、酔った男の声が、耳に刺さった。
「……だからよ、昔の話だ。この辺りにいたんだよ。禁忌に、手を出した育成師が」
足が、止まった。
シルヴィアが、僕の袖を引いた。
「聞いて」
唇だけで、囁く。
僕らは、扉の脇の壁際に、身を寄せた。
「禁忌って、何のだ」
「知るかよ。ただ、とんでもねえモンスターを育てたらしい。それで、ギルドに目をつけられてよ」
「で、どうなった」
「さあな。処分された、って話だ。相棒のモンスターごと」
「ひでえ話だ」
「だろ? だから、この町じゃ、育成師の話はタブーなんだと。爺さんの代から、そんなもんだ」
爺さんの代。
宿の主人も、鍛冶屋の老人も、同じ言葉を使っていた。
けれど、この話は、もっと近い。
数十年ではない。
「……あたしたちのことじゃ、ない、わよね」
シルヴィアが、小声で言った。
「違う。もっと前の話だ」
「でも」
「ああ」
僕は、胸のざわつきを、押さえた。
禁忌に手を出した育成師。
ポッチの、あの底のない影が、頭をよぎった。
僕は、本当に、同じ道を歩いているのだろうか。
「行きましょう」
「ああ」
酒場の灯りから、静かに離れた。
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宿に戻ったのは、深夜だった。
食堂の隅の椅子で、主人が、モリを膝に乗せたまま、うとうとと船を漕いでいた。
「……戻ったか」
目を開けた主人は、僕の顔を見て、短く息を吐いた。
「ちゃんと、帰ってきたな」
「はい」
「ならいい。寝かせてやれ。ガキも、お前を待ってた」
モリは、木彫りを抱いたまま、静かに眠っていた。
そっと抱き取って、地下へ運んだ。
ポッチが、いつもの三歩の距離で、影に収まっている。
僕は、懐の紙包みを、そっと取り出した。
「ポッチ。これ、見られるか」
床の上に、紙を広げる。
青白い粉が、薄く光った。
ポッチの体が、ぴくりと動いた。
けれど、近づかない。食べもしない。触れもしない。
三歩の距離を、ぴたりと保ったまま、粉をじっと見つめていた。
動かない。
ぷるりとも、揺れない。
体表の刻印も、浮かばない。
ただ、そこに、固まったように、いた。
「……ポッチ?」
返事は、なかった。
シルヴィアが、背後で、小さく呟いた。
「こんなの、初めて」
「ああ」
僕は、息を殺して、その背中を、見つめ続けた。
食べない。触れない。
それは、これまでのどの反応とも、違っていた。




