第22話 木彫りの印
木彫りは、僕の掌にすっぽり収まった。
地下の灯りの下で、卓に布を敷き、その上にそっと置く。モリは三歩離れた毛布の上から、不安そうにこちらを見ていた。
「取り上げたりしない。見るだけだ」
「きゅい」
僕は膝をつき、顔を近づけた。
指ほどの長さの人形だった。耳が大きく、頭が丸い。粗く削られているのに、どこか温かい顔をしている。ゴブリンの子どもを模したものに見えた。
「木の種類は、分かる?」
隣で、シルヴィアが覗き込んだ。
「たぶん、山桜。この辺りじゃ見ない。硬くて、削るのに手間がかかるはず」
「花の時と同じだな。ここらでは採れないものだ」
「ええ。町の外から、持ち込まれてる」
削り跡を見る。
刃が走った向きが、一定だった。右から左へ引くはずの面が、逆から入っている。
「……刃の入り方が、逆だ」
「逆?」
「普通は、右手で刃を持てば、手前から奥へ、右に流れる。でも、この跡は左に流れてる」
僕は、鍛冶屋の老人の小刀を思い出した。柄の黒ずみは、右手の形だった。
「左利きだ。削った人は」
「左利きの彫り手……」
シルヴィアが、眉を寄せた。
「あたし、左利きの知り合いは、いないはずなんだけど」
「はず、か」
「うん。……はず」
歯切れが悪かった。僕は、聞かなかった。
台座の裏の刻印は、円と線一本。塚の石と同じ深さだった。
「塚の印と、同じ手で彫られてる」
「じゃあ、塚を作った人と、この木彫りの人は、同じ?」
「可能性は高い。断定はしないけど」
「でた」
「うるさい」
---
「野営の夜、荷が触れられた可能性を整理する」
僕らは、記録帳に時系列を書き出した。
夕方、設営。荷は岩の脇に置いた。夜、僕が水汲みに行った間と、シルヴィアが体を拭いていた間。二人とも、焚き火の傍にいなかった。
「あの時間、荷は無人だった」
「ええ。でも、焚き火は燃えてた。普通なら、近づけば、あたしが気づく」
「普通なら」
「足音を消せる人間なら、別。ここ数日の気配なら、それができる」
灰色の外套。呼吸まで消す歩き方。
僕は、背筋が冷えるのを感じた。
ほんの数歩の距離に、あの人物がいた。僕が岩陰から彼女を見ていた、その同じ夜に。
「……見られてたのは、僕のほうも、か」
「え?」
「いや」
慌てて首を振った。
シルヴィアが、じっと僕を見た。
「……なに、今の顔」
「何でもない」
「ふうん」
その目に、からかいの色が混じっていた。
僕は、記録帳に視線を落とした。
---
その時、モリが、動いた。
木彫りを握った僕の手のそばまで、ずりずりと寄ってくる。三歩の距離が、二歩になった。
「モリ」
「きゅい」
小さな手が、木彫りに触れた。
取り返したいのかと思って、手を引きかけた。けれど、モリは取らなかった。
木彫りを両手で包み、ゆっくりと立ち上がる。
そして、よたよたと、ポッチのほうへ歩いていった。
三歩の位置で止まる。
木彫りを、ポッチに差し出した。
「……見せてるのか」
「そうみたいね」
ポッチは、動かなかった。
けれど、体表に、刻印が浮かんだ。ぼう、と。
線は、二本。
モリの手の中の木彫りの刻印は、一本。
並べて見ると、ポッチの二本のうち、一本が、木彫りの一本と、同じ位置にあるように見えた。
「……重なってる」
息を呑んだ。
「ポッチの線の一本と、木彫りの線が」
「どういうこと?」
「分からない。でも、無関係じゃない」
意味づけは、しない。
僕は、見たことだけを、記録した。
モリが、ポッチの前で、小さく言った。
「ル、ゥ」
木彫りを、ポッチに向けたまま。
その響きは、呼びかけでも、問いかけでもなかった。
――紹介している。
そんなふうに、聞こえた。
誰かを、誰かに。
---
僕は、しゃがんだまま、考えた。
この木彫りは、モリにとって、何だろう。
聞けば、答えてくれるかもしれない。けれど、聞けば、痛い場所に触れる。
「モリ」
呼ぶと、金色の目が、こちらを向いた。
「その人形、大事か」
「きゅ」
小さく、頷いた。
「じゃあ、僕は、預からない」
モリが、目を丸くした。
「持っていていい。ただ、一緒に持たせてくれ。夜は、君の傍に置く。昼は、君が持つ。いつでも、見たい時に見ていい」
「……きゅい?」
「それでいいか」
しばらく、じっと僕を見つめていた。
それから、こくりと、頷いた。
そして、小さな左手を伸ばして、僕の指に、木彫りの端を、そっと触れさせた。
「……一緒に、持ってくれるんだな」
「きゅい」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
見ているだけじゃなく、取り上げるのでもなく。
隣で、持つ。
それが、見守るということなのかもしれない。
シルヴィアが、後ろで小さく鼻をすすった。
「……泣いてるのか」
「泣いてない。埃」
「地下だからな」
「そうよ」
---
夜、僕らは、食堂の卓で、育成計画を広げた。
宿の主人が、黙って茶を置いていく。
「一月後の期限に向けて、整理する」
僕は、紙に三つの項目を書いた。
『ポッチ:石の節約と、砂による安定の検証』
『モリ:傷の完治、右腕の機能回復、進化条件の探索』
『食事:石に頼らない餌の最適化』
「三つ目が、問題だ」
「餌?」
「ポッチは石と砂。モリは、今は干し肉と粥。でも、これは育成の食事じゃない。ただの食事だ」
「違いは?」
「進化を引き出す餌は、条件に合わせて、成分を選ぶ必要がある。僕には、その知識がない」
正直に言うのは、悔しかった。
観察はできる。仮説も立てられる。けれど、体の中で何が起きているのかを、化学の言葉で読むことは、僕にはできない。
「モリが何を食べれば、傷の治りが速いか。何が足りないか。分析して、調合する人がいないと、先へ進めない」
「薬と、餌の専門家ね」
シルヴィアが、頬杖をついた。
その目が、ふと、遠くを見た。
「……あ」
「どうした」
「いるじゃない。ひとり」
「え」
「前に、言ったでしょ。目に効く薬草茶。あれを調合した、変わり者の知り合い」
「ああ、あの時の」
「その人、薬だけじゃなくて、モンスターの餌も、詳しいの。しかも、研究狂い」
「会えるのか」
「たぶん。辺境の町の、東の端に、薬草の匂いが一日中する家があるの」
彼女は、少しだけ、口の端を引きつらせた。
「ただ、先に言っておくけど」
「うん」
「ちょっと、というか、かなり変わってるから。覚悟して」
「どう変わってるんだ」
「会えば分かるわ」
言葉を濁して、彼女は茶を啜った。
僕は、その知り合いの顔を、想像しようとした。
白衣、だろうか。
いつか、ぼんやり浮かんだ顔と、重なった気がした。
けれど、輪郭は、まだ曖昧だった。
---
その夜。
モリは、木彫りを胸に抱いて、すうすうと眠っていた。
三歩の距離に、ポッチ。
僕は、壁にもたれて、記録帳を閉じた。
シルヴィアは、もう自室へ戻っている。静かな夜だった。
ふと、足もとが、動いた。
ポッチの影が、ぬるりと、小窓のほうへ伸びている。
昨夜までと、違う方向だった。
灰色の気配の、北東ではない。
東。町の外れ、さらにその先。
僕は、そっと立ち上がって、小窓に近づいた。
隙間から、夜の町を覗く。
屋根の向こう。畑の向こう。
遠くの闇の中に、小さな灯りが、一つだけ揺れていた。
赤でも、橙でもない。
青白い光だった。
坑道の方角で見た、あの光と、同じ色。
ポッチの影が、そこへ向かって、静かに、伸び続けていた。




