第21話 小さな手形
手形は、思っていたより小さかった。
木の幹に、黒ずんだ五本の指の跡が押されている。大きさは、モリの手とほとんど同じだった。
「触らないで」
シルヴィアが、僕の腕を軽く押さえた。
「痕跡は、先に見る。触るのは最後」
「分かってる」
膝をついて、顔を近づけた。
黒いのは、汚れではなかった。指の形に沿って、細かな灰が貼りついている。ざらりとした粒の細かさに、見覚えがあった。
「地下の小窓の灰と、同じだ」
「集落の焦げ跡とも、でしょ」
「ああ。ただ、これは古い。灰の縁が、露で丸くなってる」
「数日は経ってるわね。三日か、四日」
モリが集落から連れ出される前か、逃げた後か。どちらとも言い切れない。
僕は手形の大きさを、指で測って紙に写した。
『手形。幼体の手と同大。灰付着。数日前。高さは子どもの肩ほど』
「レン」
シルヴィアの声が、少し低くなった。
「向こうにも、ある」
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彼女は、視線を木々の奥へ流していた。
十歩ほど先の幹に、同じ黒が見えた。そのさらに先にも、もう一つ。
「間隔が、ほぼ同じ。歩幅二十歩ごと」
「偶然じゃないな」
「ええ。誰かが、目印として残してる」
彼女は立ち上がり、地面を見回した。
「足跡は、ほとんど消えてる。でも、踏み荒らしがない。急いで逃げた跡じゃないわ。歩いて、置いていった」
「置いていった?」
「手形を。わざと」
背筋が、冷えた。
逃げた子が、必死に手をついた跡なら、こんなに整うはずがない。誰かが、道しるべとして残したのだ。
「モリに残された、道かもしれない」
「あるいは、モリを呼ぶ罠かもしれない」
僕らは、黙って顔を見合わせた。
「ねえ、レン」
「ん」
「このまま奥へ進めば、坑道の近くに出る」
「分かってる」
「あたし」
彼女は、そこで言葉を切った。
左手首を、袖の上から握りしめている。指先が、白い。
僕は、少しだけ考えた。
奥へ行きたい。手形の先に何があるのか、見たい。
けれど、彼女の顔を見て、決めた。
「今日は、奥へは行かない」
「え」
「手形を、先頭から一つずつ追う。でも、坑道の方角には入らない。森の浅いところまでだ」
「……いいの?」
「いい。急いで見て、君を連れて行って、後悔するほうが嫌だ」
「あたしのこと、気にしてる?」
「当たり前だ」
即答したら、彼女が目を丸くした。
それから、ふいと顔を背けた。
「……変なとこ、はっきり言うわね」
「嘘が下手だからな」
「それ、あたしの台詞」
小さく笑う声が、森の湿り気に溶けた。
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モリは、町に残してきた。
宿に戻って、主人に預けた時のことを思い出す。
「連れて行かないのか」
「まだ、見せられません」
「何があるか、分からんのか」
「分からないから、先に僕たちが見ます」
主人は、少し黙ってから、ごつい手を差し出した。
「よこせ。膝の上で、薪でも割ってやる」
「薪は、危ないです」
「冗談だ。馬鹿正直な奴だな」
モリは主人の膝にちょこんと座り、僕を見送った。
きゅい、と一度だけ鳴いた。三歩の距離にポッチを残してきたから、置いていかれる不安は、少し軽かったはずだ。
そう信じることにした。
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手形は、全部で六つあった。
二十歩ごと。幹の同じ高さ。一つ進むたびに、灰の色が、少しずつ薄くなる。
「新しいほうが、薄い」
「手形を押した人の灰が、減っていった?」
「あるいは、押す側の力が弱くなっていった」
六つ目の幹の先に、木立が途切れた。
小さな空き地だった。
日が、まっすぐ差し込んでいる。落ち葉の上に、柔らかな光の円が落ちていた。
その真ん中に、石が積まれていた。
「……塚」
シルヴィアが、囁いた。
子どもの背丈ほどの、小さな石積みだった。河原の丸い石が、丁寧に重ねられている。苔が薄くついていて、積まれてから、数年は経っていそうだった。
僕らは、一歩手前で足を止めた。
空気が、静かだった。
「墓、かしら」
「たぶん」
「ゴブリンの?」
「集落のものなら、こんなに整えない。もっと雑に埋めて、巣ごと捨てる」
「じゃあ」
「誰かが、丁寧に積んだ」
僕は、ゆっくりと塚へ近づいた。
石の一つ、いちばん上の平たい石に、細い線が一本、刻まれていた。
円と、一本の線。
「刻印……線は、一本だけ」
「ポッチが二本。この塚は、一本」
「少ないほうが、静かな意味かもしれない」
自分で言って、よく分からない感想だと思った。
けれど、そう感じた。ここの刻印は、何かを閉じ込めるためのものではない。
――手向けだ。
そんな気がした。
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塚の根元に、花が供えられていた。
白い、小さな五弁の花。一輪。
茎の切り口が、まだ湿っていた。しおれてもいない。
「新しい」
シルヴィアが、膝をついて見つめた。
「今朝か、昨日の夕方。それ以上は、経ってない」
「誰が」
「分からない。足跡は、ない」
「この花は?」
「見たことないわ」
彼女の声が、わずかに硬かった。
「この辺りじゃ、咲かない種類。山をいくつも越えた先の、湿った谷にしか生えないはず」
「どうして、そんなことを」
「森の植物は、狩人の基本だもの」
僕は、花を見つめた。
花びらの縁が、ほんのり黒い。焦げているのではなく、墨を一滴落としたような、滲み方だった。
灰色の外套の人物が、供えたのか。
あるいは、別の誰かか。
分からない。
でも、はっきりしていることが、一つだけあった。
この塚に、毎日誰かが来ている。
「……見張られてるな」
「ええ」
「でも、敵意は感じない」
「あたしも、そう思う」
シルヴィアが、小さく息を吐いた。
「怖いけど、悪意の匂いは、しないの。変な話だけど」
「変じゃない。僕も、同じだ」
僕は、塚に向かって、小さく頭を下げた。
何に向けた礼か、自分でも分からなかった。ただ、そうしたかった。
「帰ろう」
「ええ」
「手形も、塚も、記録は残した。モリには、まだ見せない」
「いつか、見せるの?」
「あの子が、見たいと思った時に」
シルヴィアが、驚いたようにこちらを見た。
「向き合うのは、あの子のペースでいい」
「……そうね」
彼女の目元が、ふっと和らいだ。
「あんた、本当に、ちゃんと見てる」
「まだ、半分も見えてない」
「それでも」
最後まで言わずに、彼女は先に歩き出した。
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町に戻ったのは、夕方だった。
宿の扉を押すと、いつもの食堂の匂いがした。煮込みと、薪の煙。
「帰ったか」
主人が、カウンターの奥から顔を上げた。
その膝の上に、モリがいた。
小さな両手で、何かを握りしめている。
「ただいま、モリ」
声をかけると、金色の目が、僕を見た。
いつもの、きゅい、がなかった。
代わりに、かすかな声が、唇から零れた。
「……ル、ゥ」
心臓が、跳ねた。
モリは、ゆっくりと膝から降りた。足音を立てずに、僕の前まで歩いてくる。
そして、握っていたものを、差し出した。
小さな木彫りだった。
指ほどの長さの人形で、粗く削られている。耳が、大きい。
台座の裏に、見覚えのある印が、刻まれていた。
円と、一本の線。
「……これは」
「俺じゃねえぞ」
主人が、慌てて首を振った。
「お前らが出ていった後、そいつが勝手に、荷物の隙間から引っ張り出してきた。ずっと握ってやがった」
「荷物、とは」
「お前の布袋だ。昨日の野営で使った」
背中に、冷たいものが走った。
野営の荷には、僕もシルヴィアも、こんなものを入れた覚えがなかった。
「ル、ゥ」
モリが、もう一度言った。
小さな手が、僕の手に、木彫りを押しつけてくる。
震えていた。
嬉しいのか。怖いのか。僕には、見分けがつかなかった。




