第18話 ルゥ
朝の食堂で、僕は記録帳を卓に置いた。
「夜、モリが寝言を言った」
向かいで、シルヴィアがパンをちぎる手を止める。
「寝言?」
「鳴き声じゃない。『ル、ゥ』に近い音だった」
「……人の言葉みたいな?」
「ああ。誰かを呼ぶ時の、音の形に聞こえた」
彼女は黙って、ページの文字を目で追った。
「獣の子はね、夢の中で仲間を呼ぶことがあるの」
「鳴き声で?」
「普通は鳴き声。でも、群れで暮らす種は、仲間ごとに呼び方が違う。それが、人間の耳には名前に聞こえることもある」
「名前……」
「ゴブリンなら、あり得ない話じゃないわ」
そこまで言って、彼女はふっと眉を寄せた。
「ル、ゥ」
唇の形だけで、小さく繰り返す。
「どうした」
「ううん。……なんか、聞き覚えがある気がして」
「どこで」
「分からない。気のせいかも」
彼女は左手首を、袖の上からそっと押さえた。
僕は、それ以上聞かなかった。
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昼、地下へ降りると、モリは毛布の上で干し肉を齧っていた。
右腕の布は、もう小さな当て布だけだ。ポッチは三歩の距離で、影の中に静かに収まっている。
僕は、モリの正面ではなく、斜め前に腰を下ろした。
目線は低く。顔は直接向けない。
「呼びかけて、いいか」
小声で、後ろのシルヴィアに確認する。
「あんたが決めて。あたしは、様子を見てる」
「……ありがとう」
息を整えた。
呼ぶのは、怖かった。
もし、これが群れの誰かの名前なら。僕はいま、モリの一番痛い場所に触れようとしている。
でも、見なければ、先へ進めない。
「ルゥ」
できるだけ、柔らかく。
モリの耳が、ぴくんと跳ねた。
干し肉を持つ手が、止まる。
金色の目が、ゆっくりと僕を見た。
喜びの色は、なかった。
固まっていた。口が半分開いて、肉が、ぽとりと膝に落ちる。
「ルゥ」
もう一度、呼ぶ。
「き……」
モリの喉が、ひくりと鳴った。
次の瞬間、体がぎゅっと縮んだ。両腕で自分を抱いて、毛布の中へ頭を埋める。
小さな肩が、細かく震えていた。
「……っ、ごめん」
僕はすぐに口を閉じた。
返事はない。ただ、毛布の下から、かすかな嗚咽が漏れてくる。
ポッチが、動いた。
三歩の距離を保ったまま、影の縁をすっと滑って、モリの真正面に回る。
近づかない。触れない。ただ、そこにいる。
やがて、嗚咽が、少しずつ弱まった。
毛布から、金色の目が、そろりと覗く。
ポッチを見て、それから、僕を見た。
その目に、怒りはなかった。
ただ、ひどく疲れた色をしていた。
「……記録する」
声が、掠れた。
『昼。「ルゥ」と呼びかけ。耳が跳ねる。硬直。泣く。ポッチ接近(三歩)で沈静化』
『仮説:「ルゥ」は群れの誰か、または既にいない存在の名。モリにとって、最も痛い記憶に繋がる』
ペンを置いた。
胸の奥が、きしんでいた。
「……間違ってたか」
「ううん」
後ろから、静かな声がした。
「あんたは、確かめただけ。無理に引き出さなかった。すぐに止めた」
「それでも」
「見ているだけの人は、止めたりしない。あんたは、止めた」
シルヴィアが、僕の隣にしゃがみ込んだ。
「あの子は、あんたを嫌ってない。ほら」
モリが、毛布から這い出していた。
おずおずと、僕の膝の上に、干し肉の欠片を置く。
さっき、落としたものだ。
「……拾ってきてくれたのか」
「きゅい」
小さな声だった。
許されたのだと、思った。
目の奥が、少し熱くなった。生態眼のせいじゃない。
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その夜、僕は地下の壁にもたれて、小窓を見ていた。
眠らないつもりだった。
昨夜、あの灰色の気配は、確かにここにいた。ポッチの影が、それを指していた。
「付き合うわよ」
階段の上から、シルヴィアが毛布を抱えて降りてきた。
「寝ててよかったのに」
「あんたを一人で徹夜させたら、あたしの負け」
「何の勝負だ」
「あたしの中で、勝負なの」
彼女は、僕から少し離れた位置に腰を下ろした。弓は膝の上。いつでも取れる位置だ。
並んで、小窓を見つめた。
夜が、深くなっていく。
石壁の向こうで、風が、細く鳴った。
「ねえ、レン」
「ん」
「見る側に立つって、言ったでしょ」
「ああ」
「あたしが後ろにいる。あんたは、前を見て」
「分かった」
その時だった。
小窓の隙間から、冷たい空気が、ふっと流れ込んだ。
ポッチの影が、ぴくりと動く。
三歩の距離で、じっと、小窓のほうを向いた。
――いる。
肌が、粟立った。
僕は、動かなかった。
昨夜、教わった立ち方を思い出す。重心は真ん中。慌てない顔。
ゆっくりと、小窓へ視線を向けた。
隙間は、指三本ぶんほどの細い幅だ。
その向こうは、闇だった。
何も見えない。
けれど、見られている。
そう、分かった。
呼吸が、どこかにある。いや、ない。
人の気配なのに、息の音がない。
「……レン」
後ろから、囁き声。
「あたしにも、分かる。いる」
「ああ」
「撃たない」
「撃たなくていい。見るだけだ」
僕は、小窓の暗がりを、まっすぐに見つめた。
怖かった。
昔の僕なら、毛布を被って、目を閉じていた。
でも、今は違う。
見ているだけじゃない。見返している。
息を吐いて、小さく、声に出した。
「何の用だ」
返事はない。
「僕は、逃げない。あんたが何者でも、ここで見る」
一秒。
二秒。
三秒。
小窓の闇が、ほんの少しだけ、揺らいだ。
そして、ふっと、冷たさが消えた。
風も止んだ。
ポッチの影が、ゆっくりと元に戻る。
「……行った、のね」
「ああ」
膝から、力が抜けた。
壁に背中を預けて、僕は大きく息を吐いた。
「やったじゃない」
「何もしてない。見てただけだ」
「それが、すごいのよ。昨日までのあんたなら、目を逸らしてた」
「かもしれない」
「かもしれない、じゃなくて、そうなの」
シルヴィアが、くすりと笑った。
「でも、ちょっと見ておきたいものがあるの。窓の縁」
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小窓の下に、蝋燭を近づけた。
石の縁に、薄く、灰が積もっていた。
足跡じゃない。指で、なぞったような跡だった。
細い筋が、三本。
「……手の跡」
「ええ。窓枠を、触ったのね」
僕は、灰を、指先でほんの少しだけ取った。
ざらりとした感触。
色は、灰色。けれど、光にかざすと、奥が、黒く透けた。
「これ」
「どうしたの」
「見覚えがある」
懐から、紙包みを出した。
森の巣から持ち帰った、焦げた枝の欠片。シルヴィアが拾ってきた、あの欠片だ。
端を、少しだけ削って、灰と並べた。
色も、粒の細かさも。
同じだった。
「焦げ跡と、同じ灰……」
シルヴィアの声が、低くなった。
「集落を焼いたものと、この灰を残したものが、同じ?」
「断定はできない。灰は、どこにでもある」
「でも、似てるのね」
「ああ。ただ、似てるだけだ」
そう言いながら、背筋が冷えていた。
灰色の外套。足音のない歩き方。呼吸のない気配。
そして、ゴブリンの集落の焼け跡。
別々だと思っていたものが、じりじりと、一つの影に寄っていく。
僕は、灰を紙に包んだ。
「まだ、断定はしない。記録だけ残す」
「うん」
「それと」
「ん?」
「ありがとう。後ろに、いてくれて」
「……別に」
シルヴィアは、ふいと顔を逸らした。
耳の先が、蝋燭の灯に染まって、赤く見えた。
「当たり前でしょ」
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その後、僕は、記録帳の最後に、一行を書き足した。
昼の、モリの反応を思い出していた。
呼ばれて、固まって、泣いて。
でも、落ちた肉を拾って、僕の膝に置いてくれた。
群れを失った痛みは、消えない。
けれど、モリは、その痛みを抱えたまま、ポッチのそばで眠れている。
それは、探すことをやめたわけじゃない。
――向き合っている。
「……群れを探すんじゃない」
呟いて、気づいた。
「群れを失ったこと、そのものと向き合う。それが、あの子の条件なんじゃないか」
仮説の、ほんの入り口だった。
確かめるには、足りないものが多い。ポッチのように、石を使うのか。それとも、別の何かか。
そこまで考えたとき、地下の階段に、足音がした。
宿の主人だった。
「……まだ起きてたか」
「すみません。うるさかったですか」
「いや」
主人は、階段の途中で足を止め、僕の手の紙包みを、ちらりと見た。
「お前ら、その黒い石、気にしてるんだろ」
「え」
「昨日の夜、床下の木箱の話をしてたのが、聞こえた」
シルヴィアが、びくりとする。
「……盗み聞き?」
「聞こえたんだよ。ここは俺の宿だ」
主人は、ぼりぼりと頭をかいた。
「森で採れる、あの黒い石な。昔は、町の鍛冶屋が扱ってたって話を、聞いたことがある」
「鍛冶屋が?」
「爺さんの代の話だ。なんに使ってたかは、知らん。ただ、鍛冶屋の裏には、今でも古い倉があるらしい」
そう言い残して、彼は階段を上がっていった。
僕とシルヴィアは、顔を見合わせた。
「……鍛冶屋」
「行ってみる価値、ありそうね」
窓の外では、夜が、静かに明け始めていた。




