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世界一のストライカー【見て書いてきた少女】  作者: KASANE
7/24最終回です

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第7話「お母さん」

海斗を守るため、お母さんが初めて本当の現実と向き合います。


その人は、忙しい人だった。


 忙しい、というより。


 止まることを、許されていない人だった。


 西野京子。


 海斗くんの、お母さん。


 駅前で、小さな定食屋を切り盛りしている。


 朝早くから、夜遅くまで。


 休む時間なんて、ほとんどない。


 ぼくは、店のいちばん奥の席に座った。


「いらっしゃいませ。ご注文は」


 京子さんは、ぼくを見ない。


 伝票を見たまま、手を動かしている。


 疲れた声だった。


 「いらっしゃい」の中にも。


 眠れていない音が、混じっていた。


「今日は、ご飯じゃないんです」


 ぼくは、静かに言った。


「ご家族のお話があります」


 京子さんの手が、止まる。


「……家族?」


「海斗くんのことです」


 その名前を聞いた瞬間。


 京子さんの顔が、少しかたくなった。


「……あの子が、何かしましたか」


「いいえ。何もしていません」


「じゃあ、何ですか」


「すみません。本当に忙しいんです」


 そうだろうな。


 ぼくは思った。


 この人は、本当に忙しい。


 夫は借金だけ残して、家を出た。


 三人の子どもを育てるため。


 毎日、働いて。


 働いて。


 働いて。


 気づけば、自分のことは何年も後回し。


 だから。


 見えなかった。


 見なかったんじゃない。


 見たら、全部が壊れてしまうところまで来ていた。


 長男が、家を支えていることも。


 学校で苦しんでいることも。


「京子さん」


 ぼくは、ゆっくり言った。


「海斗くんの腕、見ましたか」


「……腕?」


「背中でもいいです」


「痣、ありましたか」


 京子さんは、言葉を失った。


「……転んだって」


「部活だから、よくけがするって」


「そう言ってました」


「そうですか」


 ぼくは、目を開けた。


 京子さんの色が見える。


 青。


 でも。


 何度もひびが入った青。


 毎日、冷たい水で洗い物をして。


 休まず働き続けて。


 少しずつ削れてしまった色。


 自分のことなんて。


 もう、忘れてしまった人の青だった。


「ぼく」


 小さく言う。


「見えるんです」


「……何がですか」


「京子さんが」


「どれだけ頑張ってきたか」


「全部」


 京子さんの目が揺れた。


 責められる準備をした目だった。


 でも。


 ほめられる準備なんて。


 もう何年も、していない目だった。


「あなたは」


 ぼくは言った。


「十分、頑張ってます」


 その一言で。


 京子さんの肩が、小さく震えた。


    ◆◇


——海斗


その夜。


 ぼくは、眠れなかった。


 陽菜も。


 翼も。


 もう眠っている。


 隣の部屋から、小さな寝息が聞こえる。


 お母さんは、まだ帰ってこない。


 いつものことだった。


 それを寂しいと思うのは。


 わがままだと思っていた。


 ぼくは。


 兄ちゃんだから。


 ご飯を作る。


 お風呂に入れる。


 寝かせる。


 それが、ぼくの仕事。


 玄関のドアが開いた。


 帰ってきた。


 でも。


 何かが違う。


 いつもなら。


 すぐ台所へ行く音がする。


 今日は。


 何も聞こえない。


 ぼくは、そっと起き上がった。


 ふすまの隙間から、のぞく。


 お母さんが。


 玄関で。


 しゃがみこんでいた。


 ぼくの靴を抱きしめて。


 泣いていた。


 え……。


 声を出さないように。


 肩だけ震わせて。


 泣いていた。


 お母さんが。


 泣いてる。


 大人は泣かないと思っていた。


 お母さんは。


 もっと泣かない人だと思っていた。


 ぼくの、せいだ。


 そう思った。


 いつものように。


 ぼくが悪いから。


 ぼくが隠したから。


 だから、お母さんが泣いている。


 ふすまを開けられなかった。


 開けたら。


 全部、本当になってしまう気がした。


 そのとき。


 お母さんが顔を上げた。


 目が合った。


「……海斗」


「……」


「ごめんね」


 その一言で。


 胸が痛くなった。


「お母さん」


「何も気づけなかった」


「本当に、ごめん」


 ぼくは、何も言えなかった。


 お母さんが近づいてきた。


 そして。


 ぼくを、ぎゅっと抱きしめた。


 油の匂い。


 汗の匂い。


 洗剤の匂い。


 毎日、働いてきた匂い。


 あったかかった。


 そのぬくもりで。


 ぼくは。


 子どもに戻ってしまった。


 そういえば。


 お母さんに抱きしめられたの。


 いつ以来だろう。


 思い出せないくらい。


 昔だった。


 涙が。


 勝手にあふれた。


 止まらなかった。


    ◆◇


——慈恩


数日後。


 京子さんが、オフィスへ来た。


 手には、一枚の紙。


「これです」


 ぼくは受け取る。


 ドイツのサッカーアカデミー。


 あの日、渡した資料だった。


「あの子を」


 京子さんは、まっすぐ前を向いた。


「ここへ行かせたいんです」


 もう。


 声は震えていなかった。


「日本にいたら」


「あの子は壊れます」


「才能も」


「心も」


「だから」


 一度、大きく息を吸う。


「違う世界を見せたいんです」


「ここじゃない場所を」


 よその水を飲ませたい。


 そういうことだ。


 母親は。


 ときどき理屈より先に。


 正しい道を選ぶ。


「いい考えです」


 ぼくはうなずいた。


「でも、お金が……」


「そこは、大丈夫です」


 本当は。


 海斗くんが、自分の力で切り開く未来だ。


 でも。


 今はまだ、その話じゃない。


「契約しましょう」


「契約?」


「ぼくの仕事です」


「少し、変わってますけどね」


 京子さんは、不思議そうに笑った。


 それでも。


 静かに、うなずいた。


 海斗くん。


 きみは。


 これから、遠くへ行く。


 遠くへ行くことは。


 捨てられることじゃない。


 帰ってくる場所を。


 作ることだ。


 そして。


 きみを、ずっと見ている子がいる。


 あの夏の日。


 毎日、お茶を運んできた。


 小さな女の子が。


 窓の外では。


 夏の雲が、ゆっくり流れていた。

家族の涙が止まったとき、海斗の未来は静かに動き始めました。

親のことは、子どもが思うより複雑で、思うより単純だったりします。(´ー`)

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