第7話「お母さん」
海斗を守るため、お母さんが初めて本当の現実と向き合います。
その人は、忙しい人だった。
忙しい、というより。
止まることを、許されていない人だった。
西野京子。
海斗くんの、お母さん。
駅前で、小さな定食屋を切り盛りしている。
朝早くから、夜遅くまで。
休む時間なんて、ほとんどない。
ぼくは、店のいちばん奥の席に座った。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
京子さんは、ぼくを見ない。
伝票を見たまま、手を動かしている。
疲れた声だった。
「いらっしゃい」の中にも。
眠れていない音が、混じっていた。
「今日は、ご飯じゃないんです」
ぼくは、静かに言った。
「ご家族のお話があります」
京子さんの手が、止まる。
「……家族?」
「海斗くんのことです」
その名前を聞いた瞬間。
京子さんの顔が、少しかたくなった。
「……あの子が、何かしましたか」
「いいえ。何もしていません」
「じゃあ、何ですか」
「すみません。本当に忙しいんです」
そうだろうな。
ぼくは思った。
この人は、本当に忙しい。
夫は借金だけ残して、家を出た。
三人の子どもを育てるため。
毎日、働いて。
働いて。
働いて。
気づけば、自分のことは何年も後回し。
だから。
見えなかった。
見なかったんじゃない。
見たら、全部が壊れてしまうところまで来ていた。
長男が、家を支えていることも。
学校で苦しんでいることも。
「京子さん」
ぼくは、ゆっくり言った。
「海斗くんの腕、見ましたか」
「……腕?」
「背中でもいいです」
「痣、ありましたか」
京子さんは、言葉を失った。
「……転んだって」
「部活だから、よくけがするって」
「そう言ってました」
「そうですか」
ぼくは、目を開けた。
京子さんの色が見える。
青。
でも。
何度もひびが入った青。
毎日、冷たい水で洗い物をして。
休まず働き続けて。
少しずつ削れてしまった色。
自分のことなんて。
もう、忘れてしまった人の青だった。
「ぼく」
小さく言う。
「見えるんです」
「……何がですか」
「京子さんが」
「どれだけ頑張ってきたか」
「全部」
京子さんの目が揺れた。
責められる準備をした目だった。
でも。
ほめられる準備なんて。
もう何年も、していない目だった。
「あなたは」
ぼくは言った。
「十分、頑張ってます」
その一言で。
京子さんの肩が、小さく震えた。
◆◇
——海斗
その夜。
ぼくは、眠れなかった。
陽菜も。
翼も。
もう眠っている。
隣の部屋から、小さな寝息が聞こえる。
お母さんは、まだ帰ってこない。
いつものことだった。
それを寂しいと思うのは。
わがままだと思っていた。
ぼくは。
兄ちゃんだから。
ご飯を作る。
お風呂に入れる。
寝かせる。
それが、ぼくの仕事。
玄関のドアが開いた。
帰ってきた。
でも。
何かが違う。
いつもなら。
すぐ台所へ行く音がする。
今日は。
何も聞こえない。
ぼくは、そっと起き上がった。
ふすまの隙間から、のぞく。
お母さんが。
玄関で。
しゃがみこんでいた。
ぼくの靴を抱きしめて。
泣いていた。
え……。
声を出さないように。
肩だけ震わせて。
泣いていた。
お母さんが。
泣いてる。
大人は泣かないと思っていた。
お母さんは。
もっと泣かない人だと思っていた。
ぼくの、せいだ。
そう思った。
いつものように。
ぼくが悪いから。
ぼくが隠したから。
だから、お母さんが泣いている。
ふすまを開けられなかった。
開けたら。
全部、本当になってしまう気がした。
そのとき。
お母さんが顔を上げた。
目が合った。
「……海斗」
「……」
「ごめんね」
その一言で。
胸が痛くなった。
「お母さん」
「何も気づけなかった」
「本当に、ごめん」
ぼくは、何も言えなかった。
お母さんが近づいてきた。
そして。
ぼくを、ぎゅっと抱きしめた。
油の匂い。
汗の匂い。
洗剤の匂い。
毎日、働いてきた匂い。
あったかかった。
そのぬくもりで。
ぼくは。
子どもに戻ってしまった。
そういえば。
お母さんに抱きしめられたの。
いつ以来だろう。
思い出せないくらい。
昔だった。
涙が。
勝手にあふれた。
止まらなかった。
◆◇
——慈恩
数日後。
京子さんが、オフィスへ来た。
手には、一枚の紙。
「これです」
ぼくは受け取る。
ドイツのサッカーアカデミー。
あの日、渡した資料だった。
「あの子を」
京子さんは、まっすぐ前を向いた。
「ここへ行かせたいんです」
もう。
声は震えていなかった。
「日本にいたら」
「あの子は壊れます」
「才能も」
「心も」
「だから」
一度、大きく息を吸う。
「違う世界を見せたいんです」
「ここじゃない場所を」
よその水を飲ませたい。
そういうことだ。
母親は。
ときどき理屈より先に。
正しい道を選ぶ。
「いい考えです」
ぼくはうなずいた。
「でも、お金が……」
「そこは、大丈夫です」
本当は。
海斗くんが、自分の力で切り開く未来だ。
でも。
今はまだ、その話じゃない。
「契約しましょう」
「契約?」
「ぼくの仕事です」
「少し、変わってますけどね」
京子さんは、不思議そうに笑った。
それでも。
静かに、うなずいた。
海斗くん。
きみは。
これから、遠くへ行く。
遠くへ行くことは。
捨てられることじゃない。
帰ってくる場所を。
作ることだ。
そして。
きみを、ずっと見ている子がいる。
あの夏の日。
毎日、お茶を運んできた。
小さな女の子が。
窓の外では。
夏の雲が、ゆっくり流れていた。
家族の涙が止まったとき、海斗の未来は静かに動き始めました。
親のことは、子どもが思うより複雑で、思うより単純だったりします。(´ー`)




