第8話「ななちゃんの、しょうにん」
旧タイトル回収回
七年の約束を胸に、海斗は夢へ、菜々子は「証人」として新しい一歩を踏み出します。
慈恩おじちゃんに、呼ばれた。
菜々子ちゃん、ちょっと来てくれる、って。
いつもの、ちょっと、とは違う声だった。
ないしょの箱を、そっと開ける前みたいな声。
わたしは、フルートのケースを背負ったまま。
隣のビルの、十階にのぼった。
部屋の中に、あの、植え込みのお兄ちゃんがいた。
海斗おにいさん。
ちゃんと、立ってた。
もう、膝を抱えてなかった。
それだけで、胸の奥が、ふわっと熱くなった。
植え込みの奥にいた人が、ちゃんと、光のあるところに出てきていた。
「あ」
海斗おにいさんが、わたしを見た。
「……この前の」
「うん。ななこ」
「……かいと、です」
海斗おにいさんは、ぺこって頭を下げた。
わたしは、うれしくなった。
よかった。
元気になってる。
「菜々子ちゃん」
慈恩おじちゃんが、言った。
「あなたは、これから、証人、です」
証人?
わたしは、首をかしげた。
難しい言葉だった。
でも、慈恩おじちゃんの声は、ふざけていなかった。
「証人って、なに?」
「見ててあげる人、です」
「見てて、あげる?」
「うん。海斗くんのこと、ずっと見ててあげる人」
見てて、あげる。
わたしは、考えた。
それなら、できる。
だって、わたしは、見つけたんだもん。
植え込みの、奥の、海斗おにいさんを。
あのとき、見なかったことにしなかった。
だったら、これからも、見なかったことにしない。
「うん。やる」
わたしは、言った。
声に出したら、小さな約束が、本当の形になった気がした。
◆◇
——海斗
机の上に、紙があった。
難しい字が、ならんでいた。
白い紙なのに、やけに重そうに見えた。
契約書、というものらしい。
「お兄さん、ここに、名前を書いてください」
ジオンさんが、ペンをくれた。
ぼくは、ペンをにぎった。
手が、少しふるえた。
名前を書く。
それだけで、もう戻れなくなる気がした。
西野、海斗。
ぼくは、自分の名前を書いた。
ゆっくり、ていねいに。
書きながら、隣を見た。
あの女の子が。
ななちゃんが。
同じ机で。
別の紙に、何か書いていた。
ひらがなで。
大きな字で。
しょうにん。
その字は、ぜんぜん上手じゃなかった。
でも、まっすぐだった。
ぼくは、その字を見た。
ななちゃんの、しょうにん。
なぜか、その言葉が。
ぼくの胸の、奥に。
ことん、と落ちた。
この子が、ぼくの、証人。
この子が、ぼくのことをずっと見ててくれる。
だったら。
ぼく、がんばれるかも。
一人で行くのに。
一人じゃないみたいだった。
ぼくは、自分の名前を書き終えた。
西野、海斗。
少し、曲がった字だった。
でも、消さなかった。
この字で、行く。
今のぼくの字で。
◆◇
——慈恩
契約の内容は、こうだ。
ぼくが、海斗くんを支える。
ドイツに行くためのお金も、ぼくが用意する。
その代わり。
海斗くんが、プロになったら。
その収入の、三割を五年間。
延長も、できる。
でも、プロになれなかったら。
ぼくの取り分は、ゼロ。
数字にすると、ひどく簡単に見える。
けれど、これはお金の話じゃない。
一人の子どもを、世界へ出すための橋だ。
「これで、いいです」
ぼくは、言った。
本当は、お金のことなんて、どうでもいい。
この子が、世界に出られれば、それでいい。
でも、それは言わない。
ぼくは、二人を奥の部屋に行かせた。
「お茶でも、飲んでてください」
菜々子ちゃんは、紙を胸に抱えていた。
海斗くんは、それを横目で見て、少しだけ笑っていた。
二人が、いなくなってから。
ぼくは、立ち上がった。
窓のところに行く。
目を開ける。
いつもより、ずっと深く。
両手の指をそろえる。
人差し指と、中指。
八方除け。
昔の、おまじないだ。
東西南北と、その間。
八つの方角から来る、悪いものを全部はね返す。
一度きりしか、使えない。
ぼくの力を全部、使う。
だから、人生で、何度も使えるものじゃない。
それを今、この子のために使う。
損か得かで言えば、割に合わない。
でも、割に合うものだけ選んでいたら、子どもは救えない。
ぼくは、空中に、印を切った。
この子は、これから、遠くへ行く。
知らない国で。
知らない言葉の中で。
たった一人で、戦う。
だから。
せめて、悪いものが、近づかないように。
ぼくの力で、できる、精いっぱいを。
それから、もう一つ。
あの小さな証人の目が、折れないように。
印を切り終えたとき。
ひたいに、汗がにじんでいた。
めんどくせぇ。
ぼくは、小さくつぶやいた。
でも、その声に。
いやな、ひびきはなかった。
奥の部屋から。
子どもたちの、笑い声が聞こえた。
菜々子ちゃんと、海斗くん。
二人の声。
いい、コンビだ。
片方は、走る子。
片方は、見ている子。
どちらが欠けても、この物語は進まない。
口の端が、自分でも、すこし上がった。
その夜。
京子さんが、海斗くんに、言ったそうだ。
海斗。
ドイツに、行こう。
夏の終わりが。
すぐ、そこまで来ていた。
走る海斗と見守る菜々子、それぞれの役目がはっきりしたことで、物語は次の場所へ動き出します。
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