第9話「空港」
いよいよ旅立ちの日――植え込みで始まった約束が、空港で未来への約束に変わります。
——海斗
夏の、終わり。
ぼくは、ドイツへ行く。
行く、という言葉は、かんたんなのに。
胸の中では、ずっと重かった。
二〇〇八年の、晩夏。
十五歳の、夏の終わりに。
あの植え込みの公園で、膝を抱えていた夏から。
まだ、半年も、経っていない。
空港は、人でいっぱいだった。
知らない言葉が、あちこちで聞こえる。
まだ日本にいるのに、もう知らない場所に立っているみたいだった。
母さんは、来られなかった。
店を休めない。
朝、玄関で、ぎゅっと抱きしめてくれた。
それで、じゅうぶんだった。
陽菜は、泣いた。
翼は、わけもわからず、笑っていた。
ぼくは、もう、泣かなかった。
泣く場所は、あの夜、ぜんぶ、使い切った。
ロビーの隅に、糸目の人が、立っていた。
その隣に、小さな影。
ななちゃんだった。
フルートのケースを抱えている。
両手で、ぎゅっと。
泣かないために、何かにつかまっているみたいに。
ジオンさんが、ここまで連れてきてくれたらしい。
ぼくを見送るために。
ななちゃんは、走って、こなかった。
いつもみたいに、跳ねて、こなかった。
ただ、立って、ぼくを見ていた。
あの日と同じ目だった。
植え込みの奥まで、まっすぐ届いた目。
なにか、言いたそうに。
でも、言えなくて。
ぼくは、その前に、しゃがんだ。
ゆっくり、膝をついて。
ななちゃんと、おなじ高さに。
——あの植え込みで。
この子が、いつも、そうしてくれたみたいに。
近くにいすぎると、いやがるから。
とおすぎると、聞こえないから。
ちょうどいい高さに、この子は、いつも、来てくれた。
今度は、ぼくの番だ。
「ななちゃん」
声が、震えないように。
「ぼく、行ってくる」
「うん」
「遠いとこ」
「うん」
ななちゃんの目が、すこし、潤んでいた。
でも、泣かなかった。
ぼくの前で、泣くまいと、している。
……強いな、この子は。
ぼくは、すこし、笑った。
それから、いちばん、言いたかったことを言った。
「七年、見ててね」
ななちゃんが、まばたきをした。
言ってから、こわくなった。
七年なんて、小さな子に頼むには長すぎる。
「七年だけ。見ててくれたら、いい」
だけ、なんて言い方をした。
本当は、ぜんぜん、だけじゃなかった。
なんで、七年なのか。
自分でも、わからなかった。
ただ、それくらい、かかる気がした。
あいつらに奪われたものをぜんぶ、取り返すには。
逃げたぼくが、逃げなかったぼくに、なるには。
世界の、いちばん上まで、行くには。
——きっとそれくらい、かかる。
ぼくは、もう、植え込みの奥には、いない。
膝も、抱えない。
走る。
誰よりも、うまかった、あのころのぼくに、もういちど、なる。
ううん。
あのころより、ずっと上に。
「見てて。ぼくが、ちゃんと、走るとこ」
「……うん」
ななちゃんは、こくり、と、うなずいた。
ちいさな、でも、はっきりした、うなずきだった。
「みてる。ぜったい、みてる」
その声は、小さかった。
でも、ぼくの七年を支えるには、じゅうぶんすぎるくらい、強かった。
ぼくは、立ち上がった。
もう、しゃがまない。
ゲートのほうへ、歩きだす。
一歩ごとに、足が重くなった。
それでも、止まらなかった。
うしろで、フルートのケースが、かたん、と鳴った気がした。
ぼくは、振り返らなかった。
振り返ったら。
たぶん、走って、戻ってしまうから。
あの、植え込みの奥に。
いちばん、安全だった、あの場所に。
だから、前だけ、見て、歩いた。
前だけ見ることが、ななちゃんとの約束を守ることだと思った。
搭乗口の、向こうへ。
知らない国の、知らない言葉の、まんなかへ。
ぼくの、七年が、はじまる。
◆◇◆◇
——菜々子
「うん」
わたしは、言った。
おにいさんの、せなかに。
もう、聞こえないかも、しれないけど。
言った。
聞こえなくても、言わなきゃいけない気がした。
おにいさんは、振り返らなかった。
いちども。
まっすぐ、歩いていった。
ガラスの、向こうへ。
だんだん、小さくなって。
人の波に、まぎれて。
……見えなく、なった。
わたしは、ずっと立っていた。
見えなくなっても、まだ、見ていた。
見えないものを、見るって。
こういうことなのかな、と思った。
だって、約束したから。
見てる、って。
ジオンさんが、となりに来た。
「いいんですか。手、振らなくて」
「ふらない」
「手をふったら、おわりみたいだもん」
おわりじゃない。
はじまりだから。
ジオンさんは、すこし、わらった。
「……なるほど」
それ以上は、なにも、言わなかった。
いつもみたいに。
* * *
うちに、帰った。
お店の、奥。
神棚が、ある。
いつもは、お父さんとお母さんが、手を合わせる場所。
わたしは、ふみ台をもってきた。
のぼって、神棚の前に、立つ。
二礼。
二拍手。
ぱん、ぱん。
ちいさな手の音が、お店の奥に、ひびいた。
なにをおねがいするのか。
うまく、言えない。
でも、おねがいした。
——おにいさんが、ぶじでありますように。
——おにいさんが、ちゃんと、走れますように。
——わたしが、ずっと見ていられますように。
最後のおねがいだけ、少しだけ、声に出た。
一礼。
それから、二階に、あがった。
つくえの、ひきだし。
あたらしい、ノート。
わたしは、えんぴつをにぎった。
ひらがなで。
大きな字で。
いちばん、ていねいに。
「ななちゃんの、しょうにん」
そう、書いた。
空港で泣かなかったぶん、えんぴつの先が、少しだけ濃くなった。
しょうにん、って、なに、って、きいたら。
ジオンさんは、言った。
見ててあげる人、だって。
だから、わたしは、しょうにん。
おにいさんを見ててあげる人。
七年。
ながいのか、みじかいのか、わからない。
でも、わたしは、まてる。
まつのは、とくいだから。
でも、ただ待つんじゃない。
ちゃんと見ながら、待つ。
ノートをとじる。
まどの外。
夏の、おわりの、空。
飛行機雲が、一本。
まっすぐ、西のほうへ、のびていた。
おにいさんの、いく方向に。
わたしは、その雲が、消えるまで、見ていた。
消えても、まだ。
そこに線が残っている気がした。
別々の場所にいても、「見ている」という約束は、二人をこれからもつないでいきます。




