第10話「漢字を覚えよう」
遠いドイツから届いた手紙が、菜々子に新しい約束をくれた。
海斗おにいさんが、ドイツに行って。
季節が、いくつか、過ぎた。
空港の日のことは、まだ、ときどき思い出した。
フルートのケースを抱えた手の中に、あのときの力が残っている気がした。
わたしは、小学二年生になった。
ある日。
お店に、お手紙がとどいた。
わたし宛て。
わたしの名前が、書いてあった。
それだけで、封筒が少し光って見えた。
切手が、見たことのない形だった。
ドイツ、って書いてある。
ローマ字みたいな、住所。
海斗おにいさんからだ。
わたしは、お店の奥で、封筒をあけた。
手が、すこし、ふるえた。
中には、便箋が、一枚。
海斗おにいさんの字は、思ったより、ていねいだった。
遠い国から、まっすぐ歩いてきた字みたいだった。
でも。
漢字が、いっぱい、あった。
わたしの、知らない漢字。
ならったことの、ない漢字。
「……読めない」
ひらがなだけ、拾って、読む。
「げんき」「まいにち」「サッカー」。
わかるのは、それだけ。
あとは、黒い、四角い、かたまり。
その黒いかたまりの中に、海斗おにいさんの声が入っている気がした。
くやしかった。
海斗おにいさんが、せっかく、書いてくれたのに。
わたしは、半分しか、読めない。
お母さんに、見せた。
お母さんが、読んでくれた。
「えっとね。『元気です。毎日、サッカーの練習をしています』」
「『ドイツは、寒いです。ことばは、まだ、むずかしいです』」
「『でも、ぼくは、逃げません。見ててください』」
見ててください。
その言葉だけ、お母さんの声で、わたしの中に、ぴたっと入った。
でも、ほんとうは。
その言葉を、わたしの目で見つけたかった。
見てる。
わたしは、見てる。
約束した、もん。
でも。
手紙は、お母さんに読んでもらわないと、読めない。
それが、いやだった。
お母さんが読んでくれるのが、いやなんじゃない。
海斗おにいさんのいちばん最初の声を、わたしが受けとれないことが、いやだった。
海斗おにいさんの言葉をいちばん最初に、わたしが、読みたい。
お母さんの声じゃ、なくて。
わたしの、目で。
その夜。
わたしは、ふとんの中で、決めた。
空港で手を振らなかったときみたいに。
心の中で、ひとつ、決めた。
漢字を覚えよう。
もっともっと覚えよう。
海斗おにいさんの手紙が、ぜんぶ、ひとりで読めるように。
わたしが、海斗おにいさんに書く手紙も。
ひらがなばっかりじゃ、なくて。
ちゃんと、漢字で、書けるように。
つぎの日から、わたしは、漢字の練習をはじめた。
学校で、ならう漢字だけじゃ、たりない。
待っているだけじゃ、追いつけない気がした。
お母さんに、ドリルを買ってもらった。
二年生の、ドリル。
それが終わったら、三年生の。
むずかしくても、やめなかった。
だって、これは、宿題じゃない。
わたしが、やりたくて、やってるんだから。
海斗おにいさんの言葉まで、わたしが歩いていくための道だった。
ノートの、すみっこに。
ときどき、書いた。
「ななちゃんの、しょうにん」。
その字も、すこしずつ、上手になっていった。
字が上手になるたびに、約束の形も、少しずつはっきりしていく気がした。
はじめての、お返事は。
まだ、ひらがなが、多かった。
でも、いくつか、漢字をまぜた。
ならった、ばっかりの、漢字。
まちがっていたら、どうしようと思った。
でも、まちがっていても、わたしの字で届けたかった。
「ななこも、元気。ふえ、ふいてる」
「海斗おにいさんも、元気でね」
「ぜったい、見てるから」
ポストに、入れる。
とどくまで、何日も、かかるらしい。
海の、向こうまで。
でも、かまわない。
わたしの言葉が、ゆっくり、海をわたって。
海斗おにいさんに、とどく。
そのあいだも、わたしは、ちゃんと見ている。
紙の上から。
それだけで、よかった。
ポストの口が、かたん、と鳴った。
その音が、なんだか、神棚で手を打つ音に、すこしにていた。
読めない悔しさが、菜々子を少しずつ前へ進ませていく。




