第11話「ドイツの、海斗」
遠いドイツで、海斗は言葉の壁にぶつかりながらも、ボールを蹴り続けていた。
ドイツの、冬は、長い。
灰色の、空。
息が、白い。
ぼくは、ここで、ボールを蹴っている。
ジュニアチーム。
でも、ぼくのいる場所は、ひとつ、上だった。
ぼくは、いちばん、年下だった。
まわりは、みんな、ぼくより、大きい。
背も、体つきも、声も。
来たばかりのぼくをコーチは、上の組に入れた。
「お前は、ここじゃない」と、言うみたいに。
うれしい、はずだった。
でも。
ここには、もうひとつ、壁があった。
言葉だ。
コーチの言うことが、わからない。
チームメイトの、冗談も、わからない。
ロッカーで、みんなが笑っても。
ぼくだけ、なんで笑ってるのか、わからない。
日本にいたとき。
ぼくは、しゃべらなくても、平気だった。
しゃべらないほうが、安全だった。
でも、ここでは、ちがう。
しゃべれないと、いないのと、おなじだった。
——いない人として、そこにいる。
あの教室と、おなじだ。
ちがうのは。
ここでは、ボールが、ある。
ピッチに、立てば。
言葉は、いらなかった。
パスは、パスだ。
走れば、わかる。
ぼくが、いいところに、走りこめば。
ボールが、来る。
点を取れば。
みんなが、ぼくの名前を呼ぶ。
「カイト」って。
発音は、へんだったけど。
それでも。
サッカーだけが、ぼくと、みんなの、同じ、言葉だった。
だから、ぼくは、ピッチの上だけは、いない人じゃ、なかった。
その日。
寮に、手紙がとどいた。
日本から。
ななちゃんだ。
封をあける。
ひらがなが、いっぱい。
ところどころに、おぼえたての、漢字。
まだ、まがった、漢字。
「海斗おにいさん、げん気?」
「気」の字が、すこし、ゆがんでいた。
ぼくは、それを見て。
なぜか、笑ってしまった。
ドイツに来て、はじめて。
ひとりで、笑った。
ななちゃんが。
漢字を練習してる。
ぼくの手紙をひとりで、読みたくて。
ぼくに、ちゃんと、書きたくて。
六歳の子が。
海の、向こうで。
ぼくのために、知らない字をひとつずつ、覚えてる。
……ぼくは、どうだ。
ぼくは、ここの言葉から、逃げてる。
わからないふりをして。
しゃべらないで、すむように。
日本にいたときと、おなじだ。
ボールの外では、まだ、植え込みの奥に、いる。
ちがう。
もう、いない。
ぼくは、しゃがまない、って、決めたんだ。
ぼくも、覚える。
ドイツ語を。
ななちゃんが、漢字を覚えるみたいに。
逃げるんじゃ、なくて。
ぶつかる。
ことばに。
その夜。
ぼくは、返事を書いた。
日本語で。
でも、いつもより、ずっと長く。
ドイツの、こと。
チームの、こと。
寒い、こと。
それから、さいごに、こう書いた。
「ドイツの寮の、となりの部屋から」
「毎晩、ピアノの音が、する」
「へたくそだけど」
「きいてると、ぼくは、ひとりじゃない、気がする」
「ななちゃんの、ふえも」
「いつか、きいてみたい」
封をする。
窓の外。
ドイツの、雪。
遠くで、ピアノが、鳴っていた。
たどたどしく。
でも、まっすぐ。
ぼくは、その音をずっときいていた。
菜々子の手紙が、海斗にドイツ語と向き合う勇気をくれた。




