第46話「自分の、音」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
「菜々子。卵焼き、取らないの?」
ほのかに言われて。
私は、食堂の小皿を見た。
「あ。食べる」
「さっきから、見てるだけだったけど」
「どれにしようかな、って」
「三分も?」
「そんなに?」
ほのかが、笑った。
私も。
少しだけ、笑った。
大学の食堂。
昼休み。
まわりから、話し声が聞こえる。
お箸が、お皿に触れる音。
椅子を引く音。
窓から差し込む、やわらかい光。
私は、卵焼きの小皿を取った。
一口、食べる。
「甘い」
「ここ、いつも甘いよ」
「そうだったっけ」
「三年も食べてるのに?」
また、ほのかが笑った。
今度は。
私も、ちゃんと笑えた。
あの日から。
すこしずつ、時間が過ぎた。
私は、無理じいをやめた。
鳴らさなきゃ。
書かなきゃ。
早く、元の私に戻らなきゃ。
そうやって、自分を追い立てることをやめた。
休んだ。
ただ、生活をした。
朝、起きる。
顔を洗う。
お母さんの作った朝ごはんを食べる。
学校へ行く。
授業を受ける。
ほのかと、お昼を食べる。
帰って。
お風呂に入って。
眠る。
最初は。
それだけで、つかれた。
一日を終えるだけで。
長い距離を走ったみたいだった。
フルートのケースを開けない日もあった。
日記帳を見ない日もあった。
神棚の前に立たない朝もあった。
それでも。
お父さんも、お母さんも。
何も言わなかった。
慈恩さんの言葉を、思い出した。
鳴らないことも。
書けないことも。
いまの私の、全部。
だから。
できない日を。
なかったことにしなかった。
それも、私の一日だと思うことにした。
海斗くんの影を、追わない毎日。
海斗くんが、どうしているのか。
気にならないわけじゃない。
駅の画面に、試合の映像が流れると。
足が止まりそうになる。
街で、海斗くんの名前を聞けば。
胸の奥が、痛くなる。
スマートフォンを開いて。
名前を検索しそうになる夜もあった。
でも。
見なかった。
我慢した、というより。
いまは、見ないと決めた。
海斗くんを見る前に。
まずは。
私が、私を生きる。
それだけをした。
* * *
ある朝。
鏡を見た。
寝ぐせが、右側だけ跳ねていた。
「ひどい」
思わず、声が出た。
水をつけても、直らない。
手で押さえて。
離す。
また、跳ねる。
鏡の中の私が。
少し困った顔をした。
それを見て。
私は、ふと思った。
ああ。
私だ。
鏡の中にいるのが。
ちゃんと、私に見えた。
特別なことは、何もなかった。
音が戻ったわけでもない。
日記が書けたわけでもない。
二回目の拍手も、まだ鳴らない。
ただ。
寝ぐせに困っている私が、鏡にいる。
それだけだった。
それでも。
久しぶりに、思えた。
私。
ここに、いる。
海の向こうに置いてきた半分が。
ほんの少しずつ。
戻ってきていた。
* * *
その日の夕方。
窓から、風が入ってきた。
カーテンが、ゆっくり持ち上がる。
外から。
子どもたちの声が聞こえた。
自転車のベル。
遠くを走る電車の音。
台所からは。
お母さんが夕食を作る音がする。
私は。
机の横に置いてある、フルートのケースを見た。
吹かなきゃ、とは思わなかった。
練習しなきゃ、でもない。
一番になるためでも。
自分の音を、さがすためでもなかった。
ただ。
吹きたい。
そう思った。
なんとなく。
窓から入る風が、気持ちよくて。
この風の中で。
一度だけ、音を出してみたくなった。
それだけだった。
私は、フルートのケースを開いた。
銀色の管を、一つずつ取り出す。
つなげる。
指で、冷たい表面に触れる。
久しぶりだった。
楽器を構える。
息を吸った。
一音、吹く。
音は。
少し、かすれた。
「……あ」
私は、いったんフルートを下ろした。
前なら。
失敗したと思った。
やっぱり鳴らない、と。
すぐに、もう一度吹いていた。
きれいな音が出るまで。
自分を責めながら、何度でも。
でも。
今日は。
かすれた音が、少しおかしかった。
長く眠っていた人が。
起きたばかりで、声を出したみたいだった。
「久しぶり、だもんね」
私は。
フルートに向かって言った。
もう一度、息を吸う。
今度は。
上手に吹こうとしなかった。
正しい音を出そうとも。
自分の音を見つけようとも、しなかった。
ただ。
吹きたいように、吹いた。
楽譜を開く。
だれかが作った、古い曲。
何度も吹いた。
よく知っている曲。
指が、最初の音を覚えている。
私は。
ゆっくり、吹きはじめた。
* * *
植え込みの奥の、暗さ。
葉のあいだから見えた。
小さな背中。
空港で。
振り返らずに歩いていった、海斗くん。
画面の向こうに広がっていた。
世界の芝生の、緑。
慈恩さんの。
ほんとうのことを隠す、伸びた語尾。
葵ちゃんの笑い声。
NAKANOに流れる。
だしの匂い。
お父さんの。
「休めばええ」
という声。
お母さんが、毎日置いてくれた。
温かいごはん。
別れの夜。
胸の奥が裂けたような、痛み。
それでも。
消えなかった。
すきだ、という気持ち。
私は。
その全部を、思い出していた。
思い出そうとしたわけではない。
音を吹くたび。
一つずつ。
勝手に、浮かんできた。
息に、のる。
指に、のる。
音の中へ、流れていく。
きれいな思い出だけじゃない。
つらかったことも。
見たくなかったものも。
忘れたかった夜も。
全部。
そのまま、流した。
すると。
音が、変わった。
最初は、かすれていた。
細く、震えていた。
それが。
息を重ねるたびに。
少しずつ、前へ伸びていく。
窓から入った風が。
音を、カーテンの向こうへ運んでいく。
濁っていない。
まっすぐだった。
久しぶりの。
まっすぐな音。
でも。
音大の、上手な子たちの音とは違った。
太くて。
強くて。
ぶれない。
遠くまで、きれいに届く。
そんな音ではなかった。
私の音は。
少し細い。
ところどころ、揺れる。
明るいだけでもない。
悲しいだけでもない。
たくさんの色が。
水に溶けるみたいに。
一つの音の中に、にじんでいた。
私は。
最後まで、吹いた。
音が、止まる。
部屋に。
静けさが戻った。
フルートを持ったまま。
動けなかった。
胸の奥に。
まだ、音が残っている。
手が、震えていた。
でも。
前みたいな、怖い震えではなかった。
「これだ」
小さく。
声が出た。
これが。
私の音だ。
* * *
自分の音は。
技術だけではなかった。
一番になることでも。
自分で曲を作ることでもない。
技術が、いらないわけじゃない。
上手にならなくていいわけでもない。
でも。
それだけでは。
私の音には、ならない。
私が見てきたもの。
感じてきたもの。
好きになった人。
別れた人。
助けてくれた人。
何も聞かずに、そばにいてくれた人。
痛かったこと。
うれしかったこと。
忘れられないもの。
忘れたくないもの。
その全部が。
音に、にじんでいた。
だれも。
私が見たものと、まったく同じものは見ていない。
植え込みの奥にいた海斗くんも。
空港の別れも。
十年の時間も。
私だけが見た。
私だけが。
その場所にいた。
だから。
だれにも、同じ音は出せない。
私だけの音。
しょうにんの、音。
見ることが。
音になった。
書けなかったものが。
息になって、流れ出した。
ずっと。
私は、自分が見えなかった。
鏡を見ても。
日記を書こうとしても。
自分が、だれなのかわからなかった。
自分を見つめようとするほど。
私が、遠ざかっていった。
でも。
今日。
すこしだけ、わかった。
私は。
私だけを見つめても、見えない。
私が見てきたもの。
私の中に残ったもの。
それを、外へ流したとき。
そこに。
私がいた。
あの夜。
私は思った。
どうして。
しょうにんだったんだろう、と。
しょうにんであることが。
私を半分にしたんじゃないか、と。
でも。
違った。
しょうにんが。
私を半分にしたんじゃない。
私は。
外ばかり見て。
自分を、海の向こうへ置いてきた。
見ることは。
自分を消すことじゃない。
見てきたものを。
自分の中へ戻すこと。
それが。
私の、しょうにんだった。
* * *
私は、フルートを置いた。
それから。
神棚の前に立った。
二礼。
頭を下げる。
両手を。
胸の前に上げた。
少し、怖かった。
今日も。
二回目が鳴らなかったら。
さっきの音は。
ただの偶然だったのかもしれない。
そんな考えが、浮かんだ。
でも。
すぐに、首を振った。
二回目が鳴らなくても。
さっきの音は、消えない。
できなくても。
いまの私の、全部。
私は、息を吸った。
パン。
一回目。
乾いた音が、部屋に響く。
手を離す。
そして。
もう一度。
自分の手で、鳴らそうと思った。
右手を。
左手へ下ろす。
今度は。
途中で、止まらなかった。
パン。
二回目が、鳴った。
「あ……」
鳴った。
あの夜から。
ずっと鳴らせなかった。
二回目の拍手。
音は、すぐに消えた。
でも。
私の中には。
いつまでも残っていた。
涙が、一つ。
頬を流れた。
悲しい涙ではなかった。
私が。
私のところへ。
やっと戻ってきた。
手のひらが。
じん、としている。
二回、鳴らした手が。
温かかった。
* * *
私は、机に向かった。
日記帳を開く。
『ななちゃんの、しょうにん』
ずっと。
白いままだったページ。
前につけた。
小さな黒い点が残っている。
鉛筆を握った。
すぐには、書けなかった。
でも。
今日は。
白いページが、怖くなかった。
鉛筆の先を、紙につける。
一文字ずつ。
ゆっくり、書いた。
『今日、私の音が、もどってきた』
それだけだった。
上手な文章じゃない。
あいかわらず。
私は、書くのが下手だった。
でも。
書けた。
一行だけ。
それで、よかった。
窓の外を見る。
空が。
夜の色に変わっていく。
あの向こうに。
海がある。
海の向こうに。
海斗くんがいる。
海斗くんは。
私を引き止めなかった。
ひとりに、してくれた。
そのおかげで。
私は。
海斗くんのいない場所で。
自分の音を見つけた。
それが。
海斗くんの望んだことだったのか。
本当は、わからない。
海斗くんは。
言葉にしなかった。
私が。
そう思いたいだけかもしれない。
でも。
あのとき。
「わかった」
と言った海斗くんの声を。
私は、覚えている。
苦しそうな声だった。
自分も痛いのに。
私を、引き止めなかった声。
「ありがとう」
私は。
海の向こうへではなく。
自分の胸の中へ、言った。
この音を。
いつか。
だれかに聞かせる日が来るだろうか。
海斗くんに。
聞かせる日が来るだろうか。
わからない。
まだ。
ずっと先のことだ。
いまは。
それを考えなくていい。
会えるかどうかも。
もう一度、つながるかどうかも。
いま、決めなくていい。
今日。
私が戻ってきた。
それだけで、十分だった。
半分じゃない私。
だれかの影ではない私。
うまく吹けない日も。
何も書けない日も。
全部を含んだ、私。
私は。
ここにいる。
もう一度。
フルートを手に取った。
楽譜は、開かなかった。
窓を、少し大きく開ける。
夜の風が。
部屋へ入ってきた。
私は、フルートを構えた。
だれかに聞かせるためではない。
上手になるためでも。
自分をさがすためでもない。
ただ。
吹きたいから、吹いた。
私が見てきたもの。
だれも知らない、私の時間。
その全部を。
息にのせる。
音は。
夜の風にのって。
私の外へ。
まっすぐ、流れていった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
notoやってます。
マガジンお仕事物
https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e
感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。




