第45話「書けない、鳴らない」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
日記帳を開いた。
最後の日付は、三か月前だった。
海斗くんと、離れた夜。
あの日から。
ページは、一枚も進んでいない。
破局から、どれくらいたっただろう。
数週間。
いや。
もう、何か月か。
日にちの感覚が、うまくつかめなかった。
季節だけが、先へ進んでいた。
音大の、三年生。
教室が変わった。
授業が変わった。
同級生たちは、コンクールや進路の話をするようになった。
だれが、どの楽団を受ける。
だれが、海外へ行く。
だれが、先生の演奏会に呼ばれた。
みんな、前へ進んでいる。
私だけが。
あの夜に、立ち止まっていた。
「では、最初から」
先生の声で、私はフルートを構えた。
息を吸う。
吹く。
でも。
音が、濁った。
まっすぐ前へ出るはずの音が。
途中で、細く折れた。
「もう一度」
「はい」
息を吸う。
唇の位置を直す。
指を確かめる。
もう一度、吹いた。
やっぱり。
自分の音が、出てこない。
あんなに、さがしていた。
私だけの音。
海斗くんに、いつか聞かせたいと思っていた音。
いまは。
近づくどころか。
ただの音すら、まっすぐ鳴らない。
「今日は、ここまでにしましょう」
先生は、怒らなかった。
それが、余計につらかった。
「少し、休んでから来なさい」
「……はい」
私は、フルートを下ろした。
楽器を拭いて。
一本ずつ、分けて。
ケースにしまう。
それだけのことに。
ずいぶん、時間がかかった。
* * *
家に帰って。
私は、日記帳を開いた。
表紙には。
『ななちゃんの、しょうにん』
そう、書いてある。
ずっと書いてきた。
海斗くんのこと。
町の人たちのこと。
だれにも見つけてもらえない人のこと。
私が見たことを。
忘れないように、書いてきた。
白いページに、鉛筆を置く。
今日、フルートが鳴らなかった。
それだけでも、いい。
書こうとした。
けれど。
言葉が、出てこなかった。
鉛筆を握ったまま。
白いページを見つめる。
一分。
二分。
どれくらい、そうしていただろう。
気づくと。
鉛筆の先が、紙に小さな黒い点を作っていた。
書けたのは。
その点、一つだけだった。
私は、日記帳を閉じた。
神棚の前に立つ。
二礼。
頭を下げる。
両手を、胸の前に上げた。
パン。
一回目の拍手が鳴る。
二回目。
手を合わせようとする。
でも。
やっぱり、鳴らせなかった。
手が、おりてこない。
右手と左手のあいだに。
小さな、すき間が残っている。
あの夜から、ずっと。
二回目は、鳴らないままだった。
私が。
私に戻れていない印。
まだ。
半分のままでいる印。
手を下ろして。
洗面所の鏡を見た。
そこに、女の子が立っている。
髪も。
目も。
口も。
私のものだった。
それなのに。
だれなのか、わからなかった。
しょうにん。
見る人。
でも。
いまは、何を見ても。
心が動かない。
海斗くんの試合も、見られなかった。
結果だけは、ニュースで目に入る。
得点。
勝利。
世界中の人が、海斗くんの名前を呼んでいる。
でも。
試合の画面を開く気には、なれなかった。
見れば。
会いたくなる。
声を聞きたくなる。
また、私の半分を。
海の向こうへ置いてきてしまう。
だから。
見なかった。
何も、見なければ。
何も、感じなくてすむ。
ただ、静かだった。
私の中が。
からっぽで。
静かだった。
* * *
お父さんが、気づいた。
NAKANOの奥。
私は、窓ぎわの席で。
冷めたお茶を前に、ぼうっと座っていた。
いつもなら、日記を書く席だった。
でも。
今日は、日記帳さえ持ってきていない。
カウンターの向こうで。
お父さんが、グラスを拭いていた。
私を見ている気配がした。
けれど。
何があったのか、くわしくは聞かなかった。
海斗くんと別れたことも。
フルートが鳴らないことも。
きっと、気づいていた。
それでも。
お父さんは、何も聞かなかった。
しばらくして。
私の前に、新しいお茶を置いた。
湯気が、ゆっくり上がる。
「菜々子」
「……うん」
「休めばええ」
それだけだった。
がんばれ、でもない。
どうしたんだ、でもない。
いつまで、そんな顔をしているんだ、でもない。
ただ。
「休めばええ」
お父さんは、もう一度言った。
「止まったら、あかんわけやない」
そう言って。
また、カウンターの中へ戻った。
おしつけがましく、なかった。
立ち直り方を、教えようともしなかった。
ただ。
ここに座っていていいと。
何もできないままで、いていいと。
そう言われた気がした。
厨房から。
だしの匂いが流れてきた。
お母さんは。
いつもどおり、ごはんを作っている。
包丁が、まな板をたたく音。
鍋の蓋が、かすかに鳴る音。
お茶碗を重ねる音。
変わらない、生活の手ざわり。
私が書けなくても。
フルートを鳴らせなくても。
二回目の拍手ができなくても。
家の中では。
晩ごはんが、作られている。
温かいお茶が、置かれる。
朝が来れば、店が開く。
私は。
立ち直らなきゃ、と。
ずっと、力んでいた。
早く、鳴らさなきゃ。
早く、書かなきゃ。
早く、元の私に戻らなきゃ。
戻れない私は。
だめなんだと思っていた。
その力みが。
お父さんの一言で。
すこしだけ、ゆるんだ。
ゆるんで。
その瞬間。
涙が、一つ。
こぼれた。
温かいお茶の中へ。
湯気の向こうで。
小さな波が、広がった。
* * *
私は。
慈恩さんのところへ行った。
神宝町のビル。
十階。
扉を開ける。
あいかわらず。
部屋には、煙草の煙が浮かんでいる。
見えるのに。
匂わない煙。
その向こうで。
慈恩さんは、ソファに座っていた。
いつものように。
深く、体を沈めている。
「こんにちは」
「はい。こんにちはー」
いつもと同じ声だった。
でも。
その日は。
返事が来るまでに、ほんの少し間があった。
慈恩さんが、顔を上げる。
私を見て。
糸みたいな目を、すこしだけ開いた。
「おや」
それだけ言った。
私は、ソファの前まで歩いた。
「慈恩さん」
「はい」
「フルートが、鳴らないんです」
声に出したら。
胸が、苦しくなった。
「日記も、書けない」
「はい」
「神棚の拍手も」
私は、自分の両手を見た。
「二回目が、鳴らせない」
慈恩さんは。
何も言わなかった。
「私」
一度、息を吸った。
「どうしちゃったんだろう」
声が、震えた。
自分を、責めていた。
こんなの。
しょうにんじゃない。
見る人なのに。
何も見られない。
鳴らせない。
書けない。
祈ることさえ、できない。
「私」
言葉が、あふれた。
「からっぽに、なったみたいで」
「前は、見えたんです」
「海斗くんも。慈恩さんも。町の人も」
「自分の音も、すこしずつ」
「なのに、いまは」
涙で。
慈恩さんの顔が、ぼやけた。
「なんにも、見えない」
「私。もう」
「しょうにんじゃ、ないのかな」
慈恩さんは。
しばらく、黙っていた。
灰皿に、煙草を置く。
煙が、細く上がった。
それから。
ゆっくり、口を開いた。
「鳴らないなら」
一度、言葉を切る。
「鳴らさなくて、いいですよー」
語尾が、伸びた。
でも。
その伸びは。
照れ隠しの伸びだった。
私には、もう、わかる。
葵ちゃんが、教えてくれた。
あの伸び。
慈恩さんが。
ほんとうのことを言うときの伸び。
「でも」
私は、言った。
「鳴らさないと」
「どうしてです?」
「だって、私は、音大生で」
「はい」
「フルートを吹く人で」
「はい」
「しょうにんで」
「はい」
「だから」
その先が、続かなかった。
鳴らさなければ。
書かなければ。
見なければ。
私には、何も残らない。
そう言おうとした。
けれど。
慈恩さんは。
小さく首をかしげた。
「無理に鳴らした音は」
「にごるでしょう」
やさしい声だった。
「……はい」
「なら」
煙草の煙が。
慈恩さんの前を、ゆっくり横切った。
「鳴るときに」
「鳴れば、いいんですよ」
「鳴るとき」
「はい」
「それまでは」
慈恩さんは、いつものように笑った。
「休んで、いい」
お父さんと。
同じ言葉だった。
けれど。
慈恩さんは、その先を続けた。
「書けないことも」
「鳴らせないことも」
「祈れないことも」
「ぜんぶ」
「いまの、あなたの」
「ぜんぶ、ですからー」
私は、顔を上げた。
「できない私も?」
「はい」
「しょうにん?」
「そもそも」
慈恩さんは。
灰皿の煙草を見ながら言った。
「しょうにんは、何かをする人とは、限りませんよ」
「でも、見る人でしょう」
「見られない日も、あります」
「書けない日も?」
「ありますねぇ」
「何も、鳴らなくても?」
「鳴らないことを、聞いているんでしょう」
「鳴らないことを……」
「はい」
慈恩さんは。
私を見た。
「いまの、あなたにしか」
「聞けない、静けさです」
その言葉を聞いた瞬間。
涙が、止まらなくなった。
鳴らさなくていい。
だれかに。
そう言ってほしかったのかもしれない。
ずっと。
私は、しょうにん。
人のことは、見えるのに。
慈恩さんの、ほんとうも読めるのに。
自分の音だけ。
見えなくなっていた。
そんな自分には。
価値がないと思っていた。
でも。
慈恩さんは。
見えなくなった私を、そのまま見た。
元に戻せとも。
前へ進めとも、言わなかった。
鳴らなくていい。
鳴らないことも。
いまの、あなたの全部だと。
言ってくれた。
「それで、いいんですよ」
慈恩さんが。
最後に、そう言った。
* * *
慈恩さんと話して。
帰るころには。
胸の奥が、すこし軽くなっていた。
何かが解決したわけじゃない。
フルートが、鳴るようになったわけでもない。
日記が、書けるわけでもない。
それなのに。
少しだけ、息がしやすかった。
「ありがとうございました」
「はい。お気をつけてー」
扉を開けて。
私は、廊下へ出た。
でも。
何かが気になって。
帰りぎわに、振り返った。
慈恩さんが。
すこし、疲れて見えた。
ソファに。
さっきより、深く沈んでいる。
細い目を閉じて。
右手で、胸元を軽く押さえていた。
「あー。めんどくせぇ」
そうつぶやいて。
いつものように笑った。
でも。
いつもの笑い声より。
すこしだけ、弱かった。
「慈恩さん」
「はい?」
「大丈夫ですか」
「何がです?」
「疲れてるみたいに、見えます」
「おや」
慈恩さんは、手を下ろした。
「見えるように、なりました?」
私は、言葉につまった。
慈恩さんは。
また、笑った。
「大丈夫ですよー」
語尾が、伸びる。
照れ隠し。
ほんとうのことを言うとき。
でも。
いまの伸びが。
どちらなのか。
私には、わからなかった。
それが。
すこしだけ、怖かった。
* * *
家に帰った。
慈恩さんの言葉が。
胸の中に、しみこんでいた。
鳴らさなくていい。
鳴らないことも。
いまの私の、全部。
私は、フルートを手に取った。
銀色の管が。
部屋の明かりを映している。
いつもなら。
鳴らさなければと思う。
一音だけでも。
昨日より、きれいな音を。
出さなければと思う。
でも。
今日は。
無理に吹かなかった。
管を、柔らかい布で拭いた。
一つずつ、ケースにしまう。
蓋を閉じた。
それだけにした。
日記帳も開いた。
白いページ。
前につけた、小さな黒い点が残っている。
鉛筆を手に取る。
でも。
無理に書かなかった。
白いページを見て。
何も書かないまま。
そっと、閉じた。
それから。
神棚の前に立った。
二礼。
頭を下げる。
両手を、胸の前に上げる。
パン。
一回。
二回目。
手を合わせようとする。
けれど。
やっぱり、鳴らせなかった。
手が、おりてこない。
右手と左手のあいだに。
小さな、すき間。
昨日までなら。
どうして、と自分を責めていた。
もう一度。
最初からやり直していた。
鳴るまで、何度でも。
自分の手を、打ち合わせようとしていた。
でも。
今日は。
鳴らない手を、責めなかった。
「いまは」
私は。
神棚に向かって、小さく言った。
「これで、いい」
二回目を鳴らさないまま。
ゆっくり、手を下ろした。
できなかった。
今日も。
何も、できなかった。
でも。
できない自分を。
今日は、追い立てなかった。
それだけだった。
それだけなのに。
胸の中にあった固いものが。
ほんの少し。
ゆるんだ気がした。
窓の外を見る。
暗い空。
あの向こうに。
海がある。
海の向こうに。
海斗くんがいる。
きっと、いまも走っている。
世界の頂点で。
ひとりで。
走り終えたあとの静けさの中に、いる。
私と、同じように。
別れを選んだあとの、静けさ。
海斗くんは。
私を、引き止めなかった。
私が。
私に戻れるように。
ほんとうは。
行かないでほしかったのかもしれない。
離れたくなかったのかもしれない。
それでも。
私を、手放した。
私は。
まだ、知らないふりをしていたけれど。
ほんとうは、わかっていた。
この静けさは。
海斗くんが、最後にくれたものでもある。
私が。
もう一度。
私の音をさがすための時間。
鳴らない。
書けない。
拍手も、鳴らせない。
それでも。
今日。
私は。
鳴らないことを、ゆるせた。
音は、出ていない。
何も、聞こえない。
でも。
底の底で。
固く結ばれていた何かが。
ひとつだけ、ゆるんだ。
それは。
聞こえないくらい。
小さな。
小さな音だった。
いつか。
ほんとうの音が、鳴るかもしれない。
まだ。
ずっと先。
遠い、遠い日の。
予感だけを。
胸に抱いて。
私は、目を閉じた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
notoやってます。
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