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世界一のストライカー【見て書いてきた少女】  作者: KASANE
7/24最終回です

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47/52

第45話「書けない、鳴らない」

時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。

 日記帳を開いた。


 最後の日付は、三か月前だった。


 海斗くんと、離れた夜。


 あの日から。


 ページは、一枚も進んでいない。


 破局から、どれくらいたっただろう。


 数週間。


 いや。


 もう、何か月か。


 日にちの感覚が、うまくつかめなかった。


 季節だけが、先へ進んでいた。


 音大の、三年生。


 教室が変わった。


 授業が変わった。


 同級生たちは、コンクールや進路の話をするようになった。


 だれが、どの楽団を受ける。


 だれが、海外へ行く。


 だれが、先生の演奏会に呼ばれた。


 みんな、前へ進んでいる。


 私だけが。


 あの夜に、立ち止まっていた。


「では、最初から」


 先生の声で、私はフルートを構えた。


 息を吸う。


 吹く。


 でも。


 音が、濁った。


 まっすぐ前へ出るはずの音が。


 途中で、細く折れた。


「もう一度」


「はい」


 息を吸う。


 唇の位置を直す。


 指を確かめる。


 もう一度、吹いた。


 やっぱり。


 自分の音が、出てこない。


 あんなに、さがしていた。


 私だけの音。


 海斗くんに、いつか聞かせたいと思っていた音。


 いまは。


 近づくどころか。


 ただの音すら、まっすぐ鳴らない。


「今日は、ここまでにしましょう」


 先生は、怒らなかった。


 それが、余計につらかった。


「少し、休んでから来なさい」


「……はい」


 私は、フルートを下ろした。


 楽器を拭いて。


 一本ずつ、分けて。


 ケースにしまう。


 それだけのことに。


 ずいぶん、時間がかかった。


    * * *


 家に帰って。


 私は、日記帳を開いた。


 表紙には。


『ななちゃんの、しょうにん』


 そう、書いてある。


 ずっと書いてきた。


 海斗くんのこと。


 町の人たちのこと。


 だれにも見つけてもらえない人のこと。


 私が見たことを。


 忘れないように、書いてきた。


 白いページに、鉛筆を置く。


 今日、フルートが鳴らなかった。


 それだけでも、いい。


 書こうとした。


 けれど。


 言葉が、出てこなかった。


 鉛筆を握ったまま。


 白いページを見つめる。


 一分。


 二分。


 どれくらい、そうしていただろう。


 気づくと。


 鉛筆の先が、紙に小さな黒い点を作っていた。


 書けたのは。


 その点、一つだけだった。


 私は、日記帳を閉じた。


 神棚の前に立つ。


 二礼。


 頭を下げる。


 両手を、胸の前に上げた。


 パン。


 一回目の拍手が鳴る。


 二回目。


 手を合わせようとする。


 でも。


 やっぱり、鳴らせなかった。


 手が、おりてこない。


 右手と左手のあいだに。


 小さな、すき間が残っている。


 あの夜から、ずっと。


 二回目は、鳴らないままだった。


 私が。


 私に戻れていない印。


 まだ。


 半分のままでいる印。


 手を下ろして。


 洗面所の鏡を見た。


 そこに、女の子が立っている。


 髪も。


 目も。


 口も。


 私のものだった。


 それなのに。


 だれなのか、わからなかった。


 しょうにん。


 見る人。


 でも。


 いまは、何を見ても。


 心が動かない。


 海斗くんの試合も、見られなかった。


 結果だけは、ニュースで目に入る。


 得点。


 勝利。


 世界中の人が、海斗くんの名前を呼んでいる。


 でも。


 試合の画面を開く気には、なれなかった。


 見れば。


 会いたくなる。


 声を聞きたくなる。


 また、私の半分を。


 海の向こうへ置いてきてしまう。


 だから。


 見なかった。


 何も、見なければ。


 何も、感じなくてすむ。


 ただ、静かだった。


 私の中が。


 からっぽで。


 静かだった。


    * * *


 お父さんが、気づいた。


 NAKANOの奥。


 私は、窓ぎわの席で。


 冷めたお茶を前に、ぼうっと座っていた。


 いつもなら、日記を書く席だった。


 でも。


 今日は、日記帳さえ持ってきていない。


 カウンターの向こうで。


 お父さんが、グラスを拭いていた。


 私を見ている気配がした。


 けれど。


 何があったのか、くわしくは聞かなかった。


 海斗くんと別れたことも。


 フルートが鳴らないことも。


 きっと、気づいていた。


 それでも。


 お父さんは、何も聞かなかった。


 しばらくして。


 私の前に、新しいお茶を置いた。


 湯気が、ゆっくり上がる。


「菜々子」


「……うん」


「休めばええ」


 それだけだった。


 がんばれ、でもない。


 どうしたんだ、でもない。


 いつまで、そんな顔をしているんだ、でもない。


 ただ。


「休めばええ」


 お父さんは、もう一度言った。


「止まったら、あかんわけやない」


 そう言って。


 また、カウンターの中へ戻った。


 おしつけがましく、なかった。


 立ち直り方を、教えようともしなかった。


 ただ。


 ここに座っていていいと。


 何もできないままで、いていいと。


 そう言われた気がした。


 厨房から。


 だしの匂いが流れてきた。


 お母さんは。


 いつもどおり、ごはんを作っている。


 包丁が、まな板をたたく音。


 鍋の蓋が、かすかに鳴る音。


 お茶碗を重ねる音。


 変わらない、生活の手ざわり。


 私が書けなくても。


 フルートを鳴らせなくても。


 二回目の拍手ができなくても。


 家の中では。


 晩ごはんが、作られている。


 温かいお茶が、置かれる。


 朝が来れば、店が開く。


 私は。


 立ち直らなきゃ、と。


 ずっと、力んでいた。


 早く、鳴らさなきゃ。


 早く、書かなきゃ。


 早く、元の私に戻らなきゃ。


 戻れない私は。


 だめなんだと思っていた。


 その力みが。


 お父さんの一言で。


 すこしだけ、ゆるんだ。


 ゆるんで。


 その瞬間。


 涙が、一つ。


 こぼれた。


 温かいお茶の中へ。


 湯気の向こうで。


 小さな波が、広がった。


    * * *


 私は。


 慈恩さんのところへ行った。


 神宝町のビル。


 十階。


 扉を開ける。


 あいかわらず。


 部屋には、煙草の煙が浮かんでいる。


 見えるのに。


 匂わない煙。


 その向こうで。


 慈恩さんは、ソファに座っていた。


 いつものように。


 深く、体を沈めている。


「こんにちは」


「はい。こんにちはー」


 いつもと同じ声だった。


 でも。


 その日は。


 返事が来るまでに、ほんの少し間があった。


 慈恩さんが、顔を上げる。


 私を見て。


 糸みたいな目を、すこしだけ開いた。


「おや」


 それだけ言った。


 私は、ソファの前まで歩いた。


「慈恩さん」


「はい」


「フルートが、鳴らないんです」


 声に出したら。


 胸が、苦しくなった。


「日記も、書けない」


「はい」


「神棚の拍手も」


 私は、自分の両手を見た。


「二回目が、鳴らせない」


 慈恩さんは。


 何も言わなかった。


「私」


 一度、息を吸った。


「どうしちゃったんだろう」


 声が、震えた。


 自分を、責めていた。


 こんなの。


 しょうにんじゃない。


 見る人なのに。


 何も見られない。


 鳴らせない。


 書けない。


 祈ることさえ、できない。


「私」


 言葉が、あふれた。


「からっぽに、なったみたいで」


「前は、見えたんです」


「海斗くんも。慈恩さんも。町の人も」


「自分の音も、すこしずつ」


「なのに、いまは」


 涙で。


 慈恩さんの顔が、ぼやけた。


「なんにも、見えない」


「私。もう」


「しょうにんじゃ、ないのかな」


 慈恩さんは。


 しばらく、黙っていた。


 灰皿に、煙草を置く。


 煙が、細く上がった。


 それから。


 ゆっくり、口を開いた。


「鳴らないなら」


 一度、言葉を切る。


「鳴らさなくて、いいですよー」


 語尾が、伸びた。


 でも。


 その伸びは。


 照れ隠しの伸びだった。


 私には、もう、わかる。


 葵ちゃんが、教えてくれた。


 あの伸び。


 慈恩さんが。


 ほんとうのことを言うときの伸び。


「でも」


 私は、言った。


「鳴らさないと」


「どうしてです?」


「だって、私は、音大生で」


「はい」


「フルートを吹く人で」


「はい」


「しょうにんで」


「はい」


「だから」


 その先が、続かなかった。


 鳴らさなければ。


 書かなければ。


 見なければ。


 私には、何も残らない。


 そう言おうとした。


 けれど。


 慈恩さんは。


 小さく首をかしげた。


「無理に鳴らした音は」


「にごるでしょう」


 やさしい声だった。


「……はい」


「なら」


 煙草の煙が。


 慈恩さんの前を、ゆっくり横切った。


「鳴るときに」


「鳴れば、いいんですよ」


「鳴るとき」


「はい」


「それまでは」


 慈恩さんは、いつものように笑った。


「休んで、いい」


 お父さんと。


 同じ言葉だった。


 けれど。


 慈恩さんは、その先を続けた。


「書けないことも」


「鳴らせないことも」


「祈れないことも」


「ぜんぶ」


「いまの、あなたの」


「ぜんぶ、ですからー」


 私は、顔を上げた。


「できない私も?」


「はい」


「しょうにん?」


「そもそも」


 慈恩さんは。


 灰皿の煙草を見ながら言った。


「しょうにんは、何かをする人とは、限りませんよ」


「でも、見る人でしょう」


「見られない日も、あります」


「書けない日も?」


「ありますねぇ」


「何も、鳴らなくても?」


「鳴らないことを、聞いているんでしょう」


「鳴らないことを……」


「はい」


 慈恩さんは。


 私を見た。


「いまの、あなたにしか」


「聞けない、静けさです」


 その言葉を聞いた瞬間。


 涙が、止まらなくなった。


 鳴らさなくていい。


 だれかに。


 そう言ってほしかったのかもしれない。


 ずっと。


 私は、しょうにん。


 人のことは、見えるのに。


 慈恩さんの、ほんとうも読めるのに。


 自分の音だけ。


 見えなくなっていた。


 そんな自分には。


 価値がないと思っていた。


 でも。


 慈恩さんは。


 見えなくなった私を、そのまま見た。


 元に戻せとも。


 前へ進めとも、言わなかった。


 鳴らなくていい。


 鳴らないことも。


 いまの、あなたの全部だと。


 言ってくれた。


「それで、いいんですよ」


 慈恩さんが。


 最後に、そう言った。


    * * *


 慈恩さんと話して。


 帰るころには。


 胸の奥が、すこし軽くなっていた。


 何かが解決したわけじゃない。


 フルートが、鳴るようになったわけでもない。


 日記が、書けるわけでもない。


 それなのに。


 少しだけ、息がしやすかった。


「ありがとうございました」


「はい。お気をつけてー」


 扉を開けて。


 私は、廊下へ出た。


 でも。


 何かが気になって。


 帰りぎわに、振り返った。


 慈恩さんが。


 すこし、疲れて見えた。


 ソファに。


 さっきより、深く沈んでいる。


 細い目を閉じて。


 右手で、胸元を軽く押さえていた。


「あー。めんどくせぇ」


 そうつぶやいて。


 いつものように笑った。


 でも。


 いつもの笑い声より。


 すこしだけ、弱かった。


「慈恩さん」


「はい?」


「大丈夫ですか」


「何がです?」


「疲れてるみたいに、見えます」


「おや」


 慈恩さんは、手を下ろした。


「見えるように、なりました?」


 私は、言葉につまった。


 慈恩さんは。


 また、笑った。


「大丈夫ですよー」


 語尾が、伸びる。


 照れ隠し。


 ほんとうのことを言うとき。


 でも。


 いまの伸びが。


 どちらなのか。


 私には、わからなかった。


 それが。


 すこしだけ、怖かった。


    * * *


 家に帰った。


 慈恩さんの言葉が。


 胸の中に、しみこんでいた。


 鳴らさなくていい。


 鳴らないことも。


 いまの私の、全部。


 私は、フルートを手に取った。


 銀色の管が。


 部屋の明かりを映している。


 いつもなら。


 鳴らさなければと思う。


 一音だけでも。


 昨日より、きれいな音を。


 出さなければと思う。


 でも。


 今日は。


 無理に吹かなかった。


 管を、柔らかい布で拭いた。


 一つずつ、ケースにしまう。


 蓋を閉じた。


 それだけにした。


 日記帳も開いた。


 白いページ。


 前につけた、小さな黒い点が残っている。


 鉛筆を手に取る。


 でも。


 無理に書かなかった。


 白いページを見て。


 何も書かないまま。


 そっと、閉じた。


 それから。


 神棚の前に立った。


 二礼。


 頭を下げる。


 両手を、胸の前に上げる。


 パン。


 一回。


 二回目。


 手を合わせようとする。


 けれど。


 やっぱり、鳴らせなかった。


 手が、おりてこない。


 右手と左手のあいだに。


 小さな、すき間。


 昨日までなら。


 どうして、と自分を責めていた。


 もう一度。


 最初からやり直していた。


 鳴るまで、何度でも。


 自分の手を、打ち合わせようとしていた。


 でも。


 今日は。


 鳴らない手を、責めなかった。


「いまは」


 私は。


 神棚に向かって、小さく言った。


「これで、いい」


 二回目を鳴らさないまま。


 ゆっくり、手を下ろした。


 できなかった。


 今日も。


 何も、できなかった。


 でも。


 できない自分を。


 今日は、追い立てなかった。


 それだけだった。


 それだけなのに。


 胸の中にあった固いものが。


 ほんの少し。


 ゆるんだ気がした。


 窓の外を見る。


 暗い空。


 あの向こうに。


 海がある。


 海の向こうに。


 海斗くんがいる。


 きっと、いまも走っている。


 世界の頂点で。


 ひとりで。


 走り終えたあとの静けさの中に、いる。


 私と、同じように。


 別れを選んだあとの、静けさ。


 海斗くんは。


 私を、引き止めなかった。


 私が。


 私に戻れるように。


 ほんとうは。


 行かないでほしかったのかもしれない。


 離れたくなかったのかもしれない。


 それでも。


 私を、手放した。


 私は。


 まだ、知らないふりをしていたけれど。


 ほんとうは、わかっていた。


 この静けさは。


 海斗くんが、最後にくれたものでもある。


 私が。


 もう一度。


 私の音をさがすための時間。


 鳴らない。


 書けない。


 拍手も、鳴らせない。


 それでも。


 今日。


 私は。


 鳴らないことを、ゆるせた。


 音は、出ていない。


 何も、聞こえない。


 でも。


 底の底で。


 固く結ばれていた何かが。


 ひとつだけ、ゆるんだ。


 それは。


 聞こえないくらい。


 小さな。


 小さな音だった。


 いつか。


 ほんとうの音が、鳴るかもしれない。


 まだ。


 ずっと先。


 遠い、遠い日の。


 予感だけを。


 胸に抱いて。


 私は、目を閉じた。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


notoやってます。

マガジンお仕事物

https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e


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