第44話「離れよう」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
「いったん、止めようか」
先生が、指揮棒を下ろした。
合奏が、止まる。
音楽室に、椅子のきしむ音だけが残った。
「フルート。二小節前から、もう一度」
「……はい」
私は、楽器を構えた。
息を吸う。
指揮棒が、上がる。
吹いた。
けれど。
音が、震えた。
譜面に書かれている音は、間違えていない。
指も、正しい場所を押さえている。
なのに。
私の音だけが、まわりの音から浮いていた。
「もう一度」
「はい」
吹く。
また、濁った。
先生は、しばらく私を見た。
「体調、悪い?」
「いえ。大丈夫です」
「そう。なら、自分の音を、もう少し聞いて」
自分の音。
その言葉が、胸に刺さった。
「……はい」
私は、うつむいた。
聞こうとしている。
ずっと。
でも。
聞こえない。
海斗くんと擦れ違うようになってから。
私の音は、どんどん遠くなっていた。
* * *
返事は遅れた。
電話は噛み合わなかった。
会える日は、いつまで待っても来なかった。
それでも、私は待った。
海斗くんが悪いわけじゃない。
世界の頂点で戦っている。
毎日、ぎりぎりのところで走っている。
わかっていた。
だから、寂しいと言えなかった。
会いたいとも、言えなかった。
つかれている声を聞けば、大丈夫だよ、と言った。
返事が来なければ、忙しいんだ、と自分に言い聞かせた。
試合があれば、画面の前で応援した。
海斗くんがゴールを決めれば、自分のことみたいにうれしかった。
けれど。
電話を切ったあと。
画面を閉じたあと。
私の中には、何も残らなかった。
フルートを吹いても、音が濁る。
日記を開いても、言葉が出てこない。
真っ白なページを前にして。
ペンを持ったまま、何十分も動けなくなる。
鏡を見た。
そこにいるのは、半分の私だった。
残りの半分は。
ずっと、海の向こうにある。
海斗くんの試合。
海斗くんの声。
海斗くんからの返事。
海斗くんが、次に振り返ってくれる瞬間。
私は、そればかり待っていた。
待つことが、私の毎日になっていた。
私は、海斗くんを想うあまり。
私を生きることを、やめかけていた。
ある夜。
私は、日記を開いた。
何も書けないまま、白いページを見つめた。
その横には、フルートのケースがある。
今日は、ケースを開けることさえできなかった。
スマートフォンを手に取る。
海斗くんとのやり取りを、上から読み返した。
『おはよう』
『おやすみ』
『試合、がんばってね』
『ありがとう』
『電話できる?』
『ごめん。移動してた』
言葉は、残っている。
でも。
私たちが、どこにもいなかった。
しょうにんは、見る人。
でも。
見るためには。
見る私が、ここにいなければならない。
いまの私には。
その私が、半分しかいない。
半分の私では、海斗くんを見られない。
自分の音も、見つけられない。
なんにも、見えない。
このままでは。
私は、消えてしまう。
海斗くんを想う気持ちだけを残して。
私自身が、いなくなってしまう。
見る人でいるために。
私は、まず。
私に戻らないといけない。
そう思った。
でも。
思っただけで、涙が出た。
別れたいわけじゃない。
きらいになんて、なっていない。
すきだった。
いまも、すきだった。
だからこそ。
このままでは、いけなかった。
私は、電話を手に取った。
国際電話。
海斗くんの名前を、指で押す。
まだ、発信はしない。
指が、震えていた。
やめよう。
今日は、やめよう。
もう少し考えてからにしよう。
そう思った。
けれど。
もう少し。
あと一日。
あと一週間。
そうやって待ち続けてきた。
待っているうちに。
私は、半分になった。
私は、深く息を吸った。
そして。
発信ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
切りたかった。
三回目が鳴る前に、海斗くんが出た。
「もしもし」
その声を聞いた瞬間。
言葉が、消えた。
「ななちゃん?」
「うん」
「どうした?」
海斗くんの声だった。
ずっと聞きたかった声。
この声を聞けば、決意が揺らぐ。
また、大丈夫だと言ってしまう。
私は、目を閉じた。
フルートのケースに、手を置いた。
冷たかった。
「海斗くん」
「ああ」
「私ね」
喉が、痛い。
声が、震える。
それでも。
今日も、私から動く。
「……離れよう」
◆◇
――海斗
「……離れよう」
僕は。
その言葉を、すぐには飲み込めなかった。
耳には、届いた。
意味も、わかる。
でも。
頭が、それを拒んでいた。
「え?」
それしか、言えなかった。
立ち上がろうとして。
ベッドの横に、膝をぶつけた。
痛みは、感じなかった。
「ななちゃん。いま、なんて」
聞き返しながら。
僕は、聞こえていた。
離れよう。
ななちゃんは、そう言った。
なんで。
どうして。
聞こうとした。
何か、あったのか。
僕が、何かしたのか。
ほかに、好きな人ができたのか。
それとも。
もう、僕を好きではないのか。
言葉が、喉まで上がった。
でも。
聞く前に。
わかってしまった。
何かが、あったんじゃない。
僕が、何かをしたんじゃない。
何も、しなかったんだ。
返事をしなかった。
声を届けなかった。
寂しいと言わせなかった。
ななちゃんが、自分の音を見失っていることにも。
気づけなかった。
僕の世界が。
僕の頂点が。
あの子を、影にしていた。
海の向こうで。
あの子が消えかけているのを。
僕は、止められなかった。
返事は遅れて。
声は疲れて。
あの子を、寂しくさせ続けた。
僕は、言ったのに。
何度でも、振り返る、と。
でも。
振り返っても。
届かなかった。
胸が、裂けそうだった。
電話を持つ手に、力が入る。
「待って」
言いかけた。
待って。
行かないで。
離れたくない。
僕は、ななちゃんが好きだ。
ずっと。
植え込みの奥にいた、あのころから。
僕を見てくれたのは、ななちゃんだった。
僕が、世界のどこへ行っても。
僕を見つけてくれる人だった。
その人を、失いたくない。
引き止めたい。
行かないで、と言いたい。
喉まで出かかった。
でも。
僕は、飲み込んだ。
もし。
僕のそばにいることが。
あの子を消すなら。
僕は。
あの子を、生かしたい。
縛って、そばに置くより。
ななちゃんは、ずっと。
自分の音をさがしていた。
僕のそばで。
僕を見ながら。
自分にしか出せない音を、さがしていた。
それを。
僕が、見失わせてしまった。
だったら。
僕のいないところで。
もう一度、さがしてほしい。
あの子の音を。
あの子自身を。
でも。
離れてほしくない。
いなくならないでほしい。
行かないでほしい。
その気持ちは。
何度、飲み込んでも。
胸の中から、あふれてきた。
「海斗くん?」
ななちゃんが、僕を呼んだ。
僕は、口を開いた。
きみが好きだ。
それでも、きみを生かしたい。
きみの音を、取り戻してほしい。
僕のせいで、きみが消えるなら。
僕は、きみを放さなくてはいけない。
全部。
言いたかった。
でも。
口下手な僕に言えたのは。
たった一言だけだった。
「……わかった」
声を出した瞬間。
胸の中で、何かが裂けた。
「僕が」
息が、続かない。
「きみを」
言いたくない。
認めたくない。
それでも、言わなければいけない。
「見えなく、してた」
電話の向こうから。
ななちゃんが息を飲む音が聞こえた。
「ごめん」
声が、絞り出された。
「僕の世界が」
一度、唇を噛んだ。
「きみの世界を、せまくしてた」
だから。
行っていい。
僕から離れていい。
きみの音を、さがしに行っていい。
そう続けたかった。
でも。
その先は。
声にならなかった。
◆◇
――菜々子
「……わかった」
海斗くんは、そう言った。
引き止めなかった。
待って、とも。
行かないで、とも、言わなかった。
「僕が、きみを見えなくしてた」
海斗くんは、言った。
「ごめん」
その声も、震えていた。
「僕の世界が、きみの世界を、せまくしてた」
ちがう。
海斗くんだけのせいじゃない。
私が、自分から。
海斗くんの影に入っていった。
そう言いたかった。
けれど。
言えば、また戻ってしまう気がした。
うん、とも。
ううん、とも。
言えなかった。
「じゃあ」
私は、やっと言った。
「……元気でね」
その言葉が。
私たちの終わりみたいに聞こえた。
耐えられなかった。
私は、電話を切った。
プツッ。
短い音がした。
それから。
静かになった。
部屋が。
世界が。
私は、スマートフォンを胸に抱いた。
声をころして、泣いた。
すきだった。
いまも、すきだ。
きらいになったわけじゃない。
むしろ。
すきなまま、離れる。
それが、いちばんつらかった。
きらいになれたら、よかった。
怒れたら、よかった。
海斗くんが悪いと、決められたらよかった。
でも。
海斗くんも、苦しんでいる。
わかっていた。
わかっているから。
どこにも、怒りを向けられなかった。
私は、神棚の前に立った。
いつものように、手を合わせようとした。
二礼。
頭を下げる。
それから、両手を胸の前に上げた。
パン。
一回目の拍手が、鳴った。
けれど。
二回目が、鳴らせなかった。
手が、途中で止まった。
右手と左手のあいだに。
わずかな、すき間がある。
手が、おりてこない。
私は、その場に立ちつくした。
なんで。
なんで私は、しょうにんだったんだろう。
六歳から、ずっと見てきた。
海斗くんを。
慈恩さんを。
町の人を。
見て。
書こうとして。
奏でようとして。
でも。
見ることが、私を半分にしたんだろうか。
見る人であろうとするほど。
私は、消えていったんだろうか。
だったら。
しょうにんなんて。
なければよかったんだろうか。
「ちがう」
声が、出た。
小さな声だった。
私は、手の甲で涙を拭った。
ちがう。
そう思いたかった。
これは、終わりじゃない。
海斗くんを、きらいになったから離れるんじゃない。
私が、私を取り戻すために、離れるんだ。
見る私を。
もう一度。
半分じゃない、私を。
いまは。
それが、ただ痛いだけ。
涙しか出ない。
フルートも吹けない。
日記も書けない。
たぶん。
しばらくは、何もできない。
それでも。
この痛みには、理由がある。
私が生きるために選んだ、痛みだ。
だれかに、されたんじゃない。
私が決めた。
植え込みをのぞいたときみたいに。
大人を呼びに走ったときみたいに。
海斗くんに、すきと言ったときみたいに。
怖かった。
今日も、怖かった。
それでも。
今日も、私から動いた。
その事実だけが。
いまの私を、ここにつなぎ止めていた。
私は、まだ、ここにいる。
半分でも。
泣いていても。
何も見えなくても。
私は、まだ。
私をあきらめていない。
窓の外は、真っ暗だった。
星も見えない夜だった。
あの向こうに、海斗くんがいる。
すきな人が、いる。
でも。
いまは、会えない。
会わない。
私は、神棚を見上げた。
一回目の拍手だけが鳴った、神棚。
止まったままの手を。
もう一度、合わせられる日は来るだろうか。
きっと。
私が、私に戻れたとき。
二回目の拍手が、鳴る。
いまは。
まだ、鳴らない。
私は、フルートのケースに触れた。
開けることは、できなかった。
そのまま。
ふとんにもぐった。
長い夜が、はじまる気がした。
フルートも。
書くことも。
時間さえも、止まる夜。
自分が見えない夜。
海斗くんを呼びたくなって。
何度も、スマートフォンに手を伸ばしかけた。
そのたびに。
布団の中で、手を握った。
戻ってはいけないからではない。
いま戻れば。
また、私を見失うから。
だから。
今夜だけは。
この痛みから、逃げない。
暗い夜の。
その、いちばん奥に。
ちいさな。
ちいさな、ひかりが。
一つだけ、ともっていた。
いつか。
私が、私の音を取り戻す日の。
遠い、予感。
それだけを、胸に抱いて。
私は、目を閉じた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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