第43話「海をへだてて」
恋人になった海斗と菜々子。しかし、二人の間には、恋だけでは越えられない「海」がありました。
また、別れの日が来た。
海斗くんが、ヨーロッパへ戻る。休みが、もうすぐ終わる。リーグが、また始まるらしい。
空港。あの空港だった。
十二年前、海斗くんが、はじめて旅立った場所。五年前も、ここで見送った。三度目の、見送り。
私は、十八歳になっていた。
あの日から、私は、ずっと見送る側だった。ふりかえらない背中を見送って、神棚で手を鳴らして、日記に書いて。
今日も、そうするはずだった。そう、するつもりだった。
でも。
胸の奥に、あの日からの、名前のないなにかが。別れが近づくほど、大きくふくらんでいく。
行ってしまう。また、海の向こうへ。
今度会えるのは、いつかわからない。次に会うとき、この気持ちは、まだ名前のないまま、消えてしまうかもしれない。
それは、いやだった。
搭乗のアナウンスが、流れた。海斗くんが、リュックを背負いなおす。あの、缶の入ったリュック。
「じゃあ」と、海斗くんが言いかけた。
ふりかえらずに、歩きだそうとする。いつものように。
そのとき。私の足が、動いた。手が、伸びた。
「海斗くん、待って」
声が、出ていた。
私は、いつも、自分から動いてきた。植え込みの奥をのぞいたのも。大人を呼びに走ったのも。見ててね、に、うん、と答えたのも。
今日も。私から。
「海斗くん。私」
声が、震えた。
「ずっと海斗くんを見てきた」
「しょうにんとして」
「だれよりも、近くで」
「でも」
言葉が、つかえた。
「いまは」
「見てるだけじゃ、いやなんです」
止めなかった。
「……すきです」
◆◇
——海斗
「待って」
僕は、言っていた。
ななちゃんの、言葉を。
最後まで、言わせる前に。
止めて、いた。
ななちゃんの、顔が。
一瞬、固まった。
目が、大きく、なって。
唇が、震えた。
断られた、と、思ったのかもしれない。
ちがう。
そうじゃ、ない。
僕は、慌てて、続けた。
「ちがうんだ。それは」
「それは、僕に」
「言わせて、ほしい」
僕は、息を吸った。
「ななちゃん」
「きみは、いつも、きみから、動いてくれた」
「植え込みの、ときも」
「大人を呼んでくれたのも」
「七年、見ててくれたのも」
「ずっときみから、だった」
「僕は、もらって、ばかりだった」
そして。
僕は、いつも、振り返らなかった。
前へ、行くために。
きみに、見送られて、ばかりで。
背中しか、見せて、こなかった。
でも。
今度は。
僕は、ゲートの方へ、向けていた、体を。
止めた。
そして。
振り返った。
自分の、意志で。
初めて。
ななちゃんの、顔をまっすぐ、見た。
「今度は」
「僕が、きみを見る」
「僕から、言う」
「この、気持ちは」
「はじめてで」
「うまく、言えない」
「こんなの、走るより、ずっとむずかしい」
「でも」
「すきだ」
「僕と、いてください」
◆◇
——菜々子
固まっていた心が、ゆっくり解けていった。
断られたんじゃ、なかった。海斗くんが、自分から言ってくれた。僕から言いたい、と。止めてまで。
私は、ずっと見る側だった。自分から動く側だった。あたえる側だった。
でも。
いま、私は、見られていた。まっすぐ。言われていた。海斗くんの、ほうから。
ずっと背中だった人が、いま、顔をこちらに向けて、私だけを見ている。
あの夜。名前をつけたら、もどれなくなる、と思った。名前の、なかった、なにか。
いま、それに、名前がついた。これは、すきだ、ということ。
もどれなくても、いい。私は、名前をつける。大人に、なったから。
私は、海斗くんの顔を見たまま、言った。
「うん」
それは、昔、見ててね、に答えた、あの、うん。同じ、ひびき。でも、意味は、違った。
あれは、しょうにんの、うん。これは、すきな人への、うん。
目が、にじんだ。でも、私は、まばたきをしなかった。
しょうにんは、見る。最後まで。背中じゃなくて、今日は、海斗くんの、顔を。
◆◇
——海斗
僕たちは、少しの間、ただ、立っていた。
アナウンスが、もう一度、流れた。
時間が、なかった。
僕は、ななちゃんの、手を取った。
小さくて。
温かい、手。
十二年前、お茶の缶を差し出してくれた、手。
僕は、その手を少し、握って。
それから、離した。
「行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
「今度は」
「何度でも」
「ふりかえるよ」
僕は、ゲートへ、歩きながら。
何度も、振り返った。
ななちゃんが、手を振っている。
僕も、手を上げた。
前を向いて。
でも。
何度も、振り返って。
僕は、世界へ、戻る。
名前の、ついた、気持ちを持って。
でも。
僕たちの、間には。
また、海が、ある。
それは。
少し、怖かった。
でも。
今は。
この、手の、温もりを。
覚えて、おこう。
◆◇
——菜々子
家に帰った。神棚の前に立った。
二礼、二拍手、一礼。パン、パン、と、手を鳴らした。
海斗くんが、世界で走れますように。
それから、私と海斗くんが、海をへだてても、だいじょうぶで、ありますように。
日記帳をひらいた。ななちゃんの、しょうにん。
あの夜は、ペンが止まった。名前がなくて、書けなかった。
でも、今日は、書けた。
海斗くんに、すきだと言われた。私も、すきだと答えた。名前が、ついた。言葉になった。
私は、それを書いた。うれしさで、手が、少し震えた。
でも。
窓をあけると、春の夜の風。遠くから、海の匂いがした。
この町には、海がある。海斗くんは、その海のずっと向こうへ、戻っていく。
名前は、ついた。でも、二人のあいだには、まだ、海がある。
私は、それを、まだ知らないふりはできなかった。
想いはつながっていても、距離と時間は、人を少しずつすれ違っていきます。
遠距離は難しい($・・)/~~~




