第38話「ち~ちゃん」
家では父親になる慈恩と、ちーちゃんの小さなやりとりの本文です。
家に帰ると、ぼくは、ただの父親になる。
十階の、相談屋でも。
人の、よどみを祓う男でも。
人の色を見る男でも、ない。
ちーちゃんの、父親だ。
玄関をあけると。
夕飯の匂いがした。
あの人が、台所に、立っている。
ちーちゃんの、母親だ。
「おかえりなさい」
「ただいま、ですよー」
ぼくは、そう答えた。
語尾が、少し、伸びる。
いつものことだ。
四十をすぎてから。
この伸びは、ますます、癖になった。
自分でも、半分は、気づいている。
なぜ伸ばすのか。
それは、まあ。
言わなくても、いい。
伸ばしているあいだは。
大事なところが、少し、ぼやける。
それで、ちょうどいい。
ち~ちゃんが、かけてきた。
小さな手で、ぼくの足に、しがみつく。
「お父さん、おかえり」
「あー、ちーちゃん、ただいま」
ぼくは、ちーちゃんを抱きあげた。
軽い。
まだ、こんなに、軽い。
それなのに。
話すことは、年より、ませている。
最近、とくに、そうだ。
ぼくは、ほんの少し、目をあけて、ちーちゃんを見た。
癖だ。
見たくなくても、見えてしまう。
ちーちゃんの色は。
明るくて。
すきとおっていて。
見ていて、飽きない色だった。
灰色の、まじらない色。
そして。
その色の、一番上が。
本来より、ひとつ、上に、ある。
だれかに、守られている。
小神様の、加護、というものだ。
なんでも、ひとつ、上の段に、手が、届く。
だから、育つのも、少し、早い。
五歳しては、ものをよく、見て、よく、わかる。
でも、それは。
口には、しない。
色のことは。
加護のことも。
だれにも、言わない。
あの人にも。
ちーちゃんにも。
夕飯の、あいだ。
あの人が、ぼくに、聞いた。
「あなた、最近、つかれてない?」
ぼくは、箸をとめた。
ほんとうは、少し、疲れていた。
今日も、ひとり、祓った。
人の心に、たまった、黒い、もの。
話を聞くだけじゃ、ない。
ぼくは、ときどき、それを引き受ける。
引き受けた日は、からだが、重い。
でも。
家には、持ちこまない。
ちーちゃんにも、あの人にも、見せない。
それに。
疲れの、半分は。
気にかけている、子らのことだ。
ふと、頭をよぎる夜がある。
海の向こうで、走っている子。
夜中に、それを見て、書いている子。
あの二人が、どこまで、行くのか。
父親みたいな気持ちで。
ときどき、胸が、つまる。
でも。
それを言うのは。
照れくさい。
「いやー、だいじょうぶ、ですよー」
ぼくは、伸ばして、答えた。
「なんでも、ないですよー」
あの人は、少し、笑って。
それ以上は、聞かなかった。
長い、付き合いだ。
ぼくが、伸ばしたときは。
そっとしておく。
それを知っている。
* * *
ところが。
ちーちゃんは、ちがった。
ぼくの、顔をじっと見て。
それから、言った。
「お父さん、いま、こえ、のびてた」
ぼくは、少し、おどろいた。
「そうか?」
「のびてたよ」
「まえから、おもってたんだ」
ちーちゃんは、スプーンを持ったまま。
まじめな、顔で、つづけた。
「お父さんはね」
「こえが、のびてるときは」
「ほんとのこと、かくしてるとき」
ぼくは、箸をおとしそうに、なった。
「のびてないときが」
「ほんとのお父さん」
ちーちゃんは、そう言って。
にっこり、わらった。
ぼくは、しばらく、声が、出なかった。
五歳に。
見抜かれた。
人の奥を色で読む男が。
自分の、娘に。
読まれている。
仕組みまで、言いあてられて。
おかしかった。
それから、少し、こわくも、あった。
ぼくは、いつも、見るほうだった。
見られるほうじゃ、なかった。
でも。
そういえば。
昔も、いた。
ぼくを見抜いた子が。
中野さんとこの、菜々子ちゃん。
まだ、小さいころ。
ぼくが、少しまいっていた日に。
あの子は、じっとぼくを見て。
だいじょうぶ、と、聞いてきた。
あのときも。
ぼくは、伸ばして、ごまかした。
あの子は、なにかを感じていた。
言葉には、できなくても。
見る子は。
見る。
子どもでも。
いや。
子どもだから。
まっすぐ、見る。
「あー。めんどくせぇ」
ぼくは、頭をかいた。
「お父さん、また、めんどくさいって、いった」
ちーちゃんが、けらけら、わらった。
ぼくの、口ぐせをまねしながら。
でも。
いやな気分じゃ、なかった。
* * *
ちーちゃんが、ぼくの、顔をのぞきこんだ。
「ねえ、お父さん」
「のびてない、こえで、なんか、言って」
ぼくは、困った。
こういうのが、一番、苦手だ。
自分から、本当のことを言うのは。
ぼくは、いつも、人に、言わせる側だった。
気づかせて。
動かすのは、いつも、相手。
自分は、動かない。
でも。
ちーちゃんが、まっすぐ、待っている。
あの、すきとおった色で。
ぼくは、あきらめた。
箸をおいた。
それから。
ちーちゃんをひきよせた。
小さな、からだを。
両方の、腕で。
ちーちゃんの、髪が、ぼくの、あごに、あたる。
あたたかい。
少し、汗の、匂いが、する。
子どもの、匂いだ。
その、つむじに、向かって。
言った。
「ちーちゃんが、すきだよ」
伸ばさなかった。
一文字も。
うでの、なかで、まっすぐ、言った。
ちーちゃんが、ぼくの、むねで、顔をあげた。
「……いまの」
「のびなかった」
それから、ぱっとわらって。
「ほんとだ」
「ほんとの、お父さんだ」
あの人が、台所で、ふきだした。
ぼくは、なんだか、照れくさくて。
ベランダに、出た。
煙草に、火をつける。
白い煙が、夜に、のぼっていく。
あいかわらず。
匂いは、しない。
それは、まあ。
ぼくの、事情だ。
言わなくて、いい。
夜空を見る。
あの子らも。
こんなふうに、なんだろう。
だれかに、見られて。
気づかされて。
自分で、のぼっていく。
ぼくは、種をまくだけ。
あとは、見ているだけ。
それなのに。
家にいても、ぼくは。
五歳に、見抜かれる。
あの子は、これから、もっと見えるように、なるだろう。
加護のぶん、早く。
あー。
めんどくせぇ。
ぼくは、煙をはいた。
でも。
口もとは。
少しだけ。
わらっていた。
慈恩の隠していた本音に、ちーちゃんがそっと気づく一話です。




