第37話「音大附属高校」
この話は、「才能の壁」に初めて向き合う菜々子の物語
音大附属の高校に、入った。
あの夜、いきます、と、決めた。
家の人にも、坂田先生にも、言った。
そして、受けて、合格した。
春。
新しい、制服。
新しい、校舎。
でも、ふつうの高校とは、ちがった。
廊下に、練習室が、並んでいる。
ドアの、向こうから。
いろんな、楽器の音が、聞こえてくる。
ピアノ。
バイオリン。
トランペット。
そして、フルート。
歩いているだけで。
音に、包まれているみたいだった。
わたしは、思った。
ここは、音の、町だ。
最初の、合奏の、時間。
わたしは、知った。
ここでは、みんな、上手い。
ほんとうに、上手い。
わたしは、地区一位だった。
全国にも、行った。
それなりに、やってきた、つもりだった。
でも。
ここでは。
わたしは、ふつうだった。
むしろ。
下のほう、かもしれない。
となりの子の音を聞いた。
まっすぐで。
太くて。
ゆれない、音。
わたしには、出せない音だった。
息の、量が、ちがう。
指の、速さが、ちがう。
音の、広さが、ちがう。
一年前。
地区のコンクールで、わたしが、一位だったとき。
二位や、三位の子の音を、舞台のそでで、聞いた。
あのときと、似ていた。
でも、ちがう。
あのとき、わたしは、上に、いた。
いまは、わたしが、下に、いる。
聞いている、ほうだ。
才能の、壁。
という、言葉を思った。
かいとくんが、ぶつかった、壁。
ドイツで。
届かない、背中を見て。
こわい、と、書いた、あの壁。
世界の舞台でも、きっともっと高い壁が、あった。
いま。
わたしも。
同じ、壁の、前に、立っている。
海をはさんで。
別の、形で。
でも、同じ、壁。
でも。
わたしは、落ちこみきらなかった。
なぜか、というと。
上手い子の音を聞いていると。
つい、考えてしまう。
どこが、ちがうんだろう。
どうやったら、あの音が、出るんだろう。
あの子は、どこで、息を吸ったんだろう。
負けていても。
下にいても。
わたしは、聞いて、しまう。
見て、しまう。
しょうにんの、くせは。
ここでも、抜けなかった。
* * *
深夜だった。
わたしは、自分の部屋で、フルートを組み立てた。
消音器をつけて。
近所に、ひびかないように。
みんなが、ねている時間。
わたしは、ひとりで、吹いた。
技術では。
あの子たちに、届かない。
たぶん。
どんなに、練習しても。
一番には、なれない。
それは。
なんとなく、わかってしまった。
一日で。
でも。
ふしぎと。
やめよう、とは、思わなかった。
フルートを口からはなして。
わたしは、かいとくんを思った。
かいとくんも、壁に、ぶつかった。
届かない背中を見た。
でも。
かいとくんは。
走るだけじゃ、なくて。
見る力を見つけた。
首をふって。
来る前に、見る。
自分の、武器を。
速さで、勝てないなら。
見ることで、勝つ。
かいとくんは、そうやって、壁をこえた。
じゃあ。
わたしは。
わたしの、武器は、なんだろう。
わたしにしか、出せない音は。
あるのかな。
そのとき。
ふと、思った。
わたしは、ずっと人を見てきた。
かいとくんを。
ジオンさんを。
お店に、来る人を。
家族を。
見て。
感じて。
日記に、書いてきた。
植え込みの、かいとくん。
空港の、背中。
こわい、と書いた手紙。
世界の、ゴール。
ジオンさんの、少しちがった日。
全部。
わたしの、中に、ある。
その、見てきたものが。
感じてきたものが。
音に、なるんじゃ、ないか。
技術じゃ、出せない音。
わたしが、見てきた、七年が。
にじむ、音。
わたしは、もう一度、フルートを口にあてた。
息を吸って。
探すように、吹いた。
さっきと、同じ曲。
でも。
さっきとは、ちがう、気持ちで。
これまで、見てきたものを。
思いながら。
植え込みの、奥の、暗さ。
空港の、油の匂い。
海の、向こうの、緑の、芝生。
全部、思いながら。
吹いた。
まだ。
下手だった。
あの子たちの音には。
全然、届かない。
自分の音、なんて。
まだ、鳴らない。
どこにも。
でも。
探す、方向だけは。
見えた、気がした。
一番に、なるための、音じゃ、ない。
わたしの、音。
わたしにしか、鳴らせない、音。
それを探す。
* * *
フルートは。
一番に、なるためじゃ、ない。
わたしの、音を探すため。
昔、わたしは、そう、思った。
五年生に、なったとき。
音楽クラブを、断ったとき。
フルートは、ひとりで、吹くもの。
わたしの音を探すもの、って。
あのときより、いま、もっと深く、わかる。
そして。
書くことも、続ける。
かいとくんを。
見て。
書く。
日記に。
それが、わたしの、一番、大切なこと。
フルートも。
書くことも。
じつは、同じ、根っこから、出ている。
見て。
感じる。
それが、音にも、文字にも、なる。
どっちも、しょうにんの、わたしから、生まれる。
夜が、深くなった。
わたしは、フルートをしまった。
それから、神棚の、前に、立った。
二礼、二拍手、一礼。
パン、パン、と、手をならした。
かいとくんが、世界で、走れますように。
それから。
わたしが、わたしの音を見つけられますように。
つくえに、向かった。
日記帳をひらいた。
ななちゃんの、しょうにん。
その下に、書いた。
みんな、上手だった。
でも、わたしの音を探す。
それから、もう一行。
かいとくん、今日も、走ってた。
小さな画面で、見た、かいとくんの、ことも、書いた。
海の、向こうで、走る、かいとくん。
わたしは、ここで、音を探す、わたし。
別々の、場所で。
でも。
同じ。
自分の、何かを探している。
えんぴつを置いた。
窓の、外は、暗かった。
自分の音は。
まだ、鳴らない。
でも。
かいとくんが、見る力を見つけたみたいに。
わたしも、きっといつか。
明日も。
練習室の、ドアの、向こうで。
たくさんの音が、鳴る。
その中で。
わたしは、わたしの音を探す。
海斗が世界で、自分だけの武器を見つけたように。
今度は、菜々子の番です。
音楽の世界は、想像していたよりも、ずっと広く、ずっと高い場所でした。




