第33話「7年、過ぎた」
七年ぶりの夏。海斗は、始まりの町へ帰ってくる。
七年ぶりだった。
日本に帰ってきた。
神宝町の駅。
電車を降りた瞬間、むっとした空気が体にまとわりついた。
暑い。
ドイツとは、まるで違う暑さだった。
じめっとしている。
服の下まで入りこんで、肌から離れない。
蝉が鳴いていた。
わんわん、と。
耳の奥まで響いてくる。
それから、匂いがした。
海の匂い。
潮の匂い。
そうだ。
僕の町には、海がある。
ドイツにはなかった。
灰色の空の下に、海はなかった。
でも、ここにはある。
僕は、それを忘れていた。
ずっと。
駅の水飲み場で、水を飲んだ。
柔らかい水だった。
舌に、何も残らない。
ドイツの硬い水とは違う。
ああ、そうだ。
これが、日本の水だ。
七年かかって、やっと思い出した。
僕は、もうすぐまたドイツへ戻る。
秋には、大きな大会がある。
ヨーロッパ中の強いチームが集まる大会だ。
僕は、その入口に立っていた。
世界の入口。
でも、その前に。
どうしても帰りたかった。
この町に。
始まりの場所に。
駅の前に、女の子が立っていた。
中学生くらいに見えた。
僕は、一瞬、誰だか分からなかった。
でも、その子が僕を見た。
まっすぐに。
まばたきもしないで。
その目を、僕は知っていた。
植え込みの奥で、僕を見つけた目。
「……ななちゃん?」
女の子が、こくりとうなずいた。
ななちゃんだった。
七年前。
六歳だった子。
それが、こんなに大きくなっていた。
「ななちゃん、大きくなったね」
僕は言った。
本当に驚いていた。
時間は、ちゃんと流れていたんだ。
僕がドイツにいる間に。
この子の中でも。
ななちゃんから、僕はたくさんもらった。
あの植え込みで、お茶の缶をもらった。
空港で、見ててね、と頼んだ。
そしたら、この子は七年。
ずっと見ていてくれた。
僕の怖いも。
僕のゴールも。
全部。
慈恩さんが言っていた。
夜中に、こっそり見てましたよ、と。
僕は口下手だ。
もらったありがとうが多すぎて、全部は言えない。
でも、これだけは言いたかった。
七年前は、しゃがんで目の高さを合わせた。
でも、ななちゃんはもう大きい。
しゃがまなくても、目が合う。
僕は少しだけかがんで、言った。
「ななちゃん」
「うん」
「見ててくれて、ありがとう」
ななちゃんの目が、少し揺れた。
でも、泣かなかった。
僕も、泣かなかった。
ただ、七年が、僕たちの間にあった。
その七年が、ちゃんとつながっていた。
僕は、またドイツへ戻る。
世界へ行く。
もっと遠くへ。
怖いこともあるだろう。
届かない背中も、また見るだろう。
それでも、僕は走れる。
見ていてくれる人がいるから。
僕は、そのために走る。
◆◇
――菜々子
かいとくんが帰ってきた。
七年ぶりに。
わたしは、駅まで行った。
ひとりで。
だれにも言わずに。
だって、これは。
わたしと、かいとくんのことだから。
電車から降りてきた人は、大きかった。
背が高い。
肩が広い。
歩き方も、七年前とは違っていた。
足を置く場所が静かで、ぶれない。
まるで、自分の体の重さを、ちゃんと知っている人みたいだった。
七年前のかいとくんとは違った。
でも、すぐ分かった。
あの、かいとくんだ。
植え込みの奥で、腐りかけていたかいとくん。
お茶の缶を渡したかいとくん。
空港で、振り返らずに歩いていったかいとくん。
手紙に、怖い、と書いたかいとくん。
ドイツで、ゴールを決めたかいとくん。
全部、わたしが見てきた。
そのかいとくんが、今、わたしの前にいる。
「かいとくんも、大きくなった」
わたしは言った。
かいとくんが笑った。
そうだね、って。
七年だもんね、って。
それから、かいとくんは少しだけかがんだ。
わたしに、目の高さを近づけるみたいに。
「見ててくれて、ありがとう」
そう言った。
わたしは、胸の奥がいっぱいになった。
でも、泣かなかった。
しょうにんは、泣かない。
ただ、見る。
だから、わたしは、かいとくんの顔をまっすぐ見た。
七年、見てきた顔を。
もう一度、ちゃんと見た。
そのとき。
わたしの中で、何かが、すとんと落ちた。
分かった。
はっきり、分かった。
わたしは、この人を書く。
願望じゃない。
書きたい、でもない。
書く。
この人を。
この七年を。
植え込みから、世界まで。
全部、わたしが見てきた。
だから、わたしが書く。
ほかのだれでもない。
わたしだ。
それは、好きとか、そういうのとは少し違う気がした。
もっと大きなもの。
わたしが生きていくことの、真ん中にあるもの。
それが、今、決まった。
かいとくんは、もうすぐまたドイツへ戻る。
世界へ。
もっと遠くへ。
でも、今度は知っている。
あの背中が、どこへ行くのか。
どこまで行くのか。
わたしは、ここで見ている。
そして、書く。
夜になった。
わたしは、神棚の前に立った。
二礼。
二拍手。
一礼。
パン、パン、と手を鳴らした。
かいとくんが、世界で走れますように。
それから、机に向かった。
日記帳を開く。
ななちゃんの、しょうにん。
ずっと前に、ひらがなで書いた文字。
その下に、わたしは書いた。
かいとくんに、会った。
わたしは、この人を書く。
二行。
短い。
でも、今まででいちばん確かな二行だった。
七年が過ぎた。
見ててね、と言われた、あの夏から。
七年。
約束は、守った。
でも、終わりじゃない。
これからも、わたしは見ている。
かいとくんを。
そして、見たことを、書いていく。
ずっと。
窓の外で、蝉が鳴いていた。
夏は、まだ終わっていなかった。
見ていた七年は終わらない。菜々子は、海斗を書くと決めた。




