第31話「残った者」
勝利はゴールではなく勝利はゴールではなく、誰かの日常を少しだけ変える始まりでもあります。、誰かの日常を少しだけ変える始まりでもあります。
日本は、朝だった。カーテンのすき間から、やわらかい光が入る。テレビでは、ドイツの試合がまだ映っていた。
画面の中で、海斗が笑っている。味方に囲まれて、頭をたたかれて、肩を抱かれて、もみくちゃになって、笑っていた。
あの子は、ずっと一人だと思っていた。知らない国で、知らない言葉の中で、誰も頼れず、一人で戦っているんだと。
でも、違った。あの子の周りには、仲間がいた。笑い合う人がいた。背中をたたく人がいた。それを見ただけで、胸の奥が少し軽くなった。
わたしは画面に向かって、小さく言った。
「……ありがとう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。海斗に。チームのみんなに。それとも、あの子をここまで育ててくれた、ドイツという国に。
——海斗
部屋は狭かった。駅から遠い、古いアパート。家賃が一番安かったから、ここを選んだ。
冷蔵庫を開ける。卵、パン、牛乳。それだけだった。卵を割ってフライパンに落とすと、ジュッ、と音がする。塩を少し。それだけで、十分だった。
残ったお金は、日本へ送る。それが当たり前になっていた。
窓の外は、今日も灰色だった。海はない。山もない。ただ、曇った空がどこまでも続いていた。
テーブルの上には、書類が積んである。税金、保険、契約書、請求書。ボールより、ずっと難しい。ドイツ語は読める。でも、制度はまだ難しかった。
コンコン、とドアをたたく音。開けると、ハンナさんが立っていた。隣の部屋に住む、食堂のおばさん。大きなお鍋を抱えて、笑っている。
「カイ、また卵だけ?」
ぼくは少し照れながら笑う。
「今日は豪華ですよ。パンもあります」
ハンナさんは大笑いした。
「そんなの、豪華じゃないよ」
そう言って、湯気の立つスープを差し出した。野菜がたくさん入っている。ソーセージも。
「ちゃんと食べな。倒れたら、終わりなんだから」
ぼくは深く頭を下げた。
「ありがとう」
ハンナさんは手をひらひら振って帰っていく。ドアが閉まると、部屋の中にスープの匂いが広がった。灰色のドイツで、その匂いだけが、少しだけ、家みたいだった。
昇格が決まって、数日後。クラブへ呼ばれた。強化部長が、一枚の封筒を差し出す。
「カイ、新しい契約だ」
ぼくは静かに受け取って、中を見た。一部リーグ契約。複数年契約。一年だけじゃない。来年も、その先も。このクラブは、ぼくと戦うと言ってくれた。
ページをめくって数字を見た瞬間、思わず息が止まった。見たことがない金額だった。初めて契約したときより、何倍も多い。
部長が笑う。
「当然だ。君は昇格の立役者だからね」
ぼくはペンを握った。今度は、落とさなかった。ゆっくり、名前を書く。海斗。書き終えた瞬間、ようやく少しだけ実感が湧いた。
ぼくはこのチームで、一部を戦う。出て行くんじゃない。残って、上がった。それが、何より誇らしかった。
クラブを出て、その足で銀行へ向かった。スマホを開く。母さんの口座。数字を入力する。昇格ボーナス、契約金、ずっと貯めてきたお金。全部合わせると、残っていた借金の金額を上回った。
指が、少しだけ止まる。本当に、終わるのか。父さんが残した借金。母さんが何年も背負ってきたもの。それが、今日、終わる。
ぼくは送金ボタンを押した。画面に、小さく表示される。
送金が完了しました。
たった、それだけ。音楽もない。拍手もない。花火も上がらない。でも、ぼくはその画面を、ずっと見ていた。長い間。
少しして、スマホが鳴った。母さんだった。
「海斗」
その声だけで分かった。画面を見たんだ。
「あ、母さん」
できるだけ普通に答える。
「これ……」
母さんの声が、途中で止まる。
「うん」
「海斗。これ、全部……?」
「うん」
少し沈黙が流れた。
「無理、してない?」
ぼくは笑った。
「してない」
嘘だった。卵ばかり食べた。暖房も我慢した。服も買わなかった。送れるだけ、送った。でも、それは言わない。
電話の向こうが、静かになった。それから、小さく鼻をすする音がした。一回だけ。母さんは隠そうとした。でも、隠せなかった。その一回で、全部伝わった。
父さんがいなくなって、借金を抱えて、毎日働いて、陽菜と翼を育てて。眠れない夜も、泣きたい朝も、全部背負ってきた。あの背中に、ぼくは届かないと思っていた。でも、少しだけ、半歩だけ、隣に並べたのかもしれない。
「母さん」
ぼくは静かに言った。
「もう少しは、自分のために使って」
電話の向こうで、母さんが笑った。涙声のまま。
「……うん」
短い返事。でも、その一言に、全部が入っていた。
電話を切ると、部屋はまた静かになる。窓の外には、灰色の空。でも、今日は少しだけ明るく見えた。
菜々子がぼくを見ていてくれたように、ぼくもずっと見ていた。母さんの背中を。しょうにんは、菜々子だけじゃない。ぼくも、誰かのしょうにんに、なれていたんだ。
勝って終わりではありません。守りたかった人の笑顔を見られたとき、本当の意味で報われることもあります。




