第30話「半歩の、ゴール」
最後まで走った先にしか、見えない景色があります。
第二戦。
ホーム。
小さいスタジアムだった。
でも、満員だった。
青と白。
僕らの色。
スタンドが、歌っている。
足元から、声が響いてくる。
合計、ゼロ対一。
二点、いる。
引き分けじゃ、だめだ。
勝たなきゃ、上がれない。
一部には、行けない。
僕は、スパイクの裏で芝を踏んだ。
少し、湿っている。
足の裏に、柔らかさが返ってきた。
大丈夫。
走れる。
笛が鳴った。
試合が、始まる。
僕は、走った。
いつもより、多く。
速さじゃない。
量で。
相手のセンターバックは、第一戦と同じだった。
賢い。
僕の半歩を、読んでくる。
だから、最初から勝とうとは思わなかった。
待つ。
相手が疲れるまで。
ノートに書いた通りに。
前半。
僕は、何度も動き直した。
右へ行くふりをして、左へ。
ニアへ走って、急に止まる。
相手の背中から消えて、また前へ出る。
でも、ボールは来ない。
来ても、触れない。
あと一歩。
その一歩が、遠い。
前半が終わった。
ゼロ対ゼロ。
合計、ゼロ対一。
まだ、足りない。
ロッカーで、監督は短く言った。
「続けろ」
それだけだった。
僕は、水を飲んだ。
喉が痛い。
でも、まだ足は動く。
後半。
相手の足が、少し重くなった。
ノートに書いた時間だ。
七十分を過ぎると、戻りが遅くなる。
右へ向いたあと、左へ戻るのが遅い。
そこだ。
味方が、中央でボールを奪った。
僕は、先に動いた。
相手の視線は、まだボールにある。
その間に、背中へ入る。
右足で小さく踏む。
左足で、体を前へ押す。
ボールが来た。
強く止めない。
右足の内側で、少しだけ前へ転がす。
相手が寄せる。
僕は、蹴らない。
味方を見る。
走っている。
ゴールへ向かって。
左足で、短く出した。
速いパスじゃない。
でも、相手の足の届かない場所。
味方が打つ。
ネットが揺れた。
一対一。
合計、一対一。
スタジアムが、地面から吠えた。
あと一点。
あと、一点で。
僕らは、上がれる。
時間は、少なかった。
相手も、必死だった。
体をぶつけてくる。
腕で押される。
倒れそうになる。
でも、倒れない。
倒れている時間が、もったいない。
ロスタイム。
最後の攻撃。
左サイドから、クロスが上がった。
高い。
ゴール前。
キーパーが前へ出る。
僕は、ボールを見た。
でも、すぐにキーパーを見た。
両手を伸ばしている。
取れない。
弾く。
そう思った瞬間、僕はもう走っていた。
落ちる場所へ。
速くない。
でも、早く動いた。
右足を一歩。
左足を半歩。
相手の前へ、体を入れる。
ボールが、キーパーの手に当たった。
こぼれる。
芝の上を、少しだけ跳ねる。
そこに。
僕が、いた。
右足を振る。
強く蹴ろうとしない。
押し込む。
足の甲ではなく、内側。
まっすぐ、ネットへ。
音が、消えた。
一瞬。
何も聞こえなかった。
白いネットだけが、ゆっくり膨らんだ。
入った。
二対一。
合計、二対一。
逆転。
そのあと、音が戻ってきた。
どっと。
津波みたいに。
味方が、僕に飛びついた。
一人。
二人。
三人。
倒された。
下敷きになった。
重い。
息ができない。
でも、笑っていた。
泣いていたのかもしれない。
自分でも、分からなかった。
ホイッスルが鳴った。
試合終了。
昇格。
ボーフムが、一部へ。
僕は、芝の上に寝転んだまま、空を見た。
ドイツの空。
灰色。
でも、今日は。
その灰色が、少しだけ、明るく見えた。
僕が、このチームを上げた。
速さじゃなく。
半歩で。
売られずに。
残って。
上げた。
僕は、スタンドを見た。
その、ずっと向こう。
海の向こう。
見えない。
でも、いる。
菜々子。
慈恩さん。
母さん。
見ててくれた?
今の。
——菜々子
夜中だった。
NAKANOの、すみっこ。
小さな画面。
ひざの上には、フルート。
かいとくんが、走っていた。
何度も。
何度も。
ボールがないところも。
人の間も。
画面のすみっこも。
わたしは、見ていた。
一点目。
かいとくんが、先に動いた。
パスを出した。
味方が決めた。
みんなは、その人を見ていた。
でも、わたしは、見ていた。
その前の、かいとくんを。
そして。
最後。
ロスタイム。
クロスが上がった。
キーパーが弾いた。
こぼれた。
そこに、かいとくんがいた。
けった。
入った。
「……っ」
声が出そうになった。
あわてて、口を手でおさえる。
夜中だから。
ないしょだから。
でも、涙は止まらなかった。
ぽろぽろ。
ぽろぽろ。
落ちてきた。
第一戦で負けたこと。
うつむいていたこと。
夜中に、ノートを開いていたこと。
わたしは、知らない。
全部は、見えない。
ロッカーも、部屋も、見えない。
でも。
今日、走ったぶんは。
全部、見ていた。
苦しそうな顔も。
止まりそうな足も。
それでも、前へ出た半歩も。
全部。
わたしが、見ていた。
画面の中で、かいとくんが倒されていた。
味方に、もみくちゃにされている。
苦しそうで。
でも、笑っていた。
わたしは、フルートをぎゅっと抱いた。
「見えたよ」
小さく言った。
「ちゃんと、見えたよ」
画面には、届かない。
ドイツにも、届かない。
でも、言いたかった。
わたしは、しょうにんだ。
かいとくんの、
半歩のゴールを。
ちゃんと、見ていた。
——慈恩
ぼくは、十階で。
同じ試合を見ていた。
二七番が、走る。
地味に。
しつこく。
消えずに。
一部へ行った子は、いない。
売られていった子も、ここにはいない。
残った子が。
つかんだ。
ロスタイム。
ボールがこぼれる。
海斗くんが、そこにいた。
半歩、先に。
ネットが揺れた。
ぼくは、煙草をくわえたまま、目を閉じた。
「……一人前に、なりましたねー」
語尾が、伸びた。
胸が、熱かった。
でも、それは言わない。
言ったら、たぶん、負けだ。
誰にかは、知らないけど。
ぼくは、ソファに深く沈んだ。
煙草の煙が、ゆっくり昇る。
白くて。
細くて。
匂いは、しない。
「あー」
ぼくは、つぶやいた。
「めんどくせぇ」
画面の中で。
灰色だった子が。
青と白の中で、
笑っていた。
半歩は小さい。でも、その半歩が、届かなかった場所へ連れていってくれることがあります。




