第28話「残る色」
競い合った相手との別れは、勝った日より心に残ることがあります。
シーズンも、
終わりが近づいていた。
ボーフムは、
三位。
昇格プレーオフ圏。
あと二試合。
勝てば、
一部。
負ければ、
また二部。
クラブ全体が、
張りつめていた。
ロッカーも。
食堂も。
練習場も。
笑う人が、
少なくなった。
みんな。
一部へ行きたかった。
ぼくも、
同じだった。
* * *
その日の練習。
ミニゲームが終わる。
笛が鳴る。
みんなが、
水を飲みに歩き出した。
ぼくは、
スパイクの裏についた芝を、
ベンチの角で落としていた。
コン。
コン。
乾いた音が、
グラウンドに響く。
「カイ」
顔を上げる。
マルティンだった。
いつもの笑顔。
でも。
今日は、
少しだけ違った。
笑っているのに。
目だけが、
笑っていなかった。
「話がある」
ぼくは、
うなずいた。
二人で、
グラウンドの端まで歩く。
誰もいない。
ゴールだけが、
ぽつんと立っていた。
* * *
「オファーが来た」
マルティンが、
静かに言った。
「一部」
その一言で、
全部分かった。
来た。
やっぱり。
あの速さだ。
来ないはずがない。
「強豪だよ」
マルティンは、
少し照れたように笑った。
「観客も多い。
お金も、
すごくいい」
ぼくは、
何も言わなかった。
言えなかった。
うれしい。
でも。
少しだけ、
さみしかった。
* * *
「カイ」
マルティンが、
ぼくを見た。
「きみにも、
話はないの?」
ぼくは、
少しだけ笑う。
「小さい話なら、
あったよ」
本当に、
少しだけ。
興味がある、
くらいの話。
でも。
ぼくは、
首を横に振った。
「ぼくは、
ここで上がる」
マルティンが、
目を丸くした。
「プレーオフだよ」
「負けたら、
また二部だ」
「分かってる」
ぼくは、
うなずいた。
「それでも」
「このチームで、
上がりたい」
少しだけ、
風が吹いた。
芝が揺れる。
マルティンは、
ぼくを見たまま、
しばらく黙っていた。
やがて。
ふっと笑った。
少しだけ、
さみしそうに。
「きみは、
へんだ」
ぼくも、
笑った。
「よく言われる」
二人で、
少しだけ笑う。
それから。
マルティンが、
右手を差し出した。
「カイ」
「きみと競えて、
よかった」
「きみのおかげで、
ぼくも、
速くなった」
ぼくは、
その手を見た。
三年前。
追っても。
追っても。
届かなかった背中。
その背中が、
今。
同じ高さで、
手を差し出している。
ぼくは、
その手を握った。
固い手だった。
練習で、
何度も転んできた手。
何度も、
ボールを追ってきた手。
その温かさが、
少しだけ、
胸に残った。
* * *
数日後。
マルティンは、
旅立った。
ロッカーの、
十九番。
ユニフォームは、
もう無い。
スパイクも。
タオルも。
ロッカーだけが、
ぽつんと空いていた。
ぼくは、
その前で、
少しだけ立ち止まる。
やっと。
ぼくのポジションが、
空いた。
でも。
うれしくなかった。
本当は。
ピッチで勝って、
取りたかった。
マルティンから。
レギュラーを。
実力で。
それは、
もうできない。
少しだけ、
悔しかった。
* * *
監督が、
ぼくを呼んだ。
「カイ」
背番号二十七の、
ユニフォームを渡される。
「次も、
スタメンだ」
ぼくは、
受け取った。
ユニフォームは、
少しだけ重かった。
期待。
責任。
全部、
入っている気がした。
ロッカーへ戻る。
十九番は、
まだ空いている。
ぼくは、
その前で、
小さく頭を下げた。
ありがとう。
心の中だけで、
そう言った。
* * *
速い背中は、
もういない。
追いかける相手も、
いなくなった。
だったら。
今度は、
ぼくが前へ出る。
ぼくが、
このチームを、
引っぱる。
昇格で、
証明する。
この席が、
まぐれじゃないことを。
この三年間が、
間違いじゃなかったことを。
ぼくは、
スパイクの紐を、
ぎゅっと結び直した。
右。
左。
もう一度、
強く引く。
ほどけないように。
ぼくの覚悟も、
ほどけないように。
外では、
夕日が、
芝を赤く染めていた。
プレーオフまで、
あと少し。
本当の勝負は、
これからだった。
追いかけていた背中がいなくなったとき、人は初めて、自分の背中で誰かを導く立場になります。




