第27話「半歩」
才能は目を奪います。でも、勝負を決めるのは最後の一歩かもしれません。
大きな試合だった。
昇格争い。
スタジアムは、
試合前から揺れていた。
勝てば、
プレーオフが近づく。
負ければ、
一気に苦しくなる。
そんな試合。
スタメンは、
マルティン。
ぼくは、
ベンチだった。
悔しい。
でも、
もう下ばかり向かなかった。
ぼくには、
ぼくの仕事がある。
ベンチからでも、
試合は見える。
マルティンが、
どこへ走るか。
相手が、
どう止めるか。
全部、
頭へ入れた。
* * *
試合が始まる。
前半。
マルティンは、
止まらなかった。
右サイドで、
ボールを受ける。
右足の裏で、
軽く止める。
次の瞬間。
左足で芝を強く蹴る。
一歩目。
速い。
相手が、
体を寄せる。
その前に、
肩を入れ替える。
体を半分だけ、
相手の前へ滑り込ませる。
抜いた。
歓声が上がる。
もう一人。
かわす。
クロス。
惜しい。
スタンドが、
どよめく。
「ナイス!」
味方が叫ぶ。
マルティンは、
親指を立てた。
やっぱり、
速い。
ぼくには、
あの一歩目はない。
* * *
でも。
後半になると、
少しずつ、
変わってきた。
相手が、
慣れた。
一歩目に、
飛びつかない。
半歩、
下がって待つ。
縦を切る。
中へ追い込む。
マルティンは、
何度も仕掛ける。
でも。
二人目に、
止められる。
速さだけでは、
抜けなくなっていた。
そして。
後半三十五分。
決定機。
右から、
低いクロス。
ディフェンダーに当たって、
ボールが、
ゴール前へ転がる。
マルティンの前だ。
あと一歩。
右足を振れば、
決まる。
でも。
その足が、
止まった。
ほんの、
一瞬。
ゴールが近すぎた。
観客の声。
相手キーパー。
全部が、
一度に見えたんだ。
右足が、
遅れた。
慌てて振り抜く。
でも。
足の甲に当たりすぎた。
ボールは、
バーの上へ飛んだ。
「ああっ!」
スタジアム中が、
頭を抱える。
マルティンも、
両手で顔を覆った。
ぼくには、
分かった。
怖くなったんだ。
大事な一歩が。
出なかった。
ぼくだって、
何度も、
そうだったから。
* * *
後半四十分。
交代。
電光掲示板に、
二七。
ぼくの番号が、
光った。
「カイ!」
監督が、
親指を前へ向ける。
ぼくは、
うなずいた。
ピッチへ入る。
芝を、
右足で踏む。
少しだけ、
柔らかい。
呼吸を整える。
速さでは、
勝てない。
それは、
もう知っている。
だったら。
勝負する場所を、
変える。
* * *
ロスタイム。
味方が、
左サイドを突破した。
クロスが上がる。
ぼくは、
ボールを見なかった。
キーパーを見る。
ディフェンダーを見る。
二人とも、
ニアへ走っている。
だったら。
落ちる場所は、
その後ろ。
ぼくは、
先に動いた。
速く走るんじゃない。
速く、
動き始める。
右足を、
半歩だけ前へ。
次に、
左足。
相手より、
ほんの少しだけ、
早く。
そこへ、
体を入れる。
ボールが、
落ちてきた。
右足の内側を、
少しだけ開く。
強く蹴らない。
押し込む。
当てるだけ。
コンッ。
乾いた音。
ボールは、
ゴールネットへ、
吸い込まれた。
一瞬、
世界が静かになった。
それから。
歓声が、
押し寄せる。
背中が、
揺れる。
「カイ!」
「カイ!」
今度は、
名前だった。
ぼくは、
息を吐いた。
拳は、
握らない。
叫びもしない。
ただ。
ベンチを見た。
マルティンが、
立っていた。
拍手をしていた。
笑っていた。
でも。
目だけは、
少し赤かった。
悔しいんだ。
それでも。
ぼくに、
拍手を送ってくれている。
最後まで、
いい奴だった。
◆◇
——慈恩
ぼくは、
十階で、
同じ試合を見ていた。
画面の中に、
二人。
海斗くん。
十九番。
十九番には、
会ったことがない。
でも。
ああいう子は、
何人も見てきた。
明るい色。
速い色。
目を引く色。
若いころは、
そういう色が、
強く見える。
でも。
勢いのある色ほど、
大事な場面で、
揺れる。
案の定。
十九番の足が、
止まった。
怖かったんでしょうねぇ。
ぼくは、
煙草をくわえた。
いっぽう。
海斗くん。
画面では、
地味だった。
速くもない。
派手でもない。
でも。
あの子の灰色は、
もう消えない。
最後まで、
静かに燃え続ける色だ。
ロスタイム。
海斗くんが、
決めた。
速さじゃない。
半歩だった。
「派手な色は、
よく見えますけどねぇ」
煙草の煙が、
細く昇る。
「消えない色のほうが、
たいてい強いんですよー」
語尾が、
少しだけ伸びた。
十九番は、
きっと、
売れる。
速さは、
売れるから。
でも。
海斗くんは、
もっとあとで、
売れる。
その頃には、
もう。
誰にも消せない色に、
なっている。
ぼくは、
画面を見ながら、
少しだけ笑った。
植え込みの奥で、
灰色だった子が。
今、
一番、
消えない色を、
していた。
速さで勝てないなら、半歩早く気づく。その半歩が、未来を変えることもあります。




