第26話「届かない背中」
どれだけ走っても、また新しい背中は前に現れる。
夏に、新しい選手が来た。
マルティン。
背番号、十九。
二十歳。
下部組織の出身。
最初に見たとき、
すぐに分かった。
速い。
ぼくより、
ずっと。
* * *
紅白戦。
マルティンが右サイドに立つ。
少し前かがみ。
つま先は、
もう前を向いている。
ボールが出る前から、
体が走る形になっていた。
味方の足が、
パスを出す。
その瞬間。
マルティンの右足が、
芝を強く蹴った。
一歩目が、
速い。
ぼくが体を倒したときには、
もう二歩目が出ている。
追う。
足を回す。
左足で踏んで、
右足で蹴る。
でも、
差が縮まらない。
半歩じゃない。
一歩。
二歩。
離される。
背番号十九が、
前へ行く。
ぼくは、
その背中を追う。
届かない。
また、
届かない背中だった。
マルティンは、
走りながら、
少しだけ中へ入る。
相手のセンターバックが、
つられて横へ動く。
その一瞬で、
ゴール前にすき間ができた。
マルティンは、
そこへ右足の外側で、
軽くボールを流した。
強いパスじゃない。
でも、
速い。
味方の足元へ、
ぴたりと届く。
シュート。
ネットが揺れた。
監督が、
腕を組んだまま、
それを見ていた。
ぼくは、
息を切らして、
立ち止まった。
速い。
うまい。
そして、
若い。
嫌になるくらい、
分かりやすい才能だった。
* * *
次の試合。
スタメン表に、
十九番があった。
マルティン。
ぼくの番号は、
なかった。
ベンチ。
また、
ベンチ。
コートを着て、
座る。
ピッチでは、
マルティンが走っていた。
速い。
相手の横を抜けるとき、
体を大きく動かさない。
右肩を少し下げる。
相手が反応する。
その逆へ、
左足で芝を蹴る。
一瞬で置いていく。
ぼくなら、
二歩かかる場所を。
マルティンは、
一歩で行く。
観客が、
どよめく。
味方が、
手をたたく。
監督が、
うなずく。
ぼくは、
ベンチの中で、
両手を握った。
寒くもないのに、
指先が冷たかった。
* * *
嫌なのは。
マルティンが、
いい奴だったことだ。
ルカとは違う。
ばかにしない。
目を引っぱったりしない。
ぼくの発音を笑ったりもしない。
練習のあと。
マルティンが、
タオルで汗をふきながら、
ぼくのところへ来た。
「カイ」
そう呼んで、
笑った。
「きみの走り込み、すごいね」
ぼくは、
少しだけ、
返事に困った。
「……ありがとう」
「どこに入ればいいか、よく見えてる」
マルティンは、
本当にそう思っている顔だった。
いい奴だ。
だから、
憎めない。
憎めないのに、
ぼくの場所を取っていく。
それが、
一番つらかった。
* * *
ロッカーで。
マルティンの背中を見ていた。
背番号十九。
新しいユニフォーム。
まっすぐな背中。
速い背中。
届かない背中。
三年前と、
同じだった。
ドイツへ来たばかりのころ。
上のカテゴリーで見た、
あの怪物。
追っても。
追っても。
届かなかった背中。
あれと、
同じに見えた。
ぼくは、
スパイクの紐をほどいた。
ほどく必要なんて、
なかった。
でも、
何かをしていないと、
顔が下がってしまいそうだった。
ぼくは、
速さでは勝てない。
一歩目。
足の回転。
体の軽さ。
生まれつきのものには、
勝てない。
努力で、
全部は埋まらない。
それを、
また思い知らされた。
* * *
夜。
部屋で、
ノートを開いた。
机の上に、
小さなライトをつける。
白いページ。
ペンを持つ。
マルティン。
背番号十九。
右利き。
一歩目が速い。
縦へ抜ける前に、
右肩が下がる。
中へ入るときは、
左足の踏み込みが深い。
クロスは、
強く蹴らない。
足首を固めて、
外側で流す。
守備に戻るとき、
少しだけ遅れる。
疲れると、
顔を上げる回数が減る。
ぼくは、
書いた。
見たことを、
全部。
悔しさも、
怖さも、
文字に変えた。
速さでは勝てない。
だったら、
別のところで勝つしかない。
どこで走るか。
いつ動くか。
相手がどこを空けるか。
マルティンより、
早く走れないなら。
マルティンより、
早く気づく。
ぼくは、
またペンを握った。
手は、
少し震えていた。
怖い。
また、
消えるのが怖い。
ベンチに戻って。
名前を呼ばれなくなって。
誰にも見られないまま、
終わっていくのが怖い。
でも。
逃げなかった。
ノートから、
目をそらさなかった。
逃げたら。
本当に、
終わる。
ここで。
ぼくは、
ページの一番下に、
小さく書いた。
**速さで勝てないなら、半歩で勝つ。**
ペンを置く。
外は、
まだ明るかった。
ドイツの夏の夜は、
なかなか暗くならない。
ぼくは、
窓の外を見た。
遠くの空が、
灰色から青に変わっていく。
あの背中には、
まだ届かない。
でも。
見えている。
見えているなら。
追える。
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速さでは届かない背中にも、別の追い方があるのかもしれません。




