第21話「2部リーグ、デビュー」
夢だった舞台に立てても、本当の勝負はそこから始まります。
ベンチに座っていた。
試合は、
もう後半。
ぼくは、
まだピッチに立っていない。
コートを着たまま、
足だけを動かしていた。
寒い。
ドイツの秋。
吐く息が、
白く空へ消えていく。
スタンドの声が、
背中を押してくる。
三年。
言葉も覚えた。
チームのやり方も覚えた。
この国で生きることにも、
少しずつ慣れた。
でも。
ぼくは、
まだレギュラーじゃない。
三年前。
ぼくは手紙に書いた。
「こわい」
あの一言だけは、
今でも忘れていない。
届かない背中を見て。
何度追いかけても、
届かなかった。
だから。
走った。
朝も。
夕方も。
みんなが帰ったあとも。
走った。
トレーナーのメニューを終えて。
そこから、
また一人で走った。
誰にも言わずに。
ノートは、
また一冊、
いっぱいになった。
でも。
結果は、
すぐには出なかった。
試合の日。
ぼくは、
いつもベンチだった。
名前を呼ばれないまま、
試合が終わる。
スパイクは、
きれいなまま。
芝の土も、
つかない。
それが、
一番つらかった。
走っても。
走っても。
立てない。
頑張っても。
届かない。
そのたびに、
あの背中が浮かぶ。
まだ。
届かない。
「カイ」
コーチが、
ぼくを呼んだ。
海斗。
でも、
ここでは、
カイ。
「ゲー」
行け。
その一言だった。
ぼくは、
コートを脱いだ。
冷たい空気が、
一気に肌へ触れる。
後半二十分。
二部リーグ。
初出場だった。
ピッチは、
速かった。
全部。
ボールも。
人も。
判断も。
ぼくが、
「ここだ」
と思ったときには、
もうボールは、
別の場所へ動いている。
三年前。
見上げることしかできなかった世界。
その真ん中へ、
ぼくは立っていた。
最初のプレー。
パスを受ける。
次の瞬間。
奪われた。
「しまった」
振り返る。
もう相手は、
走り出している。
追う。
届かない。
次のプレー。
味方へ出す。
少しだけ、
ずれた。
相手が奪う。
また、
走る。
半歩。
その半歩が、
遠かった。
息が苦しい。
足が重い。
芝が、
足へまとわりつく。
味方の一人が、
ぼくを見た。
何も言わない。
でも。
その目だけで、
分かった。
――大丈夫か。
ベンチでは、
交代選手が、
アップを始めていた。
ぼくの代わりかもしれない。
まだ。
何もできていないのに。
心臓が、
速くなる。
怖い。
また、
あの気持ちが、
胸の奥から、
はい上がってくる。
ここでも、
届かないのか。
ぼくは、
息を吸った。
冷たい空気。
青い芝の匂い。
そして、
思い出した。
三年前。
ぼくは、
手紙を書いた。
「こわい」
そう書いた。
その手紙を、
受け取ってくれた子がいる。
「見ててね」
そう頼んだ子。
ななちゃん。
きっと。
今も、
見ていてくれる。
強いぼくだけじゃない。
怖がっているぼくも。
失敗しているぼくも。
全部。
見ていてくれる。
だったら。
逃げるな。
怖くても。
走れ。
ぼくは、
走った。
奪われても、
また走る。
追って。
追って。
追い続ける。
息が切れても。
足がもつれても。
止まらない。
そのとき。
少しだけ。
見えた。
相手の視線。
肩の向き。
支え足。
次に、
どこへ出すのか。
ボールが来るより、
半歩、
早く。
ぼくは、
動いた。
パスを引っかける。
ボールが、
転がる。
味方が、
拾う。
そのまま、
前へ。
ぼくも、
走る。
パス。
シュート。
キーパーが、
弾いた。
ボールが、
ゴール前へ転がる。
誰もいない。
……いや。
一人だけ、
いた。
ぼくだ。
右足を振る。
ネットが、
揺れた。
入った。
一瞬、
音が消えた。
次の瞬間。
スタジアムが、
揺れた。
「カイ!」
「カイ!」
名前が、
何度も響く。
味方が、
駆け寄ってきた。
背中を、
思い切り叩かれる。
痛い。
でも。
うれしかった。
さっき、
ぼくを見ていた選手も、
笑っていた。
ぼくは、
叫ばなかった。
胸も張らなかった。
ただ。
拳を、
ぎゅっと握った。
心の中で、
海の向こうへ、
つぶやく。
――怖かった。
でも、走った。
それだけで、
十分だった。
ぼくは、
空を見上げた。
ドイツの空は、
今日も灰色だった。
でも。
ほんの少しだけ。
昨日より、
明るく見えた。
どんな一歩も、最初は震えながら踏み出すものなのかもしれません。




