序章——菜々子
「わたしが、しょうにんだから」
夜だった。
お店のシャッターは、もう閉まっている。
時計を見る。
十一時をすぎていた。
お母さんには「早く寝なさい」って言われた。
だから、うん、と返事をした。
でも、まだ起きている。
ないしょ。
ほんの少しだけ。
フルートケースを抱えて、二階の窓のそばに座った。
商店街は静かだった。
昼間はあんなに人がいるのに、夜になると、別の町みたいになる。
窓の向こうに、星は見えない。
街の灯りが明るいから。
でも、そのもっと向こう。
海の向こうに、ドイツがある。
まだ行ったことはない。
テレビでしか見たこともない。
でも、いつかそこに、海斗くんは行く。
そんな未来を、六歳の私はまだ知らない。
それでも、なんとなく思っていた。
海斗くんは、遠くへ行く人だ。
みんなより遠く。
ずっと遠く。
そういう人だ。
昼間のことを思い出す。
植え込み。
長袖。
膝を抱えた背中。
「来ないで」と言った声。
サッカーの話。
世界一の話。
海斗くんは、変だった。
ずっと年上なのに、ときどき、すごく小さく見えた。
泣きそうなのを、ひとりで隠しているみたいに。
だから、気になった。
友達でもない。
昨日、会ったばかり。
それでも、放っておけなかった。
昔、おじいちゃんが言っていた。
「人にはな、見てくれる人が必要なんだ」
そのときは、意味がよく分からなかった。
でも、今日、少しだけ分かった気がした。
海斗くんは、たぶん、寂しい。
学校で何があったのか。
家で何があったのか。
私には分からない。
でも、寂しそうだった。
だから、見ようと思った。
ちゃんと、見ていようと思った。
フルートのコンクールで、舞台に立つとき。
私は、いつも怖い。
世界には、上手い人がたくさんいる。
負けるかもしれない。
間違えるかもしれない。
それでも吹けるのは、客席にお母さんがいるから。
先生がいるから。
おじいちゃんがいるから。
見てくれる人がいるから。
だったら。
海斗くんにも、そういう人がいた方がいい。
難しい理由じゃない。
ただ、そう思った。
窓を開ける。
夜風が入ってくる。
夏なのに、少しだけ涼しい。
「海斗くん」
小さく呼んだ。
返事なんてない。
当たり前だ。
でも、胸の奥が、少しだけあたたかくなった。
明日も公園へ行こう。
フルートを持って。
お茶も持って。
もし海斗くんがいたら、また話そう。
もし話さなくても、そこにいよう。
植え込みの奥にいる海斗くんが、少しずつ外へ出てこられるまで。
私は、窓の外を見た。
暗い夜だった。
でも、その奥に、まだ見えない芝生がある気がした。
世界一のストライカーになる少年。
今はまだ、植え込みの奥にいる。
誰も知らない。
たぶん、本人も知らない。
でも、私は見ていた。
見つけてしまった。
だから、見ていようと思った。
泣く日も。
負ける日も。
遠くへ行く日も。
帰ってくる日も。
全部。
「わたしが、しょうにんだから」
誰にも聞こえない声で言った。
夜風が、その言葉を持っていった。
私は窓を閉めた。
布団に入って、目を閉じる。
明日も会えるだろうか。
会えたら、なんて言おう。
そんなことを考えているうちに、眠りが近づいてきた。
夢の中では、広い芝生の上を、一人の少年が走っていた。
私は、その背中を見ていた。
|ω・)チラ




