序章 ゴオオオオオル【挿絵有り】
《——後半、二十分。ベンチが動いた、皆さん! 出てくるのは日本から来た少年、ここでは“カイ”! いいかい、この子はまだ、このピッチの土の匂いも知らない、生まれたばかりの子鹿みたいな子だ!》
ピッチに入った。
はじめての試合出場だった。
ドイツの芝は、青くさく匂った。寒くて、息が白い。
……とにかく、速かった。何もかもが。ボールも、人も、考えることまでも。
ぼくがこう動こうと思うより先に、もうボールは、別の場所にある。
《おおっと——最初のタッチ、奪われたァ! バターをつかもうとした赤ん坊みたいだ! スタンドが「あー」と言ってる。きびしい、きびしいよ!》
ぼくのせいだ。次も、パスがずれてしまった。
走った。でも、一歩、遅い。いや、半歩。その半歩が、どうしても届かない。
味方のひとりが、ぼくをちらっと見た。こいつで大丈夫か、という目だった。
すると、こわい気持ちが、胸の奥からこみ上げてきた。やっぱりぼくは、届かないんじゃないか、と。
……でも。ぼくは、あの手紙に書いたのだ。こわい、と。海の向こうの、あの子に。見ててね、と頼んだ。
あの子は、今も見ているはずだ。ぼくのこわさも、かっこ悪いぼくも、全部。
だったら、逃げてはいけない。たとえこわくても、走るんだ。
《——おや? この子、走るのをやめないぞ! さっき笑われたのに、また行く。あきらめない、あきらめないよこの子は!》
奪われても、ぼくはまた走った。すると、走っているうちに、少しずつ見えてきた。相手が次に、どこへ出すのかが。
そして、はじめて、半歩、速く動けた。
ボールがこぼれた。ちょうど、ぼくの足もとに。味方が走っている。だから、ぼくはすぐに出した。
《通ったァ! シュート——キーパーがはじく——こぼれる——そこに……》
そう、そこに、ぼくがいた。あんなに遅れていたのに、この時だけは、ぼくが誰より速く、そこにいたのだ。
ぼくは、蹴った。
《ゴ——》
ネットが、揺れた。
《——オオオオオオオオオオオオオル!!! すばらしい! すばらしい日本の子! ネットが揺れた、スタジアムが揺れた、地球が揺れたよ皆さん!》
ぼくの名前を、スタジアムが呼んでいる。カイ、カイ、と。
味方が背中を叩いた。強く、痛いくらいに。でも、それは嫌な痛さではなかった。
ぼくは、ただ拳を握った。それだけだった。叫びもしなかったし、胸も張らなかった。
ただ心の中で、海の向こうの子に言った。——こわかった。でも、走ったよ。ななちゃんが見てる。それだけで、足が出たんだ。
《……皆さん、見たまえ。この子は叫ばない。拳を握るだけだ。海の向こうの、たった一人へ送る、声にならない返事——とんでもない子だよ、本当に》
たとえ言葉にしなくても、このゴールが、ぼくの返事だった。
ドイツの、灰色の空。けれど今日は、それが少し違って見えた。
ななちゃんの、しょうにん
――植え込みの奥の少年を、見つけてしまった女の子の物語
こわくても前へ進むことと、誰かを見守ることの強さを、やさしい言葉で感じてもらえたらうれしいです。




