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世界一のストライカー【見て書いてきた少女】  作者: K3


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第1話「植え込みの、奥」

これは、植え込みの奥でひとり苦しさを抱える海斗に、やさしい声が届くはじまりの物語です。

夏休みの朝。


 学校がない。


 それだけで、気持ちが楽になるはずだった。


 それでも、楽にはならない。


 目が覚めると、まずわき腹を確かめる。


 布団のなかで、そっと。


 指で押すと、体の奥のほうがまだ熱を持っている。


 昨日の痛みだ。


 色は見ない。


 見なくても、わかる。


 紫色が黄色に変わりかけている頃だ。


 起き上がると、あばら骨のあたりがつったように痛んだ。


 息を浅くする。


 深く吸うと、痛む。


 だから、浅く。


 顔は無事だった。


 あいつらは顔を狙わない。


 殴るのは、服で隠れるところだけ。


 だから母さんは気づかない。


 台所へ行くと、母さんはもう出かける準備をしていた。


「海斗、陽菜のこと、お願いね。学童、九時までに送ってって」


「うん」


「お昼は冷蔵庫。翼のミルク、忘れないで」


「わかった」


「ありがと。……ほんと、助かる」


 母さんは、ぼくのほうを見ずに言う。


 見たら泣くから、かもしれない。


 それか、ただ見る時間がないだけか。


 どっちでもいい。


 見られたら、困る。


 長袖を着ていた。


 六月の終わりの、もう夏みたいな朝に。


「あんた、暑くないの、それ」


 母さんが、振り向かずに言う。


 鞄に何かを詰めながら。


「冷房、効きすぎてるとこ行くから」


 嘘はすらすら出る。


 最近、上手くなった。


「……そう」


 母さんは、それ以上聞かなかった。


 聞く時間も、たぶんない。


「いってきます」


 母さんの足音が、玄関で消える。


 それから、家のなかがすこし広くなった。


 陽菜が起きてくる。


 寝ぐせのついた頭で、目をこすりながら。


「おにいちゃん、おなかすいた」


「パン、焼くよ」


「ジャムは?」


 冷蔵庫に腕を伸ばす。


 途中で、わき腹がつったように痛んだ。


 息を止めてやり過ごす。


「いちごの、あったかな」


「いちごがいい」


 陽菜のほうへ背を向けたまま、トースターのつまみを回す。


「ねえ、きょう、プールある?」


「あるよ。学童で」


「やった。あのね、きのうね、めぐちゃんがね、ビート板でバタフライしたの」


 陽菜の話は、いつも誰かの話から始まる。


 めぐちゃん、せんせい、ひまわり組のだれか。


 世界が、まだ、優しい人でできている。


「でね、せんせいに、おこられたの」


「そっか」


 返事だけしていれば、陽菜は勝手に話し続ける。


 聞いていなくても、ばれない。


 聞いている、というだけで、陽菜は満足する。


「おにいちゃんも、プールくる?」


「……兄ちゃんは、行かないよ」


 陽菜が振り向く。


 不満そうに。


「なんで」


「もう、おっきいから」


 水着になれば、あざが見える。


 それだけのことが、言えない。


「えー。むかしは、いっしょにプールいったのに」


「……むかしの話だろ」


「むかしって、いつ?」


「忘れた」


 忘れたわけじゃない。


 去年の夏は、まだボールを蹴っていた。


 陽菜はすこし口をとがらせた。


 それから、すぐ忘れて、焼けたパンにいちごジャムを山ほど塗りはじめる。


「いってきまーす」


 手を振る陽菜の、小さな背中。


 学童までの道で、ぼくの半歩うしろを跳ねるように歩く。


「おにいちゃん、はやい」


「ごめん」


 歩く速さも、わからなくなっていた。


「ねえ、なんで長そでなの。あついよ」


「……兄ちゃんは、寒がりなんだ」


「へんなの」


 陽菜が笑う。


 その笑い声だけは、まだ何にも汚されていない。


 守らないと。


 これだけは。


 角の家の前で、田中さんのおばさんが水やりをしていた。


「あら、海斗くん。えらいわねえ、毎朝、妹さん送って」


「いえ」


「お母さん、大変そうだもんねえ。あんたが、しっかりしないと」


「……はい」


 しっかり。


 その言葉が、肩に、また一枚、重なる。


 みんな、ぼくに優しい。


 優しいから、誰も気づかない。


 ぼくだって、誰かにしっかりしなくていいよ、と言われたい。


 言われたら、たぶん立っていられなくなる。


 だから、言われないほうがいい。


 学童の門で、陽菜は振り返らずに走っていった。


 先生に、おはようございます、と頭を下げる。


 先生は、ぼくの長袖をちらりと見た。


 何も言わなかった。


 家に帰ると、翼が泣いている。


 ミルクの時間だ。


 粉をお湯で溶かす。


 哺乳瓶を頬にあてて、温度を確かめる。


 母さんが、そうしていた通りに。


 翼は、ぼくの腕のなかで必死に飲んだ。


 小さなのどが、こくこく鳴る。


 飲み終わると、翼はまた眠ってしまう。


 背中をとんとん、と叩いてやる。


 げっぷのあと、口の端からミルクが垂れた。


 ガーゼで、拭く。


 全部、ぼくがやる。


 母さんは、いないから。


 弟と妹がいるあいだは、平気な顔ができる。


 一人になると、顔がくずれてしまう。


 家にいると、考えてしまう。


 だから、外に出る。


 昼前の住宅街は、誰もいない。


 みんな、どこかにいる。


 学校、仕事、学童。


 居場所のある人たちは、居場所へ行く。


 ぼくの足は、自然と公園のほうへ向かった。


 大きな公園じゃない。


 ブランコと、砂場と、植え込み。


 それだけの、小さな公園。


 昼間は、誰も来ない。


 小さい子は学童に行っていて、大きい子は別の場所へ行く。


 ちょうど、空っぽの時間。


 その空っぽの時間に、ぼくはいる。


 植え込みの、奥。


 ツツジの、葉の裏。


 大人の腰くらいの高さの茂みの、いちばん奥にしゃがみ込む。


 膝を抱えると、あばら骨が痛んだ。


 構わない。


 ここなら、誰からも見えない。


 日陰は、土の匂いがする。


 湿った、冷たい匂い。


 背中を塀に預けると、コンクリートの冷たさが、長袖ごしにじわりと伝わってくる。


 長袖の内側は、もう汗で湿っている。


 それでも、脱げない。


 脱げば、あざが外に出てしまう。


 隠している、というより、なかったことにしている。


 見えなければ、ない。


 そういうことに、している。


 目を閉じる。


 夏休みなのに、教室がまぶたの裏に浮かぶ。


 べつに、殴られるだけじゃない。


 朝、机がいつも、ほんの少しずれている。


 昼、教科書の向きが、入れたときと違う。


 なくなったものは、ひとつもない。


 だから、何も起きていないことになる。


 返事をしても、会話はそのまま進む。


 まるで、そこだけ椅子が空いているみたいに、誰の目もぼくを見ずに通り過ぎていく。


 一度、プリントが一枚足りなかった。


 先生が「隣に見せてもらって」と言う前に、隣の席の子が机を少しだけ離した。


 その一センチにも、たぶん、許しがいる。


 誰も、笑っていなかった。


 誰も、止めなかった。


 そのだまりこんだ空気だけが、いちばんはっきり、ぼくの味方じゃなかった。


 だから、ここがいい。


 目を閉じなおす。


 ここには、机も、椅子も、視線もない。


 誰の目も、通り過ぎる必要がない。


 最初から、誰もいないから。


 どこかで、音がする。


 ボールを蹴る音。


 遠い。


 たぶん、川の向こうのグラウンド。


 誰かが、サッカーをしている。


 とん、とん、と地面を弾む音。


 それから、ぱあん、としっかり当たった音。


 ぼくの体が、その音を覚えている。


 膝の裏が、勝手に走る形を思い出そうとする。


 去年まで、ぼくもあの音の側にいた。


 うまかった。


 ……うまかったから、だ。


 入ったばかりのぼくが、試合に出た。


 先輩を押しのけるみたいに。


「お前、調子に乗ってんじゃねえぞ」


「一年のくせに、なんでお前なんだよ」


 なんで、お前なんだよ。


 ぼくが、答えを持っていたわけじゃない。


 でも、あの問いに答えはなかった。


 声だけは、よく覚えている。


 生意気だ。


 調子に乗るな。


 理由は、あとからいくらでもついた。


 最初に何かがきしんで、それから、全部がきしみはじめた。


 ボールには、もう触らない。


 好きだった。


 好き、とは、もう言えない。


 遠くの音が、また鳴る。


 ぱあん。


 胸の奥が、ひとつ跳ねた。


 走り出したい、と体のどこかが言う。


 それでも、足は動かない。


 膝を抱えたまま、動かない。


 ガラケーを開くと、画面のすみに、知らない番号からのメール。


 クラスの裏サイトの、URLだ。


 また、何か書かれている。


 開かなくても、わかる。


 見ない。


 ふたを閉じた。


 ポケットには、もう何も入っていない。


 昨日、また持っていかれた。


 母さんの財布から、出すしかなかった金だ。


 返して、とは言えない。


 言えば、次は、もっと持ってこいと言われる。


 それも、たぶん、誰にも証明できない。


 落ちていた、と言われたら、それまでだ。


 膝に、額をつける。


 ここには、誰も来ない。


 だから、ここがいい。


 世界が、この植え込みの奥だけになる。


 それくらいが、ちょうどいい。


 狭いほど、誰も入ってこられない。


 明日のことを考えようとする。


 考えようとして、できない。


 夏休みが明けたあとの教室を思っても、そこに、ぼくの席だけがうまく見えない。


 その先の景色が、どうしても浮かんでこない。


 でも、夕方には、陽菜を迎えに行く。


 それだけは、ちゃんと、浮かぶ。


 だから、まだ、立てる。


 遠くで、また、ボールが鳴った。


 その音が、だんだん小さくなっていく。


 やがて、それも聞こえなくなる。


 あとは、蝉と、自分の浅い息だけ。


 ——と。


 すぐ近くで、かさり、と葉の音がした。


 ぼくのいる茂みの、すぐ外。


 誰かがいる。


 見つかった。


 そう思った瞬間、体が固まった。


 また、見られる。


 また、笑われる。


 また、何かを取られる。


 息を止めた。


 葉の向こうから、小さな声がした。


「おにいさん」


 知らない声だった。


 高くて、やわらかくて。


 こわいくらい、まっすぐだった。


「だいじょうぶ?」


 その言葉の意味が、すぐには分からなかった。


 ぼくは、ずっと。


 だいじょうぶじゃないことを、誰にも見せないようにしてきたから。

海斗の世界に小さな光が差しこむ、その最初の瞬間を感じてもらえたらうれしいです。

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