ジュヴァール海の話
ゴローバス王国での二日目。
王都ウラウは軍事都市として知られているが、その内側は意外なほど賑やかだった。
石造りの街並みの中に市場が並び、海の匂いを運ぶ風が通り抜ける。
父たちの用事の合間を使い、ルークスたちは街を見て回っていた。
港の市場には、見たことのない魚や貝が並んでいる。
大きな殻を持つ甲殻類や、青い鱗を持つ魚。
どれもジュヴァール海で獲れたものらしい。
「ここは海の幸が名産でしてね」
案内役のケルトが説明する。
「ジュヴァール海は西大陸との境にある海です。潮の流れが複雑で、昔から多くの船を支えてきました」
港には大きな漁船が並び、漁師たちが忙しそうに網を運んでいる。
その様子を見ながら、ルークスは海を眺めていた。
広い。
ただそれだけの感想だった。
空間魔術を扱うようになってから、彼は時々こうして広い場所を眺める癖があった。
海は、彼の知るどんな場所よりも広かった。
「海って、ずっと続いてるの?」
ルークスの質問にケルトは笑う。
「西大陸まで続いておりますよ」
ラウノートは船を見て目を輝かせていた。
「乗れるのか?」
「近海なら問題ありません」
その言葉に、護衛の兵士たちが準備を始める。
小型の船を借り、港の外側へ少し出ることになった。
海は穏やかだった。
船が波を割り、白い水しぶきが上がる。
遠くでは別の漁船が網を引いているのが見えた。
一通り王都圏を歩き、海の幸を堪能した翌日。
早朝に沿岸の兵士が騒いでいた。
「おはようございます。ケルトさん。朝からどうしました?」
何やら外が慌ただしいと思い、ルークスは着替えて港に来ていた。
そこにはケルトもいた。
「海が揺れているとの報告がありまして...」
ルークスにはそんな揺れは感じなかったが、ケルトの表情から何かを悟った。
その時だった。
突然、海面が大きく揺れた。
「……なんだ?」
次の瞬間。
海の中から巨大な影が浮かび上がった。
「海獣だ!!」
兵士の叫び声が響く。
黒い鱗に覆われた巨大な生物。
長い尾が海面を叩き、波が大きく広がる。
近くの漁船が大きく揺れた。
「転覆するぞ!」
漁師たちの叫び声。
一隻の船が波に飲まれ、人が海に投げ出された。
「救助だ!」
ゴローバスの兵士が迷わず海に飛び込む。
その様子を見ながら、港の防衛魔術師が前に出た。
「退いてください!」
彼が詠唱を始める。
魔術陣が展開された。
次の瞬間、空中から水を裂くような衝撃が放たれる。
巨大な水柱が海獣へ向かって落ちた。
だが。
海獣が身を捻る。
魔術は直撃しなかった。
衝撃が海面を叩き、巨大な波が発生する。
海にいた兵士の身体が大きく揺れた。
「っ!」
それでも兵士は必死に泳ぎ、溺れていた漁師を掴んだ。
その瞬間。
海獣の尾が海面を叩いた。
轟音。
水が爆発するように弾ける。
兵士の身体が水中に沈んだ。
しばらくして、漁師は救助された。
しかし、兵士は動かなかった。
港に引き上げられた身体は、すでに息をしていなかった。
周囲が静まり返る。
魔術師が苦い顔で言った。
「……仕方ない。戦場だ」
その言葉を聞きながら、ルークスは兵士の顔を見ていた。
さっきまで生きていた人間。
今は、もう動かない。
魔術。
さっきの攻撃魔術。
あれは海獣を倒すためのものだった。
けれど、その衝撃で人が死んだ。
ルークスは思った。
魔術は人を救うこともできる。
けれど同時に——
人を殺す。
遠くで、ジュヴァール海の波が静かに揺れていた。
しかし港では誰も、その海を穏やかだとは思っていなかった。
その場を離れる時、ルークスはもう一度海を見た。
さっきまでの騒ぎが嘘のように、海は静かだった。
兵士たちは船を片付け、魔術師は何事かを報告している。
誰もこちらを見ていない。
ルークスは少しだけ息を吐いた。
実は、海獣が現れたとき。
彼は小さく魔術を使っていた。
空間魔術。
まだ不完全な術式だったが、
海面の流れをわずかに歪めた。
波の向きを変える。
それだけだ。
船が転覆しないように。
兵士が泳げるように。
ほんの少し、環境を変えただけ。
誰にも気づかれていない。
もし失敗していたら。
もし魔術が暴走していたら。
どうなっていたか分からない。
ルークスは海を見つめた。
魔術は人を救える。
けれど——
今日見た光景が頭から離れない。
人も死ぬ。
それは、自分が使っている力でもある。
ルークスは拳を軽く握った。
「……」
まだ、何も分からない。
でも一つだけ分かった。
魔術は遊びではない。




