ホームルームが終わらない
佳奈と私のクラスのホームルームの途中、担任が黒板に無造作に「61」と「57」の数字を書き殴った。チョークの先が黒板に当たる音が、いやに乾いて教室に響く。担任が黒板を二度叩いた。
「これがなんだかわかる奴はいるか」
私には何のことだかさっぱりわからなかった。でも、担任がいつもと違う――それだけは肌で感じ取れた。嫌な予感が背筋をすっと這い上がってくる。
「これはこの前のテストの、学年平均とこのクラスの平均点だ」
黒板をもう一度叩く担任は眉間に深いシワを寄せ、教室全体をじろりと睨みつけた。私は反射的に机の上のリュックを引き寄せ、その陰に隠れるように視線を落とす。窓際の男子も同じように俯いていて、廊下側の女子はリュックのロゴをじっと見つめている。誰も、何も、動かない。
「他の教科はまあまあだったさ。だがな……俺を舐めてるのかお前らは。担任の俺の教科で、なんだこの点数……学年最下位だぞ! たくっ」
そう吐き捨てるように言うと、不機嫌そうに自分の椅子にドカッと腰を下ろす。椅子の軋む音だけが、やけにはっきりと耳に残った。
座るなり、担任はぼそりと付け加えた。
「今日は朝から碌なことがない。昨日洗車したばかりの車には鳥にフンをされるわ、あの学年主任にはネチネチ小言を言われるわ……全く」
実のところ、担任がここまで機嫌が悪いのには、点数以外の理由もあったようだ。今の一言で、教室全体がそれを察してしまった。八つ当たりだとしたら、こちらはたまったものではない。
誰も口を開かなかった。廊下からはホームルームを終えた別クラスの生徒たちの足音や話し声が、やたら大きく聞こえる。こっちは空気が重く沈み、教室全体がその重みに押し潰されているようだった。今日中には帰れそうにない――そんな予感が、私の中でどんどん確信に変わっていく。
「うわ、最悪……」
思わず声が漏れた。膝の上で手を握りしめ、視線だけを泳がせる。早く帰ってソファに横になりたい、夕飯を食べたい――そんなごく普通の願いすら、今は口に出せない雰囲気だった。
前の席の子が、そっと後ろを振り返って「地獄……」と唇の動きだけで伝えてくる。私はこくこくと頷くことしかできなかった。今日は本当に、一生ここから出られない気がする。
いっそ自分も何か言おうか、と思った。せめて「部活がある人は困ると思います」くらいなら――膝の上で、右手の指先がほんの少しだけ浮いた。
だけど、担任の据わった目と目が合いそうになった瞬間、その手はすとんと元の位置に戻ってしまう。無理。そんな度胸、私にはない。
結局、私にできたのは、心の中でそっとため息をつくことだけだった。
そのとき、視界の端で、左隣の席の佳奈がすっと動いた。
思わず横目でそちらを見ると、佳奈は腕時計に目を落としていた。表情はいつも通り。この空気を微塵も感じていないような顔で。
え、と思う。この状況で、その顔ができるの。
佳奈は迷いを一切見せず、スッと手を挙げた。
「……なんだ、森北姉」
「先生、もう帰っていいですか?」
――と、ここまでは、まだ普通だった。
私の口から「え」という声が漏れそうになり、慌てて両手で押さえ込む。今、それ言うの? この空気の中で?
教室中の視線が、一斉に佳奈に集まった。離れた席の葵でさえ、「え、今それ聞く?」というような不安そうな表情で固まっている。私の心の声を、そのまま顔にしたような表情だった。
担任は「は?」と言いたげな顔で二度瞬きをした。今この空気の中でそんな質問が飛んでくるとは、想定していなかったのだろう。私も同じ気持ちだった。姉が何を考えているのか、まったく読めない。
「……帰りたければ、帰ればいいさ……」
口ではそう言うものの、その声には誰一人としてこの教室から帰すつもりは微塵も感じさせない、ネチっこいオーラが全開だった。目は笑っていない。むしろさっきよりも据わっている。私は背筋がぞっとした。これは絶対に本気で怒っているやつだ。
「もっとも」と、先生は言葉を続けた。
「こんな点数を叩き出したお前らは、帰るより考えるべきことがあるんじゃないか。ええ? だいたいな、家庭でもっと勉強を見てもらえって話だ。親がちゃんと躾をしてないから、こういう――」
その一言に、教室が微かにざわめいた。テストの点数の話から、急に「家庭」やら「躾」の話に飛んだことに、誰もが微妙な違和感を覚えた。前の席の子が、小さく「今それ関係ある?」と呟くのが私の耳にも届いた。私も心の中で深く頷いていた。
それでも佳奈は微動だにせず、スッと立ち上がり、机に置いてあるリュックのショルダーストラップを掴むと、そのまま背負った。
私は息を呑んだ。うそでしょ、本当に立った。
「じゃ、失礼します、さよならです」
「おい待て、どこに行く気だ」
「スーパーです」
一瞬、教室が静まり返った。誰かが小さく「スーパー……」と繰り返す声が聞こえる。私も心の中で同じ言葉を繰り返していた。スーパー。この状況で、スーパー。
担任はあ然とし、慌てて手で制止しようとする。
「待て待て待て! 俺はまだ許可してないぞ――」
「え、でも今『帰りたければ帰ればいい』って言いましたよね」
「そうは言ったが、雰囲気で察するだろう。まだ席から立ってほしくないんだが――」
「先生の話がこれ以上長引くと、卵の半額タイムセールに間に合いそうにないんです。先着30名までなので」
「卵!? 先着!?」
教室のあちこちから、小さな笑いが漏れ始める。私も「ぶっ」と噴き出しそうになるのを、すんでのところで堪えた。さっきまでガチガチに固まっていた身体から、少しずつ力が抜けていくのがわかる。ああ、佳奈ちゃんだ、と思う。この空気の中でも、佳奈ちゃんは佳奈ちゃんだった。
担任はこめかみを押さえ、顔を上から下へ手のひらで拭うと、深く息を吐いた。
「いいか、森北姉。俺が言いたいのはだな、この平均点を見て、お前らがどれだけ危機感を持つべきかという話で――」
「危機感なら家でも、なんなら明日でも持てます。特売の卵は今日……5時からの30分しかないんです」
「屁理屈を言うな!」
「事実です。昨今物価が上がって大変なんです、この買い時を見逃すわけにはいかないんです。先生が……」
佳奈は一歩も引かず、リュックのポケットからスマホを取り出した。画面をひらき、平然と言い放つ。
「帰してくれないなら、メールで『担任の先生が帰してくれない』って親に連絡します。あと教育委員会とかにも連絡しますね。担任が帰らせてくれなくて、どうしたら帰らせてもらえるのか、聞いた方が良さそうですね。ついでに“あの”学年主任の水島先生にも聞いた方が良さそうですか?」
佳奈の最後の一言に、担任の顔が目に見えて強張った。朝、ネチネチ小言を言われたばかりの相手の名前を出されて、痛いところを突かれた自覚があるらしい。
――数秒間教室から音が消えた。
私は思わず隣の子と顔を見合わせた。え、それ言っちゃうんだ、という視線が無言で行き交う。
教室の空気が、さっきとはまったく別の意味で凍りついた。
担任の顔からスッと血の気が引き、額に冷や汗がにじむ。さっきまでの威圧的な空気は、跡形もなく消え去っていた。私はその一部始終を、まるでスローモーションのようにはっきりと見ていた。
「お、おい……ちょっと待て、森北姉落ち着け。話せばわかる。教育委員会とか、そういう物騒なワードを軽々しく――! 学年主任の名前もそこで出すな!」
「テストの平均点よりよっぽどスリリングで教育的だと思いますけど」
佳奈が冷ややかにスマホの画面をタップしようとした瞬間、担任は椅子から転げ落ちそうな勢いで両手を激しく振った。
「わ、わかった! 降参だ!」
「え、もう?」
「俺が一人一人に寄り添って教えるべきだったな、お前ら今日はもう帰っていいから」
教室のあちこちで、堪えきれなくなった笑いがぽつぽつと弾ける。私はもう完全に肩を震わせていて、廊下側の明日香に至っては机に突っ伏していた。さっきまでの重苦しい空気が嘘みたいだ、と思う。全部、佳奈ちゃんのおかげで。
担任はなおも往生際悪く、震える声で付け加える。
「た、ただしな、教育委員会にはくれぐれも――あと学年主任にも変なことは言うなよ――」
「はい、連絡しませんし、余計なことも言わないので安心してください」
「本当だな?」
「はい、本当です。だから早くホームルーム終わらせてください、卵が――」
「卵の話はもういい! わかった! ! 全員さっさと下校なり、部活に行け!! ただお前たち、次のテストでは巻き返せよ、以上、帰ってよし!!!」
担任の情けない絶叫が教室に響き渡ると同時に、あちこちで椅子を引く音、荷物をまとめる音が一斉に鳴り始めた。さっきまでの重苦しい沈黙が嘘のように、教室はいつもの放課後の喧騒を取り戻していく。
私はまだ半分呆然としながら、荷物をまとめる手を止めて、佳奈の背中を目で追った。
佳奈は「お疲れ様です」と事務的に一礼すると、腕時計で時刻をちらりと確認する。今は午後4時45分。まだ急げば間に合う――そんな顔をしていた。
秒速で教室をあとにする姉の背中を、私は呆気にとられたまま見送った。あの重苦しい空気を、たった一人で、しかも卵のために突破していった背中を。
担任は、佳奈が廊下に出て見えなくなるまでその後ろ姿を見つめていた。そして、自分も教室をあとにする。
「な、なんだったの、今の……」
明日香が席を立って私に近づき、ぼそりと呟いた。私はまだ笑いの余韻を残しながら、首を横に振る。
「わかんない。でも、佳奈ちゃんらしい」
でも、姉のあの折れない一本芯のある姿勢は、少し見習いたいと思った。
窓の外では、夕方の光がグラウンドを橙色に染め始めている。あの空気の中を涼しい顔で突破していった姉の背中を思い出すと、私はまた笑いがこみ上げてくるのを止められなかった。
やっぱり佳奈ちゃんには敵わないな、と小さく笑って、私は教室を出た。




