住宅地を包む歌
校門を出ると、空はもう夕方の色に変わっていた。
「暗くなるの、早くなったね」
結菜が空を見上げながら言った。
「そうだね。ついこの間まで、同じ時間でも明るかったしね」
隣を歩く佳奈も、少しだけ空を見上げた。日が落ちるのが早くなると、家に帰る時間が遅くなったような気がする。
そのときだった。どこからともなく、歌が聞こえてきた。おじさんの声でゆったりとした、どこか懐かしいメロディー。
石焼き芋の歌だった。結菜の足が、ぴたりと止まった。
「あ……」
歌に耳を傾けたまま、結菜はゆっくりと佳奈の方を向いた。
「佳奈ちゃんなら、作れるよね?」
「何が?」
「石焼き芋」
佳奈は少し考えた。
「あー、作れないことはないけど」
「ほんと?」
「うん、だけど本格的にやるには石焼き芋専用の石が必要」
「石?」
「そう。普通に焼くだけならできるけど、あの石焼き芋屋さんみたいな味にするには、専用の石がないと難しいと思う。石に熱を溜めて、じっくり時間をかけて火を通すから、あんなに甘くなるの」
佳奈は淡々と説明した。結菜の顔から、期待が少しずつ消えていく。
「……えっ。じゃあ、今は無理ってこと?」
「今はね」
「そっか……」
結菜はしょんぼりしたものの、すぐに顔を上げた。まだ歌は聞こえている。結菜は辺りを見回した。道の向こう、住宅の間、少し離れた交差点。けれど、それらしい車の姿は見当たらない。
「なに、結菜今食べたいの」
「うん、あの歌聞いたら今食べたくなって。石焼き芋屋さんどこだろう……」
歌は確かに聞こえるのに、肝心の石焼き芋屋さんが見つからない。佳奈は立ち止まると、両耳に手を当てた。
「ちょっと静かにして」
「え?」
「歌が聞こえる方向を確かめるから」
結菜は口を閉じた。佳奈は目を細め、首を少しずつ動かしながら耳を澄ませた。歌声の音源を集中して、聞こえてくる方向を探る。
「……あっちだね」
佳奈が指さしたのは、通学路から少し外れた住宅街の道だった。
「ほんと!?」
「たぶんね。まだ遠くには行っていない、結菜なら追いつける距離だと思う」
結菜はすでに走り出しそうな勢いだったが、佳奈がその前に声をかけた。
「お金は持ってるの?」
「大丈夫!」
「なら、行ってきなよ。あと私の分も買ってきて、あとで払うからさ」
「うん! じゃあ、行ってくるね!」
返事をした次の瞬間には、結菜は走り出していた。あっという間に小さくなっていく背中を見送り、佳奈はゆっくり歩き始めた。急ぐ理由はない。結菜は足が速い。しかも、ああいうときの行動力は誰にも負けない。任せておけば問題ないだろう。佳奈はそんなことを考えながら、コートのポケットに手を入れて、歌の聞こえる方へ歩いていった。
その少し前のことだった。
真奈は、住宅街の細い道を歩いていた。どこかから石焼き芋の歌が聞こえてくる。そういえば、今年はまだ食べていない。そんなことをぼんやり思っていると、前方の角を、見覚えのある背中が猛スピードで駆け抜けていった。
「……結菜?」
声をかける間もなかった。鞄を揺らしながら走る妹の姿は、すぐに角の向こうへ消えてしまう。真奈は一拍だけ考えて、その後を追いかけた。結菜があの勢いで走るときは、たいてい食べ物が絡んでいる。そして聞こえてくるこの歌を聞けば答えはほとんど出ていた。
けれど、結菜の足は思っていたよりずっと速かった。1つ目の角を曲がったときにはもう姿が見えず、2つ目の角でようやく、遠くの背中が小さく見えただけだった。真奈の息が上がってくる。真奈は走る速度を少し落とし、スマホから母に電話をかけた。電話なら画面を見ずに済むし、前を見たまま歩ける。呼び出し音はすぐに途切れた。
「もしもし、あっお母さん? 今ね、石焼き芋屋さんが近くにいるんだけど、食べたい?」
家では、その少し前から母が歌に気づいていたらしい。買いに行こうか、そもそも食べきれるだろうか。そんなふうに台所でぐずぐずと迷っていたところに、真奈からの電話がかかってきたのだという。
「食べたい!」
電話の向こうで、母が少し笑っているのが分かる。真奈も小さく笑い、買って帰ると伝えて通話を切った。スマホをしまい、改めて足を速める。歌は、もうはっきりと聞こえるところまで近づいていた。
真奈は石焼き芋屋の車にたどり着き、先に到着していた結菜と合流した。
「あれお姉ちゃんも石焼き芋買いに来たの」
結菜は真奈を家の時とは違う人がいる外での呼び方をする。
「そう、なんか歌が聞こえたら食べたいかもって。そしたら結菜が走ってるし、きっと石焼き芋を求めているんだろうって思ってさ。だから追いかけてきた。お母さんに聞いたらお母さんも石焼き芋食べたいって言っていたし」
店先で、結菜が袋を受け取っているところで、のんびりとした足取りで佳奈がやってきた。
「あ、佳奈。遅かったね」
「……真奈、いつからいたの?」
「今さっき。結菜が走ってるのが見えたから、追いかけてきたの。見失いそうになって大変だったんだから」
「真奈も走ったの?」
「走ったよ」
「なるほど」
佳奈は納得したように頷いた。真奈はそんな妹を見て、何気なく言った。
「佳奈も、たまには走ったら? 結菜も私も走ってきたのに、佳奈は歩いてきたんでしょ」
「適材適所です」
佳奈は即答した。
「結菜の方が足が速いし、スタミナもある。私が走るより、結菜に任せた方が合理的」
「それはそうかもしれないけど」
「でしょう」
「でも、佳奈も少しくらい運動した方がいいんじゃない?」
「必要になったらするよ」
「今は必要じゃなかった?」
「必要だったのは、石焼き芋を買うことです。私が走ってこの寒い中、息を切らすことではないです」
真奈は一瞬、言葉を止めた。
「……結菜を便利扱いするそういうところ、変わらないね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてないよ」
「わかってる、でも食べたい気持ちが強かったのは結菜だから」
佳奈は気にした様子もなく、結菜の方へ歩いていった。当の結菜はというと、便利扱いされたことにまったく気づいていない顔で、袋を抱えたままにこにこしている。
「結菜、買えた?」
「うん! お父さんとお母さんの分も買ったよ」
結菜は両手で袋を持ち上げた。袋の中から、ほかほかとした温かさが伝わってくる。
「ちゃんと5人分あるよ!」
「ちなみに、お母さんにも電話で聞いておいたよ。歌は家まで聞こえてたみたいで、買いに行こうか迷ってたんだって」
「じゃあ、ちょうどよかったんだ!」
「うん。食べたいって即答だった」
結菜は嬉しそうに袋を抱え直した。佳奈は呆れ半分、感心半分といった顔で姉を見た。
「お姉ちゃん連絡が早い」
「走りながらだったけどね」
「真奈、それ危なくない。電話なら、前は見られるからまだいい。スマホの画面を見ながら歩くのは危ない、それに走ってたんでしょ」
「そこはちゃんと考えてる、メッセージじゃなくて電話で話したから」
ならいいっと佳奈は結菜が持ってる石焼き芋の入った紙袋をのぞき込んだ。焼き芋の甘い香りが漂ってくる。
「……うん。これは急ぐ価値があったかもしれない」
「そうでしょそうでしょ!」
結菜は満足そうに笑った。真奈は2人のやり取りを眺めながら、帰り道の方へ目を向けた。
「じゃあ、帰ろうか。冷めないうちに」
「うん!」
3人は家路についた。袋を持つのは結菜だった。自分が一番食べたかったのだから、という理由らしい。その特権はあるよなと佳奈はそれについて何も言わなかった。真奈も、特に何も言わなかった。
ただ、3人の歩く道には、さっきよりも少しだけ甘い香りがついてきていた。




