仲直りのタイミング
それは、なんの変哲もない休日の午後のことだった。
長女の真奈は、自分の部屋でなんとなくジュエリーボックスを開けた。そこには、普段から少しずつ集めているリングやブレスレット、ネックレスなどお気に入りのアクセサリーが綺麗に収まっている。
しかし、中身を眺めていた真奈は、ある一つの違和感に動きを止めた。
「あれ……?」
無い。無いっ!。いくらボックスの隅を探しても、一番大切にしていた、友達からプレゼントしてもらったシルバーのネックレスが見当たらなかった。
まさか失くしたのだろうか。記憶を巻き戻しながら、真奈は部屋の中を探しまくった。机の引き出し、ベッドの隙間、通学カバンのポケット。しかし、どこをどうひっくり返しても、探し物のネックレスは出てこない。焦りと不安が、徐々に胸の中で膨れ上がっていく。
諦めきれず、自分の部屋を出て一階に降りてきた、ちょうどその時だった。
ガチャリと玄関のドアが開き、「ただいまー」と佳奈が帰ってきた。
「あ、佳奈。ちょっと聞きたいんだけど——」
そう言いかけた真奈は、佳奈の首元を見た瞬間、言葉を失った。白いハイネックのセーターの上で、品よく光っているのは、真奈がさっきまで血眼になって探し回っていた、あのネックレスだった。
「佳奈、それ……私のネックレスだよね?」
真奈の声が、一瞬で冷たく張り詰めた。
佳奈はハッとしたように首元に手を当て、バツが悪そうに視線を泳がせた。
「あ……うん。今日の服に合うかなって思って。急いでたから、帰ってから言おうと思ってたんだけど」
「いつも言ってるよね……借りるなら一言声をかけてって! なんで黙って持って行くのよ!」
「そんなに怒らなくたっていいじゃん! 失くしてないし、今返そうと思ってたんだから!」
佳奈はむっとしながら、首の後ろの金具を外し、ネックレスを真奈の手へと乱暴に押し付けた。
しかし、真奈の怒りは収まらない。友達からの大切なプレゼントだったからこそ、無断で持ち出され、部屋中を探し回らされたストレスが爆発してしまったのだ。
「帰ってから言うつもりだったなんて言い訳でしょ! 言わなければ気づかれないと思って、勝手に持って行ったんじゃないの!?」
その言葉に、佳奈の顔色が変わった。
「……何それ。私を泥棒扱いするわけ?」
佳奈の目にも、一気に怒りの炎が灯る。普段から生真面目な佳奈にとって、「姉から犯罪者のように疑われた」という事実は、プライドを傷つけられるものだった。
「ま、まあまあ二人とも! ネックレスは無事だったんだし、今回は佳奈ちゃんが謝って、まー姉も許してあげてよ。ね?」
リビングの奥からおろおろと現れた結菜が、引きつった笑顔で二人の間に割って入ろうとした。しかし、着火した二人の勢いは止まらない。
「結菜は黙ってて!」
「結菜は口挟まないで!」
真奈と佳奈の鋭い声が同時に突き刺さり、結菜は「うぇっ……」と一歩下がるしかなかった。姉妹の冷戦は、こうして最悪な形で幕を開けた。
⸻
その日の夜。森北家のダイニングテーブルは、冗談抜きで凍りついていた。
「……お醤油」
真奈が極めて事務的なトーンで、醤油のボトルを佳奈の方へと滑らせる。
「はい」
佳奈もまた、感情の起伏を一切排除した声でそれを受け取る。必要最低限の言葉しか交わさない二人の様子に、向かい側に座る父親は、まるで地雷原を歩くかのようにビクビクとお箸を動かしていた。小さく咳払いをしてみるものの、娘たちからの反応はない。母は見守りながらも黙っている。
結菜は(味がしない……)と心の中で涙を流しながら、おかずを黙々と口に運んだ。食器がカチャカチャと触れ合う音だけが虚しく響き、テレビのバラエティ番組の笑い声だけがやけに浮いている。
地獄の夕飯が終わり、少しはリラックスするはずの時間帯でも二人はお互い避け続けている。それはお風呂の時間になっても緊張感は続いた。
⸻
翌朝、朝食の準備のために真奈が降りてくると、そこにはすでに佳奈の姿があった。
佳奈は黙々と、得意のパン作りのために仕込んでいた生地をオーブンに入れようとしているところだった。いつもなら「あ、おはよ」「もうすぐ焼けるよ」なんて会話があるはずなのに、朝から空気が重苦しい。
真奈は冷蔵庫を開け、佳奈はタイマーをセットする。お互いの存在を意識しながらも、声をかけることはない。
朝食後も2人の距離は交わらず、平行線だった。
「……じゃあ、私、先に行くから」
先に制服に着替えた佳奈が、小さくそう言ってカバンを掴んだ。
「……うん」
真奈の生返事を聞きながら、佳奈は逃げるように玄関を出て行った。まだ、冷戦の氷はびくともしていなかった。
佳奈が家から出た後、真奈はしばらく玄関先に立ち尽くしていた。追いかけて何か言うべきだったのではないか、そんな思いが胸の奥でくすぶる。長女として、こういうときに先に折れるのはいつも自分の役目だったはずだ。それなのに、今回はどうしても意地を張ってしまう。それほど真奈にとって大切なものだったからだ。
佳奈が出て数分後、真奈は制服に着替え、自転車で走り出す。今朝は稲穂が色づいている田んぼをひとりで通り過ぎる。いつもの姉妹の喧騒がないだけで、見慣れたはずの道がやけに長く感じられる。
昨夜のやり取りを思い返すたびに、真奈の中では反省と意地がせめぎ合った。ネックレスを勝手に持ち出されたことへの苛立ちは、正当だったはずだ。それでも、「私を泥棒扱いするわけ」という佳奈が口にした瞬間の佳奈の顔が、頭から離れない。自分が感情的になり、言い方にトゲがあった——そう分かっていながらも、素直に謝る一歩をどうしても踏み出せずにいた。
そんな思いを抱えたまま、真奈は校門をくぐった。友人に挨拶を返しながらも、心のどこかでずっと佳奈のことが引っかかっている。授業に向かう姿勢もどこか上の空だった。
一方その頃、教室でも結菜は気まずかった。佳奈と結菜、同学年で同じクラス、しかも席も隣同士という環境が、佳奈と結菜の気まずさにさらに拍車をかけた。
新学期の席替えで、奇跡的にも佳奈の右隣の席になっていた結菜は、この異常事態に朝からずっと焦っていた。家でも学校でも二人の板挟みにもなっていない結菜は、なんとかして学校にいる間にこの空気を変えようと、休み時間のたびに必死の猛アタックを仕掛けた。
「ねえねえ佳奈ちゃん! 今日のお弁当、お姉ちゃんが卵焼き作ってくれたんだよね? ほら、ちょっと形は歪だけどさ! 愛が詰まってるよね!?」
結菜は佳奈の机に身を乗り出し、大袈裟なジェスチャーで喋りかける。
佳奈はノートに目を落としたまま、小さくため息をついた。
(卵焼き、か……)
佳奈はお弁当箱の中身をぼんやりと思い浮かべた。喧嘩してるのに、真奈は結局いつも通り弁当を作るのを手伝ってくれた。それを考えると、勝手にネックレスを持ち出した自分の身勝手さばかりが、余計に浮き彫りになる気がした。悪いのは自分だと分かっている。分かっているのに、素直に謝る言葉が喉の手前で止まってしまう。結菜の必死な猛アピールを聞き流しながらも、佳奈の心はずっとそこで足踏みをしていた。
「……うん。真奈は卵焼きの形整えるのまだ苦手だからね」
「そうそう! だから佳奈ちゃんが今度、お姉ちゃんに料理教えてあげなよ! ね!」
「なんで私が……。いま、そういう気分じゃないから」
素直になれない佳奈はぷいっと窓の方を向いてしまう。授業中も、すぐ隣にいる佳奈から発せられる微弱なピリピリ感のせいで、結菜は全く授業が頭に入らなかった。
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先に帰ってきた真奈は大学の資料を真剣な表情で見つめていた。将来、教師を目指して誰かを支えたいと考えている真奈は、資料の文字を目で追いながらも、頭の中ではまったく別のことを考えていた。
手元のスマホには、佳奈宛てのメッセージ入力欄が開かれたまま、文字は一文字も打たれていない。「今日、一緒に買い物行かない?」と打ちかけては消し、「昨日はごめん」と打ちかけては消す。素直な言葉がどうしても形にならなかった。玄関の音がするたびに顔を上げ、佳奈の帰宅を意識しながらも、いざとなると切り出す勇気が出ない。そんな堂々巡りを繰り返していて、資料の内容はまるで頭に入っていなかった。
そこへ、結菜の「ただいまーっ!」という不自然なほど元気な声が響く。
「あ、そうだ! まー姉と佳奈ちゃん、今度の日曜日にさ、三人で美味しいパフェでも食べに行かない? 期間限定のいちごのやつ! 私が出すから!」
帰ってくるなり、カバンを放り出して二人の間に割って入る結菜。必死に二人を繋ぎ止めようと、両手をバタバタとさせている。
「結菜、テスト前でしょ。パフェより先に勉強しなさい」
真奈が苦笑混じりに冷たくあしらうと、結菜は「えーっ! まー姉冷たい! 佳奈ちゃんからも何か言ってよ!」と今度は佳奈にすがりついた。
「私に振らないでよ。結菜苦手な教科あるんでしょ。あと声が大きくてうるさい」
「もう! 二人ともまだそんな感じなの? ほら、手繋いで『ごめんね』って言い合いなよ! はい、握手! 握手して!」
無理やり二人の手を引っ張ろうとする結菜の必死すぎる姿に、真奈と佳奈は思わず顔を見合わせた。
「「……はぁ」」
二人の口から、完全に同時に深い溜め息が漏れた。
真奈が手元の資料をテーブルに置くと、佳奈もまた、呆れたように肩をすくめる。結菜の必死なご機嫌取りがあまりにもしつこくて、逆に二人の肩の張りが抜けてしまったのだ。
このまま意地を張り続けていては、結菜のせいで余計に家の中が落ち着かなくなる。二人は言葉にせずとも、阿吽の呼吸で「もう普通に戻した方がいいな」と結論を出していた。
「結菜、あなたがうるさいと落ち着かない。だから佳奈……」
真奈が苦笑しながら言うと、佳奈も少しバツが悪そうにしながら、真奈の目をまっすぐ見つめた。そして、今度ははっきりと頭を下げた。
「……真奈、ごめんなさい。大切にしてるネックレス、勝手に借りて、そのうえ逆ギレまでして……本当に私が悪かった。泥棒扱いされても、仕方ないことしたと思う。償いになんでもするから、言って」
妹の素直な謝罪に、真奈の表情もふっと柔らかい姉のそれに戻る。
「うん、わかってくれたならいいよ。私も、友達からの贈り物だからってちょっと焦っちゃって、感情的になりすぎたところはあったから。……じゃあ、なんでもするって言ったし、一つだけ罰、受けてもらおうかな」
「うん、なんでも言って」
「今週末、三人でアクセサリー見に行きましょ。佳奈に似合いそうなやつ、私が一緒に選んであげる」
「え……それ、罰になってなくない?」
佳奈がきょとんとした顔で聞き返すと、真奈はいたずらっぽく笑った。
「私と結菜に付き合ってもらうのが罰。文句ある?」
「……ない。ありがとう、真奈」
少し照れくさそうに言う佳奈を見て、真奈もふっと目を細めた。
「それとパフェ三人で食べよ。それくらいは私が奢るからさ」
「本当!? やったぁ!」
結菜がリビングの真ん中で飛び跳ねて大喜びする。それを見た佳奈も嬉しそうに目を細め、「ありがとう、お姉ちゃん」と小さく笑った。
丸1日以上、家でも学校でも元に戻らなかった頑なな意地も、不器用な結菜のしつこさと、お互いを思いやる姉妹の絆の前には、綺麗に溶けていくのだった。




