真奈の目指したいこと
「決まっているならそれを書いてくれ。決まってなくても、今の時点で考えていることは何かしら書いてほしい。少しな、大変だけど大事なことだ。しっかり考えて提出して欲しい」
ホームルームの最後、担任のその言葉とともに、教卓からプリントが回された。
前から送られてきた一枚の紙――『進路希望調査票』を受け取った瞬間、真奈の胸の奥がわずかに重くなった。
(大変だけど、大事なこと……)
文字が並ぶだけの真っ白なその紙が、今の真奈にはひどく冷たいものに見えた。
少し、憂鬱だった。
勉強が嫌いなわけではない。学校の成績だって、決して悪い方ではない。けれど、「将来、何になりたいか」と問われると、途端に輪郭がぼやけてしまう。自分には、胸を張って語れるほどの夢も、熱烈に追いかけたい特別な道もないような気がしていた。
「真奈はもう、行きたいところ決まってそうだよね」
前の席の美咲が、椅子に背中を預けるようにして振り返った。その声に引きずられるように、隣の席の優子も身を乗り出してくる。
「たしかに。真奈は料理を除けば、なんでもそつなくできそうだもん」
「ちょっと、料理は余計だよ」
真奈は苦笑交じりに返しながらも、内心では小さく息をついた。周りから「器用だ」「何でもできる」と言われるたびに、裏を返せば「これといった強みや、どうしてもやりたい特別なことがない」と言われているような、奇妙な焦燥感に駆られる。
何もかもが平均点以上にできる器用貧乏だからこそ、一つの道に絞り込む理由が見つけられないのだ。
自分の心を誤魔化すように、真奈は二人に問いかけた。
「みんなはどうなの? 将来のこと、もう考えてる?」
「まだ全然」美咲は、少し困ったように頭をかいた。「とりあえず大学には進学しようと思っているけど、どこの大学の何学部、とかまでは全然ピンとこなくてさ」
「私は、行きたい学部はなんとなくあるんだけどね」優子は天井を見上げながら、指先を顎に当てた。
「でも、自分の偏差値とやりたいことのバランスが難しくて、どこに行くかはまだ決めきれないかな」
さらに、それまで静かに話を聞いていた千夏が、目を閉じて難しい顔をしながら口を開いた。
「私は……大学には行かずに、就職かなって思ってる」
「そっか、それもあるよね」
真奈は頷いた。
進学するか、就職するか。進学するならどこへ行くか。
みんなそれぞれに悩み、迷いながらも、自分の足元を見つめて現実的な一歩を踏み出そうとしている。それなのに自分は、進むべき方角さえ見定められずに、ただ立ち尽くしているように思えてならなかった。
――自分には、何もない。目指しているものも、今は何も浮かんでこない。
放課後のチャイムが鳴り、家に帰ってきても、真奈の頭の中はそのことでいっぱいだった。
リビングのソファに深く体を沈め、天井を見つめる。鞄の中には、まだ空白で何も埋まっていないあの調査票が眠っている。
キッチンの方から、にぎやかな話し声が聞こえてきた。
佳奈と結奈だ。2人は、冷蔵庫を開け、中身を覗き込みながら、今日のおかずについてアレコレと言い合っている。
「ねえ佳奈ちゃん、この野菜使っちゃっていいの?」
「だめ、それは明日使うやつ。こっちのひき肉を使って――」
いつもの、何気ない森北家の日常の風景。
けれど、キッチンに立つ2人の背中を見つめながら、真奈の思考はまた進路のことへと戻っていった。
同じ学年としてこの春、高校生活をスタートさせた妹の佳奈と結菜。それなのに、2人はどこか、真奈よりもずっと大人びた「自分」を持っているように見えた。
結奈には、きっとやりたいことが明確にあるんだろうな、と真奈は思う。まだ具体的な形にはなっていなくても、あの子はエネルギーの塊のようで、自分の「好き」や「面白い」に対していつでも真っ直ぐだ。あの瑞々しい真っ直ぐさがあれば、これからどんな道へだって突き進んでいけるに違いない。
そして、佳奈。
妹の佳奈はもっと具体的だ。彼女には「パン職人になる」という、はっきりとした未来のビジョンがある。夢に向かってブレずに、今できる努力を重ねている佳奈の姿は、姉の目から見ても本当に格好よく、そして少しだけ羨ましかった。
(みんな、自分の“軸”を持っているのに……)
真奈はそっと自分の胸に手を当てた。
高校1年の2人があんなに輝いて見えるのに、高校2年の自分は何を足踏みしているのだろう。自分の軸。自分の好きなこと。自分がやりたいこと。
答えは出ないまま、その日の夜は更けていった。机の上に広げた調査票の白い余白が、まるで自分を責めているように思えて、真奈はため息をつきながら電気を消した。
翌朝、外の静かな雨の中、真奈は目を覚ました。 キッチンから漂ってくる香ばしい匂いで起き上がり制服に着替える。
佳奈がほぼ毎日、朝早くに起きて焼いている手作りパンの匂いだ。それだけで、少し重かった真奈の心がふわりと軽くなる。
食卓へ向かうと、焼き立てのパンを、結奈が「やっぱり佳奈ちゃんのパン最高! 今日も学校頑張れる!」と大はしゃぎで頬張っていた。佳奈は照れくさそうにしながらも、嬉しそうに「焼き加減、どうかな?」と家族の反応をメモに書き留めている。
毎朝繰り返されるその光景を眺めているうちに、真奈の胸の奥で、記憶のピースが静かに繋がり始めた。
思えば、家ではいつも、あの妹たちの面倒を見てきた。年子で同じ学年だからこそ、時にぶつかり合うこともあった2人の間に入ってそれぞれの言い分を聴き、仲裁した。学校の宿題で行き詰まって泣きそうになっていれば、隣に座ってわかるまで根気強く教えてあげるのが、長女である真奈の役目だった。
要領が良くて、つい何でも先回りしてサポートしてしまうのは、真奈の癖のようなものだ。妹たちが壁にぶつかったとき、話を聞いたり、ちょっとしたアドバイスをしたり、彼女たちが自分の力で立ち上がるのを、真奈はいつだってすぐ側で見守ってきたのだ。
『ありがと、お姉ちゃん!』
そう言って、問題を解き終えたときや、悩みを解決したときに笑う結奈や佳奈の顔が、次々と脳裏をよぎる。
(……あ。私、あの瞬間がすごく好きなんだ)
雨の通学路の雑踏の中、歩を進めながら、真奈の思考は少しクリアになっていく。
自分自身が主役になって何かを成し遂げることよりも、誰かが悩んでいるときにそっと寄り添うこと。その人が前を向いて、自分の力で一歩を踏み出せるように、後ろから優しく背中を押してあげること。それこそが、真奈の心が一番温かくなる瞬間だったのだ。
特別な才能や、佳奈のようなパン作りの職人技は持っていないかもしれない。けれど、誰かの「頑張りたい」という気持ちを一番近くで支え、その将来を応援することなら、自分は誰よりも心を込めてできるのではないか。
昼休み、真奈は考えながら答えを求めて校内を漂うように歩いていた。
「誰かを支えたい。将来を後押しできるような……」
誰もいない渡り廊下で呟いた言葉が、すとんと胸の腑に落ちた。
学校という場所で、これから未来を選んでいく子供たちに寄り添い、彼らの迷いや成長をすぐ側で支える存在。
(教師――)
頭の中に浮かんだその職業の響きは、一晩中悩んだからこそ、不思議なほど優しく、確かなものとして真奈の心に灯った。
美咲や優子、千夏のように、みんな今まさに人生の選択肢の前に立って悩んでいる。
もし自分が教師になったら、そんな生徒たちの等身大の悩みに耳を傾け、一緒に答えを探してあげられるかもしれない。かつて自分がそうだったように、何もないと焦る誰かの「自分だけの光」を、一緒に見つけてあげられるかもしれない。
それは、器用貧乏だと思っていた真奈が、自分だからこそ目指したいと心から思えた、初めての道だった。
その日の放課後、真奈はまっすぐ家に帰った。
リビングに入ると、昨日と同じようにキッチンから佳奈と結奈の楽しそうな声が聞こえてくる。
「まー姉、おかえり! 今日ね、学校で面白いことがあってさ!」
リビングのソファに鞄を置いた真奈に、結菜が嬉しそうに駆け寄ってくる。その後ろから、佳奈もおたまを持ったままにこにこと視線を送っている。
「うん、あとでじっくり聞かせて」
真奈は2人に向かって、心からの笑顔を返した。
昨日まで胸の奥にあった重苦しい霧は、もう完全に晴れていた。
「今日の夜ご飯、私も手伝うね。料理は苦手だけど、お皿洗いとか、盛り付けなら任せて」
自分の役割を見つけた真奈の足取りは、驚くほど軽かった。鞄の中の調査票に、今日これから書き込むべき未来への思いが、はっきりと頭の中に輝いていた。




