休校か登校か
休校か登校か
「――というわけだから、明日の朝、台風の暴風警報が発令されている場合は自宅待機とする。連絡網でどうなるかは連絡するから、勝手に判断して遊びに出たりしないようにな」
9月中旬の、どんよりとした湿った空気が満ちる放課後。担任の先生がそう告げた瞬間、教室の空気が一変した。
「まじで!?」
「明日休みになるんじゃない?」
「カラオケ行こうよ!」
一斉にガタガタと机と椅子が鳴り、教室内が騒がしくなる。
私はその喧騒の中、隣に座る妹の結菜を横目で盗み見た。
(あ、やっぱり……)
案の定、結菜の口角がこれ以上ないほどにわかりやすく跳ね上がっている。すでに頭の中で「明日の最高の休日プラン」を組み立てているのだろう。
こういうことは、小学校、中学校とこれまでに何度もあった。台風が近づくたびに学校中が色めき立ち、休校の期待に胸を膨らませる。しかし、私の記憶の限り、実際に学校が休みになったことは一度もない。
なぜなら、私たちの住む県は地理的な理由からか、台風がどれほど大きな勢力で向かってきていると報道されていても、夜中に嵐は通り過ぎていたり、ここに到達する頃には不思議と勢力を弱め、ただの「温帯低気圧」へと姿を変えてしまうのが常だったからだ。
その日の夕食時、食卓にはやはり台風の話題が上った。
「明日、学校が休校になるかもしれないんだってさ。でも、この街に台風が来る時って、強いまま直撃したことって全然ないよね」
私が箸を動かしながら切り出すと、向かいに座る真奈が、過去の記憶を遡るように少し視線を斜め上に向けた。
「あー、確かに。台風を理由に休校になったことって一度もないかもしれない」
「そうよねぇ。テレビのニュースで『大型で非常に強い』なんて大騒ぎしていても、ここまで来るとたいてい温帯低気圧に変わっちゃうものよね。日中に台風が来ることも珍しいし」
母が味噌汁の入ったお椀を置きながら、穏やかに、そして冷徹なまでの現実を口にする。
その瞬間、隣でハンバーグを口に運ぼうとしていた結菜の顔から、すべての生気が消え失せた。
「そんなぁ……」
風船から空気が抜けるように、目に見えてしぼんでいく結菜。
「ちょっとくらい強いままで来てくれたっていいじゃん、台風のバカ! なんでいっつも温帯低気圧になっちゃうのさ!」
結菜が地団駄している
「結菜、うるさい。台風に怒ってもしょうがないでしょ。被害が出ないのが一番でしょ」
真奈が呆れたようにたしなめるが、結菜は不満げに唇を尖らせて、ご飯を口に放り込んだ。彼女にとっては、被害の有無よりも「合法的に学校を休めるチャンス」が消えかけていることの方が一大事なのだ。
翌朝、外はどんよりとした灰色の雲に覆われ、激しい雨が窓を叩いていた。風も時折強く吹いている。
朝7時半ごろ。
私はいつも通り制服に着替え、階段を降りる。
いつもは滅多に鳴ることのない、リビングの固定電話がけたたましい音を立てた。
その音に誰よりも早く反応したのは、すでに制服に身を包み、完璧に登校の支度を終えていた真奈だった。真奈は素早く受話器を取り、耳に当てる。
「もしもし森北です。うん、おはよう。……はい、はい――」
リビングの隅で、制服には着替えずパジャマ姿のまま、タオルケットにくるまっていた結菜が顔を上げた。じっと真奈の表情を凝視している。
真奈は何度か相槌を打ち、受話器の向こうの相手に見えないながらも丁寧に頭を下げてから、静かに電話を切った。
「連絡網から。とりあえず、しばらく様子見だって。また追って連絡するってさ」
真奈がそう告げた瞬間、結菜の瞳にギラリと強力な光が宿った。
「よしっ……!!」
一筋の光どころか、満開の御来光でも迎えたかのように口角を限界まで引き上げた結菜は、毛布を跳ね飛ばして立ち上がった。そして、何を血迷ったのか、制服姿の真奈の元へ突進し、その両手をがっしりと掴んだ。
「ちょっと、結菜!?」
真奈の困惑を無視して、結菜は嬉しさのあまりその場でぐるぐると回り始める。手を引かれた真奈も、制服のスカートをなびかせながら一緒に強制的に回される羽目になった。
「まだ休みって決まったわけじゃないからね! 結菜、落ち着きなよ」
私の制止の声も、今の結菜の耳には全く届いていなかった。
その時、私と結菜のスマホにクラスのグループLINEで、同じように様子見らしいと連絡が来た。
結菜はますます休校への期待が高まってソファに飛び込む。
時計の針が8時半を回っても、次の連絡は回ってこなかった。
結菜はまだ寝巻きのままで、リビングのソファに寝転がり、スマホを握りしめていた。画面の向こうでは、同じように自宅待機をしているクラスの友人たちとのグループチャットが、ものすごい速度で流れている。
『やっぱり今日は休みだよね!! この風だし!』
『そうか、なら二度寝しよう。決定。おやすみ』
『えー、ちょっと待ってよ! 家で弟と二人っきりで留守番とかマジで無理なんだけど……』
『暇だし通話しながら勉強しません?』
『えっ、せっかくの休みなのに勉強とか正気!?』
『あはは、相変わらずだなー。勉強は学校が始まってからでよくない?』
結菜は寝転がったまま、素早い手つきでフリック入力を重ねる。
『うちもまだ連絡来ない! でも今日は絶対に休み! 私は信じてる!』
そんなメッセージを送りながら、結菜は何度も何度も画面を更新していた。外の雨は、先ほどより少し小降りになってきているような気がした。
午前9時7分。沈黙を破るように、再びリビングの電話が鳴り響いた。
今度は、キッチンの近くにいた私が受話器を取る。
「はい、森北です。……あ、……はい。……あぁ、やっぱり。はい、わかった。じゃあ、また学校で――」
通話を終え、カチャリと受話器を置く。私の背中に、結菜の、すべてを賭けたような熱い視線が突き刺さるのがわかった。
私はゆっくりと振り返り、リビングにいる一同に向けて、淡々とその「決定事項」を知らせた。
「今来た連絡網。台風が温帯低気圧に変わって、暴風警報も解除されて和らいだから、10時半から3限目の授業を始めます、だって。……やっぱり、こうなるよね」
「やっぱりねぇ。そうなるのよね、私もそうだと思ってた。着替えてて正解だったね」
私の言葉に、真奈が我が意を得たりとばかりにうなずいた。
私と真奈も、髪型まで完璧に整えた制服姿でソファに座っている。最初から、休校は期待していなかった。この台風が「温帯低気圧」という名のただの雨雲に成り下がるであろうと思っていた。だからこそ、いつでも家を出られるように準備を整えていた。
私たちのクラスのグループLINEでも、学校があることが知らされる。みんなががっかりしてるのが文字として流れ続けている。
リビングの中央には、パジャマ姿のまま微動だにせず、真っ白に燃え尽きたように立ち尽くす結菜の姿があった。
私はその哀れな末妹に近づき、できるだけ優しい声で声をかけた。
「ほら、学校だよ。遅刻しちゃうから、早く着替えてきなよ」
その言葉がトリガーとなり、結菜の細い身体が激しく震え出した。
「ひどい……うそだぁぁぁぁぁ――!!」
その叫びに私はビクッとする。両手を天に突き上げ、絶望の叫びをあげる結菜。その姿は、まるで世界の終わりを告げられた悲劇のヒロインのようだった。
「いくら声を上げても、これが現実だから。ほら、10分で支度しな。置いてっちゃうよ」
私はハーフコートを羽織りながら、冷ややかに、しかしクスリと笑いながら急かす。
「温帯低気圧のバカーっ!」
ひとしきりジタバタと床を踏み鳴らした後、結菜は涙目で自室へと猛ダッシュしていった。
外を見ると、雲の切れ間からうっすらと青空が覗き始めていた。やはり、私たちの街の台風は、今回もただの「いつも通りの日常」を連れてきただけだった。




