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とまらない三姉妹の日常  作者: 古咲一和


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父のおかゆ


 朝、午前8時47分。

 私は書斎のデスクでノートパソコンを開き、今日中に処理すべきメールをざっと確認していた。キーボードを叩く音だけが、静かな部屋に響いている。


 いつも日中の家には私ひとりしかいない。

 しかし、今日は末娘の結菜が風邪をひいて寝込んでいる。

 看護師である妻の京子(きょうこ)は、あいにく明日まで泊まりがけの研修で不在だった。


 私はお世辞にも家事や調理が得意なタイプではない。不安だが、苦しんでいる娘を今支えられるのは父である、私しかいない。


 午前10時を過ぎた頃。

 パソコンの画面と格闘しながらも、私の意識の半分は2階に向いていた。資料作成のキリの良いところで席を立つ。


『熱が出たら、まずは脱水を防ぐこと。冷たすぎると胃腸を壊すから、常温のスポーツドリンクを少しずつ飲ませて』


 それは、家を出る前に妻の京子が残していった、看護師らしい的確な指示だった。私はその教えを忠実に守り、キッチンからまだ冷やしていないスポーツドリンクを手に持って、静かに階段を上がる。結菜の部屋の前で立ち止まり、ドアを軽くノックした。


「結菜、入ってもいいか?」


 室内から「う〜ん……」と、言葉にならない呻きのような返答が返ってきた。


 そっとドアを開けると、結菜はベッドの中で身を縮めるようにして眠っていた。

ベッドの下には、飲み干したらしい空のペットボトルが転がっている。


 いつも元気に走り回っている末娘。その顔が赤い。熱と頭痛があるらしい。死んでしまうのじゃないかと、一瞬、馬鹿げた想像をしてしまう。


「ほら、水分補給用のスポーツドリンクを持ってきた。喉が渇く前に、少しずつ飲むといい」


「……ヴガッダ」


 結菜の声はガラガラにしゃがれていた。


「少し、起き上がれるか?」


「フンっ……」


 結菜は短い気合いのような声を出し、重い体を何とか起こした。差し出されたスポーツドリンクを受け取ったが、キャップに指をかけたまま「……がだい。あげて」とボトルを渡してきた。

 今の結菜にはその力さえ残っていないのだろう。私はボトルを受け取り、キャップをひねって開け、再び結菜の手へと渡した。

 結菜はボトルを口元に運び、ちびちびと、いかにも美味しそうにスポーツドリンクを喉に流し込んだ。


「体の具合はどうだ。熱いか、それとも寒いか?」


 喉が潤ってからなのか声が少し良くなる。


「まだ熱い……。頭がガンガンするし、回っでるみたいにグルグルする。でも、氷まくらがあるから少し楽になっでる」


 氷まくらの表面に触れてみる。結菜の熱を吸い取ったせいか、心なしか少し柔らかくなっていたが、まだ冷たさは保たれているようだった。


「氷まくらの予備はあるから、それがぬるくなったら言ってくれ」


「ありがどう、お父さん……」


 結菜が健気に微笑もうとするのが、かえって切なかった。


「うん。汗はかいてないか?」


「まだ、そごまでは……」


「そうか。じゃあ、ゆっくり休んでくれ。私は下に戻って仕事をしているから、何かあったら携帯に連絡してくれ」


「はーい」という小さな返事を聞き届け、私は静かに部屋を後にした。


 1階の書斎に戻る。パソコンに向かい資料作りを再開するが、時折、耳を澄ませた。階段の向こう、2階の部屋から、娘の苦しげな息遣いが聞こえてくるような気がして、どうしても心が落ち着かなかった。


 時計の針が12時を回ろうとしていた。

 お昼をどうするか。自分の腹を満たすだけなら、適当なレトルトやカップ麺で済ませられるが、病人の結菜にそんなものを食べさせるわけにはいかない。京子にアドバイスをもらいたいところだが、研修中だろう……頼れない。


 風邪にはやっぱりお粥がいいだろう。

 台所に立ち、冷蔵庫を開けて腕を組んだ。京子なら、出汁を取って、お米からじっくりとコトコト時間をかけて、滋味(じみ)深いおかゆを作るのだろう。だが、私にはそんな高度な調理技術もなければ、仕事の合間にそこまでの時間をかける余裕もなかった。


「簡単なもの……いや、簡単な方法で作るしかない」


 私は少し深めの、大きめのお茶碗を取り出した。そこに、炊飯器からご飯をふんわりと盛る。次に、電気ポットの沸騰ボタンを押し、お湯が沸くのを待った。


 ご飯の上にお湯を注ぐ。スプーンでご飯を軽くほぐし、お湯の中で米粒が泳ぐようにする。そこに、味噌をほんの少しだけ落とし、お湯に溶かした。

 仕上げに、卵を一個取り出して小鉢で素早く溶く。それを、熱いお湯が注がれたお茶碗の中に、円を描くようにして流し込んだ。

 箸で優しく全体を混ぜ合わせると、熱で卵がふわっと黄色く固まり「卵入り味噌おかゆ」が完成した。


 見た目は決して洗練されているとは言えない。京子が見たら「なんて雑な作り方をして」と呆れるかもしれない。だが、水分も、塩分も、卵の栄養もこれ一杯で取れる。


「こんなもんだろ。今の私にできるのこれが精一杯」


 自分に言い聞かせるように呟き、私はお茶碗と水をお盆に乗せて、再び階段を上がった。結菜の部屋のドアをノックする。


「結菜、お昼だ。少しだけでも、食べられそうか?」


「うん……お腹はちょっと空いた。食べる」


 私はベッドの脇に腰掛け、お盆を差し出した。結菜は少し驚いたような顔をしたが、温かい湯気が立ち上るお茶碗を受け取ると、スプーンで少しずつおかゆをすくい、ふうふうと息を吹きかけて口に運んだ。

 私は、娘がそれを食べているのを、じっと見守った。味が薄いと言われないか、不味いと残されないか、緊張していた。


「……美味しい」


 結菜がぽつりと言った。


「あったかい。味噌の味がほんのりがして、落ち着く」


「ならよかった。無理して全部食べなくていい、食べられる分だけ食べてくれ」


 結菜はゆっくりと、スプーンを動かし続けた。最終的に、綺麗に平らげてくれた。その様子を見て、私は胸の奥の支えがすっと取れるような安堵感を覚えた。


 おかゆを食べ終えると、結菜の額から、じわじわと大粒の汗が滲み出てきた。首筋や背中にも、汗で衣類がぴったりと貼りついている気配がある。熱が下がり始めた証拠だ。


「よし、汗が出てきたな。そのままにしていると体が冷えて、また風邪が悪化する。着てるものを全部着替えるんだ。ここにタオルを置いておくからこれで汗を拭いてくれ」


 私は清潔なバスタオルをベッド脇に置いた。

 結菜は小さくうなずき、私は部屋の外へ一歩出て、その様子を見守った。


 明日になれば、研修を終えた京子が帰ってくる。帰ってきたら、今日の出来事をすべてありのままに報告しよう。京子のことだ、「スポーツドリンクはもっとこうすべきだった」とか、「おかゆの手順が手抜きすぎる」とか、色々と足りない部分を指摘してくるかもしれない。

 だが、今はこれでいいのだ。完璧ではなくても、不器用であっても、私が今できる限りの手は尽くしている。


 結菜が新しいパジャマに着替え終わるのを確認し、布団をかけ直してやると、彼女は満足そうに、先ほどよりもいくらか穏やかな寝息を立て始めた。私はそっと部屋を出た。


 午後4時を過ぎた頃。

 静まり返っていた家に、突如として賑やかな音が入ってくる。自転車のブレーキ音、スタンドを立てる音。続いて、バタバタと賑やかな2つの足音が聞こえてくる。

 長女と次女が学校から帰ってきた。


「ただいま」


「お帰り」


 私はパソコンの手を止め、書斎から出てめずらしく廊下で2人を迎えた。


「お父さん、結菜の様子はどう」


 佳奈が聞いてくる。


「お昼を食べてからはだいぶ良くなっていると思う」


「どのくらい良くなったの? 熱は? 病院は?」


 真奈の口調や、どこか冷静に状況を把握しようとする姿勢は、母親である京子の看護師としての血を、引き継いでいるように見えた。その頼もしい姿を見て、私は心のどこかで張り詰めていた糸が、少しだけ緩むのを感じた。この娘たちがいれば、もう大丈夫、きちんと結菜の面倒を見てくれるだろう。


「常温のスポーツドリンクを飲ませて、昼におかゆを作って食べさせた。それでなのか汗をたくさんかいたから、汗を拭いて、着替えるように言って、今は落ち着いて眠ってるよ」


 私の説明を聞いていた佳奈が、ぽつりと呟いた。


「お父さんが……おかゆ作ったの?」


 その声には、明らかな驚きと、意外そうなニュアンスが含まれていた。普段、台所に立つ姿をほとんど見せない父親が、妹のためにおかゆを作ったという事実が、真奈と佳奈には新鮮だったらしい。


 私は娘たちの表情を見て、すべてを理解した。

 娘たちは、私が結菜のために慣れない手つきで奔走したことを、ちゃんと理解し、認めてくれたのだ。料理が不完全であっても、やり方が不器用であっても、不在の母親の知識を必死に思い出しながら、妹のために最善を尽くそうとした父親の姿を、彼女たちはちゃんと見てくれていた。


「……わかりました。ここからは、私たちで様子を見ます。お父さんはお仕事に戻ってください」


 真奈がしっかりとした口調でそう言った。

 佳奈はうんうんとうなずいた。


「ああ、頼んだよ」


 私はうなずき、真奈と佳奈に後を任せることにした。

 2階の結菜の部屋へと階段を上がっていく、2人の後ろ姿を私は見送った。

 その背中を見つめながら、私はふと思った。

 風邪をひくというのも、家族にとっては悪い経験ばかりではないのかもしれない。母親がいなくて心細いときでも、ここには父親がいる。不器用で、大した料理は作れなくても、父親なりにできることはあるのだと、子供たちに示せたのかもしれない。


 階段の向こう側、2階の廊下から、真奈の優しく落ち着いた声が聞こえてきた。


「結菜、大丈夫? お水飲む?」


 それに対して、結菜が小さく「うん……」と甘えるように答える声が響く。


 私は自分の書斎に戻り、ふすまを閉めた。画面に向かい、出来上がった資料を確認する。

 しかし、私の心は、三姉妹の温かい空気が流れているであろう、2階の部屋へと向けられたままだった。


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