終わる日常と始まる日常
終わる日常と始まる日常
夏休み最後の夜、結菜が夏の課題を目の前にした時と同じようにまた絶望していた。
夏の課題は全部終わっている。何も問題はない。しかし、自由がなくなるのを嘆いていた。
結菜は佳奈の部屋でベッドに座っていた。
提出物を確認しながらリュックに詰め込んでいる佳奈に話しかける。
「どう思う、佳奈ちゃん」
「どうって、今日が夏休みの最終日ってこと?」
「そう。もう後2時間くらいで私の夏休み終わっちゃう」
「そう言われると名残惜しいかも」
「そうでしょ」
「でも学校が始まったらちょっと束縛感はあるけど、私には楽しみにしてることがあるから待ち遠しいけど」
「それってなに」
「休み明けの実力テスト」
「相変わらずだね、佳奈ちゃん」
「それに向けて夏休みの課題を計画的にしてきたでしょ」
「そうだけど。はぁ……でも学校のある生活に慣れていくんだよね」
「きっとみんな元の日常に慣れていくんだと思うよ」
「……そっか。……みんな、そうなんだ」
窓の外は夏の夜が深くなっていて、街灯だけが点々と光っている。明日からの学校生活を思うと、胸がぎゅっと縮まるような感覚があった。だが佳奈の言葉を聞いていると、それは誰もが感じるものなんだと少し楽になる。
「結菜」
真奈が廊下から声をかけてきた。
「なに」
「明日の朝、寝坊しないでね」
「大丈夫だよ。目覚ましセットしてある」
「そっか。きちんとしてるね」
やはり姉は完璧主義者だ。けれど結菜は思う。真奈だって、学校が始まる前夜は同じような気持ちになるのだろう、ということを。
「まー姉だって明日からの日常にドキドキしてるんじゃないの」
「そんなことはないけど……。でも気持ちはわかるよ。久しぶりの学校が始まるのって、やっぱり少し緊張するもんね」
「結菜、ちょっとごめん、そこに寝かせて」
と佳奈は結菜を避けながらベッドに横になる。佳奈は寝ながら教科書を読み込んでいる。休み明けのテストに向けて暗記科目を頭に入れているようだった。
結菜は佳奈のベッドから立ち、自分のエリアに入り、仕切りのカーテンを閉めた。
結菜は深く息を吐いた。学校が始まったら、また毎日同じルーティンが始まる。登校、授業、放課後。帰宅部だから部活もない。淡々とした日々が続いていく。
窓の向こうで、風が樹を揺らした。夏も終わりに近づいている。秋が近い。季節は確実に動いている。結菜は自分たちも少しずつ変わっていくんだろうと、ベッドで天井をなんとなく眺めながら思案する。
結菜の部屋の明かりがドアの下から廊下に漏れていた。
「結菜、早く寝た方がいいよ。明日は大変だからね」
真奈が優しく言う。
「わかってる」
真奈は結菜の部屋に入って、結菜の頭をぽんぽんと撫でた。結菜が「ちょっと」と言ったが、嫌がっていない。
明日からの学校生活も、こういう日常の繰り返しなんだろう。つまらないと思っていたことが、実はそこに自分たちの時間が詰まっているんだと気づく。
___
朝、結菜は急に目が覚めた。夢を見ていた。楽しい夢だったはずだが、ひとかけらも思い出せない。スマホで時間を確認すると5時頃だった。結菜は布団の中で少しの間ぼんやりしていた。起きるべきか寝直すべきか、選択を迫られる。
今日は始業式で授業はない。それなら朝のいつもの時間までスマホで時間を潰すのもいいかなと思う結菜。スマホに手を伸ばしゲームアプリをタッチする。半目ながらも1日の周回クエストを軽く回してゲームアプリを閉じると、スマホの時計は6時頃になっていた。
結菜は寝ぼけた頭で身体を起こした。カーテンの向こうはもう眠りから覚め、すっかり朝になっていた。
1階から真奈の声が聞こえてきた。もう起きているのか。いつもより早い気がする。でも学校が始まる日は誰もが少し早めに起きるものだろう。
洗面所で顔を洗うと、目の中の夏の疲れが少しだけ落ちた。鏡に映る自分の顔は、昨日と変わっていない。でも何かが違う。夏休みの間に、自分たちは何かを置いてきたのだ。自由という名の、どこまでも広がっていた時間を。海外みたいに2ヶ月くらい夏休みが続いてくれればいいのにと叶いもしない理想が思い浮かぶ。
キッチンでは母が朝食の準備をしていた。珍しく真奈が台所の隅で目玉焼きの焼き加減を見守っている。
監督者がいる中で目玉焼きを焼くのが許可されたようだ。それ以外はいつも通りだった。
「おはよう」
「あ、起きてきた。ちょうどいいタイミングね」
母は笑顔で結菜に声をかけた。
「朝ご飯、できてるわよ」
テーブルには、味噌汁、プチトマト、そして佳奈が焼いたパンが置かれていた。夏休み中は朝食の時間がばらばらだったから、こうして家族が揃う朝食は久しぶりだ。
佳奈は既にテーブルに座っていて、ご飯をかき込んでいた。朝食を食べながらも、机の上には参考書が置いてある。
「佳奈ちゃん、朝から勉強?」
「朝だと頭が冴えてる時間だからね」
「なるほどね。勉強好きなの」
佳奈にちょっと尋ねてみる。
「好きではないよ、だから勉強してる」
結菜はご飯をよそった。少しだけ少なめ。
真奈が目玉焼きを皿に盛った。昨日の不安そうな顔は消えていて、いつもの完璧主義者の表情に戻っていた。だが朝日の中で見ると、その横顔はどこか少し緊張しているように見えた。
結菜の意識は、まだ眠く、自分の部屋のベッドに思いを惹かれていた。
「結菜、ちゃんと食べないと、授業中に集中できなくなるよ」
佳奈が口を出す。
「わかってる。でも今日授業ないから」
「そっかそっか、なら糖質はそんなに取らなくていいかな」
と言いながら佳奈は自分で焼いたパンを口に運んでいた。
在宅ワークの父はいつも通りで、昨日の新聞を広げてクロスワードを見下ろしていた。昨日も「海を渡る鳥、5文字」という質問を家族に投げかけていたが、一瞬でそれに答えを出したのは真奈だった。
今朝も同じように、新聞から顔を上げて、「なあ、『鎌倉時代の武家政治』、4文字なんだが知ってるか?」と聞いてきた。
「お父さん、朝から?」
「ん?ああ、もう少しで完成するんだ」
学校は午前中で終わるし、帰ってくるまで1人で考えててと佳奈に言われる父。
そうか、と父はそう言いながら、また新聞に顔を埋めた。
朝食の時間は静かに進んでいった。窓の外には朝日が差していて、昨夜の絶望感はどこにもなく、消え去っていた。
7時50分。結菜はスプーンを置き、ご飯を食べ終わった。
「ごちそうさま」
「もう?」
「学校までの時間、確認したいし」
「理論上、ここから学校までは自転車でいつもだいたい13分くらいで着くから、8時頃に出れば十分に間に合う」
真奈が横から口を出した。
「真奈、数字で何もかも説明しなくていいのよ」
母が苦笑いで言ったが、真奈は「理論上が一番わかりやすいと思うんですけど」と答えた。
結菜はそんなやり取りを聞きながら、リュックを最終確認していた。上履き、筆記用具。あとは提出物だ。
「結菜、久しぶりの学校だから、疲れるだろうけど頑張ろ」
そう言う佳奈の顔は、夏休み最後の夜と違っていた。覚悟が決まっていた。
真奈と佳奈は制服に着替え終わっており、既に登校の準備を終えていた。玄関で靴を履く姿を見ると、やはり昨夜の緊張感が少しあった。だが、その目は前を向いている。
「じゃあ、行きましょうか」
「待って真奈。結菜がまだ制服に着替えてない」
「ちょっと待ってて。すぐ着替えるから」
結菜は走って階段を駆け上がり、部屋のドアを勢いよく開ける。部屋着を脱ぎベッドの上に投げ置き、壁に掛かった制服を手に取る。
制服に袖を通すと、夏休みの残り香で弛みきった日常が、真っ直ぐに矯正されていく気がした。
結菜は急いで階段を降り玄関に向かい、自分の靴を履いた。
「「「行ってきます」」」
三人の声が重なる。
「いってらっしゃい」
母の声が家から聞こえた。
朝の静かな道路に三姉妹が並んで立った。自転車に乗る前に、結菜は振り返った。家の中では父がまだクロスワードを解いているのだろう。
自転車のペダルを漕ぎ始めると、朝の空気が肌に当たった。夏の終わりに近い朝は、こんなに涼しいのか。季節が本当に変わろうとしている。
真奈の自転車が先頭を行く。佳奈はその後ろ。結菜は最後だ。
曲がり角で、結菜は一度だけ家の方を見た。でも、もう家は見えなかった。
学校へ向かう三姉妹の自転車は、朝日の中をまっすぐ走り続けた。




