夜空を照らす光と広がる鼓動
8月も終わりに近い土曜日の夜。佳奈は浴衣に着替えた結菜の後ろ姿を見ながら、自分たちが計画していた花火大会のことを思い出していた。
2週間前、ラインで綾田永叶が「花火一緒に行きませんか」と提案したのが始まりだ。森北三姉妹は、理恵の姉、大学ニ年の永叶に実際に会うのは今日が初めてだ。
「結菜、帯のところちょっと浮いてない?」
佳奈が指摘すると、結菜はくるりと振り返った。浴衣の帯を直そうとして、でも結局うまく直らず、ため息をついた。
「いいよ、こんなもん」
相変わらず大雑把だった。佳奈は緩んだ帯を直す。真奈は、浴衣を着ていない。理由は単純で下駄で長距離歩きたくないの一言だった。佳奈も浴衣を着ていない、暑いし動きにくいからだ。
集合場所は公園。佳奈たちが着いた時、綾田姉妹はすでに待っていた。
長女の永叶は、凛とした理恵よりもさらに涼しい顔立ちをしていた。グレーにネイビーのストライプの浴衣に身を包み、髪を半分アップにしている。
理恵は意外にもTシャツに短パンというカジュアルな格好だ。そしてリュックを背負っている。
横に立つ中学一年生の鈴香は、赤い浴衣姿で、すでにそわそわしている。
「こんばんは」
永叶が挨拶した。声は低めで、落ち着いている。
「あ、永叶さん。こんばんは、はじめまして森北です」
佳奈は丁寧に頭を下げた。永叶の表情は柔らかく、佳奈の緊張を簡単に解いてくれた。
「こんばんは、えーと」
理恵がフォローする。
「今話してるのが佳奈、浴衣なのが結菜、ちょっと背が高いのが真奈さん」
そう言って、永叶は結菜に目を向けた。
「浴衣を似合ってますよ結菜さん。可愛い」
結菜は照れくさそうに顔を背けた。真奈はというと、永叶を見上げて、少し感心したような表情を浮かべている。
「そっちも紹介してよ理恵」
「見ればわかるでしょ、佳奈。……ストライプの浴衣を着てるのが長女の永叶。そしてこのチ……」
理恵は家でいつも読んでいるあだ名が出そうになって止まった。
「ちょっとお姉ちゃん……」
鈴香は理恵以外には誰にも表情を見せない角度で理恵をにらむ。理恵が鈴香の肩に手を置く。
「ごめん。この子が三女の鈴香」
「よろしくお願いします」
と鈴香は礼をする。
「では、行きましょう」
永叶が先頭に立って歩き始めた。後ろから、鈴香が真奈に話しかけている。
「真奈さんはなんで浴衣着なかったんですか?」
「会場までの道中浴衣で下駄はちょっとね、疲れる」
「え、もったいない」
「何が入ってるのそれ」
佳奈がリュックを見ながら理恵に言う。
「まあ、色々と。ブルーシート、虫除けスプレーにトイレットペーパー。寒くなった時のための防寒具とか」
「そないあればってやつだね」
そっ、と理恵はうなずく。
花火大会の会場は、河川敷だ。既に多くの人出がある。永叶が周囲の人ごみを避けた、少し奥まった場所を選んだ。
「ここで、いいかな」
「いいね」と理恵。
2列に並んで、空を見上げる。まだ空は夜空ではなかったが、最初の花火が上がった。
ドン、と低い音が鳴り響き、夜空に大輪が咲く。黄色い光が、みんなの顔を照らした。
「あ、きれい」
鈴香が歓声を上げた。理恵は静かに、花火を見つめている。結菜は口を少し開いて、うっとりした表情だ。真奈は、点数をつけるが如く真剣な目つきで見上げている。
佳奈は、隣の永叶を盗み見た。永叶の顔には、微かな笑顔が浮かんでいた。
「いいですね」
永叶が呟いた。
「本当。毎年、この瞬間が好き」
二発目、三発目と、花火が上がり続ける。赤い光、青い光、緑の光。色が変わっていく花火。
そして大きな花火が上がった。
ドドドン——と、低い音が響き、胸の鼓動が揺らぐ。夜空に大輪が咲く、その後に衝撃波が身体を貫く。息をしていても、その息さえもが花火の衝撃に飲み込まれていく。
鈴香は身を寄せた。理恵は、そんな妹にちょっかいを出すかのように肩をぶつけた。
「あ、ちょっとお姉ちゃん!」
鈴香が文句を言ったけれど、笑っている。
佳奈は、隣の真奈に目を向けた。真奈は真剣な面持ちのままだが、その身体は、わずかに震えている。
「大丈夫? 雷みたいな衝撃波、平気?」
佳奈が聞いた。真奈はちょっと驚いた表情をしたけれど、すぐに顔を空に向け直した。
「雷は苦手だけど。これは、毎年のことだから。慣れた」
そう呟いた。
「雷は慣れないのに」
佳奈がいじった。
「そういうわけだ」
真奈が返した。素っ気ない答えだ。
ドドドドドン——と、複数の花火が同時に上がった。夜空いっぱいに色が広がり、その音が、佳奈たちのやりとりをすべてかき消した。会場全体が揺れるような、圧倒的な衝撃。
真奈の素っ気ない返答すら、この花火の前では意味をなさない。ただ、その光と音と衝撃だけが、世界のすべてになった。
佳奈は、自分たちの家族との違いを感じた。真奈は素っ気ないし、結菜は単純だし、自分も——佳奈は常に、周囲を気にして、何かを調整している。でも綾田家の三姉妹は、違うバランスで成り立っているみたいだ。
「佳奈さん」
突然、永叶に話しかけられた。
「え?」
「理恵から、聞きました。佳奈さんが、いつもみんなの世話を焼いてるって」
佳奈は、どう返すべきか迷った。
「そんなことは……」
「大変ですね。でも、いいと思いますよ。大事なことだと思います」
永叶はそう言った。
佳奈は、何か胸の中に引っかかるものを感じた。良い意味で。
花火は、次々と上がっていく。やがて最高潮を迎えた。
夜空いっぱいに、複数の大輪が同時に咲き誇る。音も光も、圧倒的だった。周囲は拍手の音で満ちていた。
「綺麗だったね、鈴香」
うん、と鈴香は理恵に身を寄せ、結菜は声も出さずに見つめている。真奈でさえ、微かに目を大きくしている。
永叶は、その光の中で、微かに笑っていた。
そしてそれが終わると、数秒の間を置いて、最後の数発が上がる。佳奈は気付いていた。この後、会場は大混雑になるだろう。
「帰り混むね」
結菜が呟いた。
「そうですね。今のうちに会場からは出ますか」
永叶が言った。
「どこか、寄りませんか?」
真奈が提案した。
「それはいいですね。どこに行きますか?」
「我が家はどうですか?」
真奈が言った。
「ベランダから、花火が見えますよ」
佳奈がそう返すと、みんな頷いた。
「それいいですね。混雑も避けられるし」
永叶が言った。
「車で来ているので、真奈さん道案内お願いできますか?」
「え、私?」
真奈は少し驚いたけれど、すぐにうなずいた。
「わかりました」
駐車したところが少し遠く、そこに行くのが永叶と真奈、森北家に徒歩で直接行くのは佳奈、結菜、理恵、鈴香の4人だった。
道中、鈴香が腕をさすっているのを見て、理恵がリュックからフリース出す。
「寒いんでしょ」
それを鈴香の肩にかけた。
「ありがとう。お姉ちゃん」
「ん」と短く答える理恵。
⸻
永叶の車は、黒い軽自動車だった。真奈が助手席に座り、道案内を始めた。「右」「左」と、淡々と指示を出す。永叶は、その指示に従いながら、静かに運転した。
コンビニに寄った。飲み物とお菓子、唐揚げやおにぎりなどを買い込んだ。真奈は、無表情のままコーヒーを選んで迷ったけれど、やめた。
やがて、6人が森北家にほぼ同じくして着いた。
家では父と母がお酒を飲みながらテレビで花火大会を見ていた。
「ベランダ、こっちです」
佳奈が皆を連れていく。2階ベランダから、夜空を見ると、まだ花火が上がっている。
「あ、見える」
鈴香が声を上げた。
永叶は、スマートフォンからラジオのアプリを起動した。
「ラジオ流します。花火大会の放送をしてるはずです」
パーソナリティの声が、スピーカーから聞こえてきた。
その声の中で、ベランダから花火を見ると、不思議な雰囲気が生まれた。まるで、花火大会の会場にいるように、今は家にいる。その二つの世界が、重なって見えた。
ラジオの声が途切れると、次の瞬間、花火が上がる。その衝撃が、微かだが、ベランダを揺らした。音もした。距離はあるけれど、確実に伝わってくる。
「あ、来た」
結菜が呟いた。
また花火が上がり、また衝撃が伝わる。全体像を観れるのが新鮮だった。河川敷で見るのとは、違う体験。
鈴香は、興奮を抑えきれず、ラジオのボリュームを上げる。理恵が、それを見てちょっかいを出そうとするけれど、ここではあまり動く余裕がない。
「家だからトイレがあるから安心だね」
結菜が、ふとそう呟いた。
「そっか。そういえば、花火大会にいる時は、トイレが大変だし」
佳奈が返す。
「ほんと。ここなら、好きな時に行けるし」
永叶も、そう言った。
本当に、そういう小さなことが、家に来ることの良さなんだと思った。混雑を避けられて、トイレもある。そして何より、ベランダから花火が見える。
8月の夜、花火の衝撃。ラジオの声。誰かの笑い声。トイレがあるという、当たり前の安心。
6人は、その時間の中に、ゆっくり身を浸していた。
花火が終わると、ラジオは別の番組に切り替わった。ベランダからは、もう花火は見えなかった。でも、遠くから、微かに火薬の匂いが漂ってきた。きっと今頃ライトやペンライトで、対岸では誘導灯が振られているんだろうなと佳奈は思った。
「良かったですね」
永叶が呟いた。
「本当」
結菜が、そう返した。
「また来年も、こんな感じで来ましょう」
永叶が言った。
「え、来年も?」
「はい。この感じ、いいですね。来年も」
永叶は、当たり前のように言った。
佳奈は、その言葉が嬉しかった。永叶がそう言ってくれることで、この夜が、一回きりのものじゃなくなった。来年もあるんだ。その時も、こうして一緒にいるんだ。そう思わせてくれた。
「そうだね」
真奈が、珍しく同意した。
「来年もまた花火見ましょう」
佳奈も、そう言った。
永叶は、微かに笑った。その表情は、ずっと変わらない落ち着きの中にも、本当の柔らかさが見えた気がした。
8月の終わりの夜。火薬の匂いがまだ残る中で、6人は、来年のことを約束した。新しい出会い。予定していた通りに、でも予定していなかったことを超えた約束ができた。




