真奈のお泊まり 〜映画の後で〜
真奈と優子は美咲の部屋ににリュックなどの荷物を置く。そして3人で映画館のあるショッピングモールまで5分ほど歩いた。それくらいならまだ暑さを我慢できた。
映画館は、午後の光が柔らかく差し込む時間帯だった。
スクリーンの中では、進学を機に上京した女性と、駅前の喫茶店で働く男性の物語が静かに展開していく。
セリフが少なく、二人が一緒にいる時間の描写が長い映画。
並んで歩く街並み。黙って座る喫茶店の奥の席。
手が触れるか触れないかくらいの、もどかしい距離感。
中盤、二人の関係は深まっていく。
だが、転機は後半に訪れた。男性は進行性の重い病気を抱えていたのだ。
女性がその真実を知った時、二人の関係には「時間の有限性」が残酷に浮かび上がる。
雨の夜、駅前の踏切。
男性は「この町から出て、新しい人生を歩け」と必死な声で告げる。
対する女性は、絞り出すような声で「嫌」と答えた。
「あなたがいないなら、どこにいても同じ」
男性は彼女をそっと抱きしめる。その抱擁は、別れの予感に満ちていた。
真奈の頬を一筋の涙が伝い、隣の優子もすでに目を赤くしている。
美咲は、じっとスクリーンを見つめていた。瞳は潤んでいたが、唇を固く結び、涙を流すまいと画面を凝視し続けている。
エンドロール直前。
女性は、かつて出会ったあの喫茶店にいた。
男性はもう、どこにもいない。
しかし、カウンターには彼女を待つかのように、一つのコーヒーカップが置かれていた――。
真奈は両手で顔を覆い、肩を小さく震わせる。
優子もハンカチをぎゅっと握りしめていた。
美咲は、最後までスクリーンを見ていた。彼女の目からもついに涙が溢れたが、それを拭おうとはしない。映画の最後の瞬間まで、その物語を一つも逃さないために。
エンドロールが上がり、照明が戻る。
真奈はまだ顔を上げられず、優子が鼻をかむ音が聞こえた。
美咲は、ようやく目元を軽く拭った。
⸻
映画館を出た3人は、しばらく無言で歩いた。
午後の陽光の下では、赤くなった目が余計に目立つ。真奈と優子は、目元を隠すように、大きめのサングラスをかける。美咲は相変わらず落ち着いた顔をしていたが、口元にはわずかな強張りが残っていた。
3人は美咲の家に向かった。
リビングに着いたのは、夕方の4時過ぎ。
美咲がお茶を淹れてくるまで、真奈と優子はソファに座ったまま、ほとんど動けずにいた。
「あの映画、ひどくない……?」
優子が、かすれた声で切り出した。
「ひどい?」
紅茶を運び、ソファの反対側に座った美咲が聞き返す。
「だって、男の人、死ぬんだよ。もう会えないってわかってるのに、別れなきゃいけないなんて……」
優子の声が再び揺らぐ。真奈も黙ったまま、カップを持つ手を震わせていた。
「二人とも望んでた恋愛が、時間がないことで奪われるのが、ひどいよ。あの女の人、これからどうやって生きるの?」
美咲はカップを口に運び、少し考える素振りを見せた。
「……生きると思う。あの喫茶店のコーヒーを飲みながら」
「え?」
「あのラストシーン、コーヒーカップが置いてあったでしょ。あの女の人は、多分ずっとあの喫茶店に来るんだよ。そこで彼が生きてた時間を思い出す。それが、彼女の『生き方』になるんだと思う」
真奈が、ゆっくりと美咲の方を見た。
「だから……死ぬほどひどいわけじゃない。ひどいけど、そこに物語がある。映画って、そういうもんでしょ。どうしようもない状況で、人間がどうするか。どう考えるか。そこを見るものだから」
美咲は、少し言いづらそうに続けた。
「美咲だって泣きそうだったじゃん、最後」
優子がハンカチで目を拭きながら指摘する。
「泣きそうだった」
美咲は素直に認めた。
「でも、泣いたら映画を見失うと思った。映画の全部を、ちゃんと見たかったから」
真奈はその言葉をじっと受け止めた。
美咲が涙を堪えていたのは、感動を拒んでいたからではない。むしろ逆だ。感情に溺れず、まっすぐに物語を受け取るためだったのだ。
「そっか……」
優子がようやく落ち着きを取り戻す。
「あの映画、もう一回見たい気がする。大人になって、もっと違う見方ができるようになったら」
真奈は窓の外を眺めた。太陽が傾き、夕焼けが始まろうとしている。
「あの男の人が病気だって知ったとき、彼女、すごい目で見てたよね。『なんで黙ってたの』って」
「そうそう」と優子が頷く。
「でも、最後には彼の気持ちを理解した。彼は、彼女の人生を奪いたくなかったんだと思う」
真奈の声はまだ少し掠れていた。
「時間がなくても、選ぶことができる。その選択こそが、あの映画の全部だったんだね」
リビングがオレンジ色に染まっていく。
「見ちゃったね、先に……。このままじゃ勉強なんて手につかないよ」
真奈がぽつりと呟く。
美咲は窓の外を見つめたまま言った。
「精神的ダメージもらっちゃったし、勉強は明日からにしよっか」
その提案に、2人は深くうなずいた。
⸻
美咲の部屋は、思ったよりも広かった。
窓辺の観葉植物。本棚を埋め尽くす映画と本の数々。
ベッドの横に布団が敷かれ、3人はそこに横たわった。
「ねえ、あの映画、実話じゃないよね?」
暗闇の中、優子が唐突に尋ねる。まだ映画の話は続く。
「知らないけど、ああいう話は世の中にいっぱいあるものだと思う」
「あの女の人、本当に可哀想……二人とも可哀想だよ」
「そだね」
静寂が訪れる。しかし、それは心地よい静寂だった。
映画の余韻が、3人をごく自然に包み込んでいる。
「でも」と、真奈が小さな声で言った。
優子が、真奈の方を見た。だが、真奈は相変わらず天井を見ている。
「あの女の人、一人じゃなくなったんだと思う。彼と過ごした時間は、彼が死んでもなくならない。喫茶店に行くたびに、彼が彼女の中で生き続ける。だから、人生を奪われたんじゃなくて、彼との時間によって、彼女の人生が形作られていくんだと思う」
美咲がベッドから真奈の顔を覗き込む。
「深い……」と優子が呟いた。
真奈は、ようやく顔を横に向けて、優子を見た。その顔は、まだ映画の影響を受けている。目がどこか遠くを見ている。
「明日は、勉強頑張ろう」
美咲が、あえて日常へと引き戻すような言葉を投げかけた。
「そうだね」
部屋の灯りが消され、3人は寝息を立てるまで、静かに闇の中にいた。
⸻
朝日がカーテンを透して差し込み、5時半に美咲が目覚めた。
彼女は音を立てず、無駄のない動作で洗面台へ向かう。
6時過ぎに優子がぼんやりと天井を見つめ始め、7時近くに真奈が起き上がった。
真奈が布団をたたみ始めると、その音で優子もようやく覚醒する。
「朝、早いですね……」
「いつも通りだよ」
3人がリビングに下りると、美咲はすでに朝食の準備を整えていた。
トーストの香りと、スライスされた果物。
そこへ、美咲の一歳年下の妹・明日香が気だるげに現れた。
「あ、先輩たち起きた。おはよう。朝食おいしそー」
明日香はスマートフォンを置き、身を乗り出す。
「昨日映画行ったんでしょ。どんなやつ?」
天真爛漫な明日香の問いに、真奈は苦笑いした。
「また今度教えるね」
「えー、今教えてよ!」
せがむ明日香を、美咲が「朝食に専念しな」とさらりと制する。
食事を終え、リビングのテーブルには英語の課題が並べられた。
真奈は一文一文を丁寧に読み、優子は辞書を片手にメモを取る。美咲は設問から効率的に解き進めていく。
「これ、どういう意味?」
真奈が英文を指差すと、美咲が即座に答えた。
「『despite』だから『~にもかかわらず』。忙しいスケジュールにもかかわらず、って意味だね。この文型はよく出るから覚えておくといいよ」
「あ、そっか」
真奈は素直にノートへ書き込んでいく。
午前中の2時間で、長文を5つ。進捗は上々だが、真奈の顔には少し疲労が見え始めていた。
「昼ご飯にしようか」
昼食は、薬味が揃った冷たいうどんだった。
「わ、いいですね」と優子が目を輝かせ、真奈も「おいしい」と短く漏らす。
「午後は1時半から3時まで勉強。休憩を入れて、4時からまた2時間」
美咲が淡々とスケジュールを告げる。
「夜は何にします?」
「お好み焼きはどう? ホットプレートでさ」
美咲の提案に、優子が真っ先に乗った。
「私、料理苦手なんですけど……」
真奈が少し引くと、美咲と優子の声が重なった。
「「知ってる」」
「キャベツ切ってくれたらいいよ。真奈は包丁上手だって、佳奈ちゃんたちも言ってたし」
美咲の言葉に、真奈の表情が少し和らぐ。
「切るだけなら大丈夫です。焼くのは?」
「私が焼くから。優子はネタの準備ね」
「了解」
こうして、3人の午後の予定が決まった。
窓の外では、柔らかな昼下がりの時間が流れている。
⸻
午後3時過ぎ
3人は、リビングから散り散りになった。
優子は、ソファに身を投げ出した。天井を見つめたまま、何もしない。ぼんやりしている。
真奈は、テーブルに付いたまま、課題に付箋を貼り、そのまま目を閉じた。
美咲は「ちょっと、真奈」と呼びかける。
真奈は目をゆっくりと開く。
「さっきの英語の長文で、『despite』のくだり。あれ、簡単に見えて、実は難しいんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「『despite』と『although』の使い分けとか、前置詞と接続詞の違いとか、そういうレベルで考えると、結構複雑」美咲が続ける。
「だから、真奈が引っかかったのは、珍しいことじゃない」
真奈は、その説明を聞きながら、うなずいた。
「あ、そっか。接続詞か前置詞か、意識してなかった」
「そういうのは、量こなすと、感覚で分かるようになる」美咲が言う。
時間は進む。3時45分。
「そろそろ、再開しようか」美咲が言った。
再開された勉強は、午前中より疲れが色濃く出ていた。
真奈は、何度も目をこすった。優子は、背中がより丸くなっている。美咲も、流石に疲労の色が見える。
だが、3人とも、黙々と問題に向かっていた。
5時半近く、真奈が「あ、あと少しで6時になるよ」
「そっか」美咲が言う。「私はあと5問くらいで終わろう」
3人は、最後の集中力を絞った。
午後6時。
「終わり」美咲が言った。




