うつろいゆく夏の空
「海がいい。あの開放感、夏って感じでしょ」
結菜が、リビングのソファに深く腰掛けながら、キラキラした瞳で宣言した。
「私は湖がいい。海より静かだし、穏やかな景色を眺めたい」
佳奈は、お気に入りの雑誌から目を上げずに反対する。
意見は真っ二つ。
真奈は、二人の妹の顔を交互に見ながら、手元の冷えた麦茶のグラスを指先でいじっていた。
グラスの表面を滑り落ちる結露が、彼女の迷いを映しているようだった。
今日は家族全員の休日。
行き先を決めなければならないのだが、父と母は「3人の好きなところでいいよ」と、新聞を読んだりお茶をすすったりして、完全に静観の構えだ。
年上の落ち着きを見せようと、真奈が控えめに切り出した。
「あの……山はどう? 標高が高いところなら、きっと涼しいと思うんだよね」
「それって、要するに登山でしょ?」
佳奈が即座に反応した。
「えっ、そうかな……?」
「やっぱり登るんじゃん。体力使うし、せっかくの休みなのに汗だくでボロボロになりたくないわ」
真奈は困ったように微笑みながらも、その魅力を伝えようと試みる。
「でもね、この時期しか見られない珍しい高山植物も咲いてるみたいだよ。雲海が見えるかもしれないし……」
「あ、それはちょっと見たいかも……」
結菜の心が少しだけ山に傾く。しかし、佳奈はどこまでも現実的だった。
「でも、山って虫がいるよね。絶対蚊に刺されるし、得体の知れないのが飛んできそう」
それは登山を語る上で避けては通れない、致命的な問題だった。
真奈は助けを求めるように両親を見るが、2人は「山登りかぁ……」と言いたげな、なんとも微妙な顔をして見合わせている。
「近くに、いい温泉もあるみたいだけど」
真奈の最後の一押しに、結菜が「虫除けをしっかりすれば、行ってもいいかな」と山派に寝返りかけた。
だが、肝心の両親の重い腰と、佳奈の「絶対にお断り」という冷ややかな視線に、山案は静かに消滅した。
「じゃあ、真奈は『海』と『湖』どっちを選ぶの?」
佳奈が真奈に迫る。結菜も期待の眼差しを向けてきた。
「海も、いいよね」
真奈は慎重に言葉を選んだ。
「泳がなくてもいいから、波打ち際を歩いて、足の裏で波を感じたいかなって」
「真奈姉さん、白い砂浜は案外暑いのよ」
佳奈が冷静に指摘する。
「それに海水に浸かったところは、あとで乾くとベトベトするでしょ。湖にも砂浜はあるし、あっちなら水に浸かってもベタつかないわよ」
「……それはそうだけど」
今度は結菜が口を挟む。
「海に沈んでいく夕日は格別だよ。あれは海でしか見られない美しさだと思うな」
佳奈は少しの間、沈黙した。頭をポリポリとかきながら、小さなため息をつく。
「うっ……確かに、それは魅力的。……ちょっと心惹かれるところ」
妹たちのこだわりをすべて聞き届けた真奈の頭の中で、パズルのピースが繋がった。
「じゃあ、こうすればいいんじゃない?」
真奈はパッと顔を上げ、名案を披露した。
「お昼はまず湖に行って、涼しい木陰や湖畔でゆっくり過ごすの。ベタつかない水で遊んでから、午後夕方になる前に海に向かうの。そうすれば、ちょうどいい時間に綺麗な夕日が見られるでしょ」
佳奈と結菜の視線が互いに合う。
「湖と海の、いいとこ取りね」
「それなら文句ない。まー姉、ナイス!」
真奈はキッチンで準備をしていた父親に声をかけた。
「お父さん、湖から海へのハシゴになっちゃうけど、運転大丈夫そう?」
父は新聞を丁寧に畳むと、頼もしそうにハンドルを握り、切るジェスチャーをして笑った。
「それくらいなら大丈夫、任せなさい。真奈のプラン通り、最高の夕日に間に合うように走るよ」
こうして、三姉妹の交渉は円満に幕を閉じた。
初夏の強い日差しの中へ、家族を乗せたワゴン車が走り出す準備が整った。
⸻
真奈の提案が通り、ワゴン車は爽やかな風を切って走り出した。
車内は、三姉妹それぞれの個性が詰まった賑やかな空間になっている。
後部座席の真ん中のシートを陣取った結菜は、お気に入りのプレイリストをカーステレオに繋ぎ、リズムに合わせて小さく膝を叩いている。
「ねえ、湖に着いたら、おしゃれなカフェとかあるかな? テラス席で冷たいレモネードとか飲みたい!」
「結菜はすぐ食べ物のことばっかり」
真ん中の席でガイドブックを広げていた佳奈が、あきれたように笑う。
「でも、この湖の周りにはハーブ園があるみたい。そこなら虫も少なそうだし、佳奈も楽しめるんじゃない?」
助手席に座る真奈が、スマホで周辺情報を調べながら振り返る。
「さすが真奈。リサーチが完璧だね」
佳奈は感心したようにうなずいた。山登りの提案ではあんなに渋っていた佳奈も、自分たちの好みを汲み取ってくれた姉の折衷案には、すっかり納得している様子だ。
「お父さん、まずはそのハーブ園を目指してくれる?」
「了解。安全運転で行くよ」
父はバックミラー越しに娘たちの楽しそうな顔を見て、心なしかハンドルを握る手も軽やかだ。
1時間ほどして到着した湖は、佳奈の言った通り、海とは違う静謐な空気に包まれていた。
深く澄んだ青い水面が、木漏れ日を浴びてダイヤモンドのようにキラキラと輝いている。
「わあ……本当にベタつかない!」
結菜がさっそくサンダルを脱ぎ捨て、浅瀬に足を踏み入れた。
「冷たくて気持ちいい! まー姉、佳奈ちゃん、こっちおいでよ!」
真奈と佳奈も、裾を捲り上げて水辺に歩み寄る。
「本当、さらさらしてる」
佳奈が満足そうに水面を掬い上げた。
「山の上ほどじゃないけど、風が通り抜けて涼しいね。まー姉、山に行けなかったのは残念だったけど、ここも十分癒やされるよ」
真奈は、水辺に咲く名もなき小さな花を見つけ、そっと目を細めた。
「ううん。みんなが笑ってるのが一番だよ。高山植物はまた今度、みんなの体力が有り余ってる時にね」
⸻
時計の針が午後4時を回る頃、一行は再び車に乗り込んだ。
次は、結菜が期待し、佳奈も密かに楽しみにしている「海の夕日」を目指す。
車窓から見える景色が、緑のトンネルから、徐々に視界の開けた海岸線へと変わっていく。
空の色は、鮮やかな青から淡いオレンジへとグラデーションを描き始めていた。
「見て! 太陽が低くなってきた!」
結菜が身を乗り出す。
「ちょうど5時。真奈姉の計算通りだね」
前方のフロントガラス越しに、どこまでも続く水平線が見えてきた。
湖の穏やかな青から、今度は海のエネルギッシュな黄金色へ。
「お父さん、あの岬の近くに車を止められるかな?」
真奈の問いかけに、父は力強く頷いた。
夕日が海に溶け出すまで、あとわずか。
三姉妹の欲張りな一日は、まもなく最高潮を迎えようとしていた。
⸻
「太陽が、海に溶けちゃう……」
結菜がポツリとつぶやいた直後、最後の一片が水平線の向こう側へ吸い込まれていった。
しかし、本当の魔法はそこから始まった。
太陽が姿を消した直後、空は燃えるようなオレンジ色をさらに深め、黄金色と紫が混ざり合う、息を呑むような「マジックアワー」に包まれた。
「見て、世界が光ってるみたい……」
真奈は、自分たちの影が透明に、柔らかな残照がすべてを等しく照らし出す不思議な感覚に浸っていた。
湖で見た清らかな光とは違う、すべてを包み込むような温かい光の余韻。
しかし、その余韻も束の間、西の空のオレンジは急速に淡くなり、代わって東から押し寄せていた深い青が、頭上を完全に支配し始めた。
「ねえ、さっきまでと色が違う……」
佳奈が空を見上げて呟いた。
それは、昼の青とも夜の黒とも違う、濃密で深い青。
一日のうちで最も短い神秘的な時間――「ブルーモーメント」の訪れだった。
「夜になる直前の、この深い青……なんだか心まで静かになるね」
真奈がそう言うと、現実派の佳奈も、さっきまで燥いでいた結菜も、移ろいゆく空のグラデーションに目を奪われ、ただ静かに佇んでいた。
「さて、そろそろご飯に行こうか」
後ろから穏やかな声がした。
振り返ると、ブルーアワーの光の中でシルエットになっていた父と母が、こちらを向いて微笑んでいた。
「お父さん、運転お疲れ様。湖も海も、両方欲張っちゃってごめんね」
真奈が気遣うように言うと、父は小さく首を振った。
「いいんだよ。お前たちがこのブルーモーメントの光の中に並んでいる姿を見られただけで、今日一日走り回った甲斐があったよ」
「本当ね。真奈がうまく時間を調整してくれたおかげで、最高の空が見られたわ」
母が真奈の肩にそっと手を置く。
「ありがとう、真奈」
「ふふ、私はただ、みんなの願いを繋ぎ合わせただけ」
真奈が照れくさそうに笑うと、次女の佳奈が「でも、その繋ぎ方が絶妙だったじゃない」と、珍しく素直に姉を褒めた。
⸻
ブルーアワーが完全に夜の闇に溶け込み、満天の星が輝き始めた頃、一行は海沿いの小さなシーフードレストランへと辿り着いた。
店内の柔らかなオレンジ色の照明が、潮風にあたって少し火照った三姉妹の頬を照らしている。
「お待たせしました、パエリアです」
店員が運んできた大きな鍋からは、サフランの豊かな香りと、エビや貝の芳醇な磯の香りが立ち上った。
「わあ、美味しそう!」
結菜が今日一番の歓声を上げ、さっそくスマホで写真を撮り始める。
「湖では軽食だったから、夜はガッツリ海鮮だね」
佳奈も満足そうに、レモンを絞る準備をしている。
父はノンアルコールビールの冷えたグラスを片手に笑っている。
「いやぁ、冷えたビールと3人の満足そうな顔があれば、疲れなんて吹き飛ぶよ」
「次は秋かな。秋なら山も涼しいし、紅葉が綺麗よ」
母がさりげなく提案すると、佳奈が少しだけ考え込み、
「……秋なら、少しは虫も減るかな?、それなら登ってもいいかな」
と、歩み寄る発言をした。
「本当!? じゃあ次は紅葉狩りだね!」
結菜が嬉しそうにパエリアを取り分ける。
真奈は、賑やかな妹たちの会話を聞きながら、窓の外の真っ暗な海を見つめた。
朝の意見がぶつかる空気も、山での押し問答も、今ではこの温かな夕食を彩るスパイスのように感じられる。
「まー姉も食べて! 冷めちゃうよ」
結菜に促され、真奈はスプーンを手に取った。
一つの皿を家族5人で囲む時間。
それは、マジックアワーよりもブルーモーメントよりも、真奈にとっては鮮やかで、愛おしい色をしていた。
ワゴン車で走った長い道のりと、刻々と色を変えた広い空。
『うつろいゆく夏の空』の下で過ごした一日は、家族の記憶というアルバムに、新しいページとして刻まれた。




