紙の要塞
終業式が終わった。
校長の話は長くなりそうだと思ったが、あっさりと締められた。夏休みの諸注意を言う程度だった。
これであとは夏休みを満喫するぞと結菜は思っていた。大手を振って楽しもうとしている。完全に浮かれていた。もう気持ちは海岸線まで飛んでいた。
しかし、それは逃げ水のような儚い幻想で終わる。
配られたプリントの束を手にした瞬間、結菜の脳裏から夏の青空が音もなく消えた。海岸線も消えた。かき氷も消えた。残ったのは紙だけだった。
机の上に積み上がった課題の山を眺め、深く溜息をつく。中学の頃のような、薄っぺらな「夏休みの友」なんて生易しいものはどこにもない。
おまけで「原稿用紙5枚以内」の読書感想文が加わる。
課題が配られ、結菜はつぶやく。目の焦点は教室のどこにも合わない。
「嘘だよね……嘘だと言ってよ……」と繰り返す。
「結菜どこ見てんの、おーい聞こえてる? もしもーし」
「課題の量もやばいけど、今の結菜もやばいね」
友達の声さえ遠く、聞こえない。
佳奈は結菜の方を見る。結菜は微動だにせず、口を開けて何か言っている。何を言っているかは分からない。ただ唇だけが、同じ言葉を繰り返すように動いていた。
ホームルームが終わり、みんなさまざまな思いを胸に教室を後にする。
しかし、いまだに結菜は椅子に座ったままで、課題の山を呆然と見つめている。
佳奈が動かない結菜を見つめる。このまま夏休みが終わるまでここにいる気なのだろうかと、少し心配になる。
佳奈がバッグを肩にかけて立ち上がると、結菜の友達が小声で茶化すように言った。
「……んじゃ、結菜のこと、よろしくね、お姉ちゃん」
佳奈は肩をすくめ、苦笑い。
「……お姉ちゃんって、急に言わないでよ」
後ろから結菜に話しかける。
「ほらいくよ結菜。お待ちかねの夏休みスタートだよ」
「嘘だよね」
「何が」と結菜の肩を叩く佳奈。
「この量だよ」
「ああ、これね。そうだねこれは……残念だけど本当なんだよ、結菜」
「本当?」
返事はそれきりだった。結菜は課題の束を鞄に押し込みながら、まだどこか遠くを見ていた。鞄がみるみる膨らんでいく。ファスナーが悲鳴を上げていた。
⸻
自転車で走って大丈夫なのかと心配するほど、結菜の顔が虚ろだった。ペダルを踏む足だけが機械的に動いていて、視線は路面のどこにも定まっていない。
「これ嘘だよね」
つぶやきながら、それでも自転車だけは前へ進んでいた。体が帰り方を覚えているようだった。
真奈は無言で結菜の少し後ろにつき、ペダルを踏む。
交差点のたびに結菜の動きを目で追い、ふらつけばすぐ声をかけられる距離を保った。
佳奈が真奈に小声で言う。
「どうにかしてよ。このままじゃ事故っちゃうよ」
「でもなんて声かければいいの。『あれは夢だよ』って言えばいいの?」
「もうそれでいい。家に無事に着くまでしっかりしてれば。私ちょっと買い物してくる。先行ってて」
真奈は小さくうなずいた。佳奈が列を外れていくのを横目に見ながら、真奈は改めて結菜の後ろへつく。そして、やりますかと意気込み、少し大きめの声を出した。
「学校の夏の課題ね、あれ全部冗談だから。悪いジョーク。真に受けなくていいよ、結菜」
反応はすぐにはない。少しして、結菜が後ろを一瞬振り返る。
「そうだよね。あんなの本当じゃないよね。あれは嘘だよね」
その目はまだ遠くを見つめていたが、ハンドルを握る手はさっきより確かになっていた。嘘で人が救われることもある。真奈はそう思いながらペダルを踏み続けた。気を取り戻した結菜は、しっかりとした面持ちで家に無事帰れた。
⸻
しかし、現実は待ってくれない。
結菜は鞄を下ろして、机の上に課題を並べる。
英語のワーク、数学のワーク、国語のプリントの束、読書感想文の原稿用紙。物理、地理、化学基礎の冊子。
一つ取り出すたびに山は低くならず、むしろ広がっていくように見えた。鞄はどうなっているのか。四次元につながってるのか。並べれば並べるほど、さっき真奈が言った言葉が脳裏をよぎる。
――全部冗談だから。
「冗談じゃ、なかった」
ぽつりと声が出た。次の瞬間、目の奥がじわりと熱くなる。こらえようとしたが無駄だった。涙が一粒、数学のワークの表紙に落ちた。丸い染みがゆっくりと紙に広がっていく。水分が紙に吸われていく。課題に泣かされた証拠が早速刻まれた。
結菜はそのまま机に突っ伏して泣いた。声を殺して、でも確かに泣いた。嘘じゃなかった。150ページは本当だった。
夏休みは本当に来るのに、待っていた自由は本当には来なかった。楽しもうとしていた気持ちが、課題の重さの下でギリギリ、しかし今にも崩れそうに思えた。
⸻
自転車の音でわかる、佳奈が帰ってきた。
「コンビニ寄ってきた」
佳奈が差し出したビニール袋の中にはアイスが3本入っていた。自転車を離れてコンビニに寄ったのはこのためだったのかと、真奈は小さく笑った。
結菜のために、あの分かれ道でそっと列を外れたのだ。先を読んでいた。用意周到にもほどがある。
「こんなんで解決しないよ」とダイニングテーブルに伏せた結菜は、鼻をすすりながら言った。
「解決しようとしてないもん」と佳奈はさっさと部屋に上がりながら答えた。
佳奈はリビングのテーブルに課題を置いてみる。学校ではまだ現実感がなかった。家だと急にリアル。確かに量は多いが、教室で見た時より少しだけ、恐ろしくなくなった気がした。
「英語は一緒に頑張ろう」と佳奈。
「数学は……結菜に助けてもらおうかな」
「数学は私に聞いてよ、それくらい教えてあげる」と結菜は目を擦りながら言った。
「泣きながら何言ってるの結菜」と真奈が笑った。
「泣いてても数学はわかるんだよ」
それが可笑しくて、3人で少し笑った。笑い声が部屋に広がって、積み上がった紙の要塞が少しだけ小さく見えた。気のせいではないと思いたかった。
「なんでアイス買ってきたの」
結菜がぽつりと言うと、佳奈はアイスを押しつけながら答えた。
「私自身のため。うるさい、黙って食べな」
結菜は受け取って、一口かじって、それからもう一回だけ泣いた。今度は少し、さっきと違う種類の涙だった。
「泣き終わったら数学教えてね」と佳奈が言った。
「夏休みはまだ始まったばかりだから」
と付け足した。
窓の外では、蝉がやかましく鳴いていた。150ページのことなど、何も知らないように。
「ああ、そうだ。結菜がやる気になるか分からないけど、進学校の友達からメッセージがあってさ、夏の課題はこんなもんじゃなかったよ。1日3、4時間やらないと終わらなそうだってさ」
「大変そうだけど私にとってはこの量でも重いよ」
結菜が言った瞬間、閃く。
「そうか! 夏休み明けには実力テストがあるわけじゃない。それに関係ないのから片付けていけば、頭にまだ勉強したのが残ってるベストな状態でテストを受けられるんじゃない?」
「おっ、頭が動いてきてるじゃん」
佳奈がクックと笑う。
「それは正解かも。じゃあ読書感想文あたりからやりますか。結菜のおすすめとかある?」
「あるよ」
結菜が急に立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
自分の部屋に小走りで向かう。しばらくして戻ってきた。
手には一冊の文庫本。淡い水色の表紙。少し角が丸くなっている。
「これ」
佳奈に差し出す。
「え、なに」
「私のおすすめ」
佳奈が目を丸くする。
⸻
表紙にはこう書いてある。
『透明な階段ののぼり方』
聞いたことのない作家名。
「どんな話?」
「うまくいかない子がさ、周りと比べられて、勝手に焦るんだけど。でも、“自分の速さ”で進んでいいって気づく話」
「今回の私みたいじゃん」
佳奈が笑う。
「それ自分で言う?」
「言う」
佳奈は本を受け取る。ぱらりと最初のページをめくる。
「タイトル、いいね」
「でしょ」
「透明な階段か……。ありがとう、読んでみる」
「これ、やっぱり今の佳奈ちゃんにちょうどいいと思う」
佳奈は少しだけ目を細めて、本を受け取る。
ページをめくる音が、夏の部屋にやわらかく響いた。
窓の外では蝉が鳴いている。
まだ終わっていない課題も、不安も、そのまま。
けれど、本が結菜から佳奈へ渡った。
それだけで、この夏は少しだけ静かに動き出して行く。




