危なかった
三姉妹はシアターエリアに並んで立っていた。
頭上のモニターには上映時間が流れ、壁一面にポスターが並んでいる。
まだ何を観るか決まっていなかった。
「私はこれが観たいかな、これ」
真奈は恋愛もののポスターを指さす。男女が笑顔で手を握り合っている。
佳奈が難しそうな顔をしながら、首を振った。
「これはダメ。切なそうな恋愛映画は、映画館では観られない」
「ダメかな。佳奈が言いたいことはわかるけど、そこまでの雰囲気はポスターからは感じないけど」
「ポップなポスターだけど、騙されない。きっと中盤あたりから徐々に気持ちを持っていくタイプ……。これはパス」
「じゃあ私のは? 観たいのこれなんだけど」
結菜が指差したのは動物映画のポスター。男の子が草に寝転びながら子犬を持ち上げている。
「こんなの完全にアウトでしょ。結菜も何考えてるの、こんなの観られないって」
「ええー。どうする? みんな1人で観る?」
「せっかくなんだから一緒に映画を観たいけどね。でも佳奈が大丈夫な映画ないかな」
真奈は上映されている映画のポスターをよく見る。
「ホラーは……」
「無理。2時間近く逃げ場がないなんてあり得ない。そんなの観るわけないでしょ」
佳奈が手をクロスさせて、バツマークを作る。
「私もこのジャンルは観られない」
「まあ、私も観たくはないし、ただ提案しただけ」
「じゃあこれは」
結菜が指した先には、CGアニメのポスターがあった。
「これ系か。ポスターは面白そうだけど、舐めると痛い目にあうからこれも除外」
「だったら佳奈ちゃんが選んでよ」
「私が選ぶとすれば……えーと……。これなら無難かな」
佳奈が指した先には、オリジナルアニメの映画。
「ああ、ちょっと話題になったやつだね」
「テレビのCMで見た。アクションでコメディっぽい予告編だったような」
「本当に? じゃあ私はこれにするけど、2人はどうする?」
佳奈は真奈と結菜を見る。
「分かった、それでいいよ。観たいのは友達と観に行きます」
「私もそうしようかな」
「ありがと、2人とも」
3人はチケットを買い、暗い通路を進む。
席はスクリーンに向かって後方の右側の壁際。
「やっぱここ」
佳奈は右側の壁に頭をそっと預けた。ひんやりとした感触。
視界の右は壁、左には真奈、その向こうに結菜。
「そこ好きだよね」
「落ち着く」
「何から守ってるの」
「いろいろ」
公開から少し経っているせいか、客の入りはまばらだった。
予告編が数本終わったところで、照明が徐々に暗くなっていく。
本編が始まり、場内に笑いが広がる。
テンポのいいやり取りに、結菜が小さく吹き出す。真奈も肩を揺らす。
佳奈は壁に頭を預けたまま、じっとスクリーンを観ていた。
中盤。
主人公が仲間とすれ違い、1人になる。音楽が一段、静かになる。
(来る)
佳奈は無意識に壁に少しだけ強く寄りかかる。胸の奥をかすめる何か。
でも、物語はすぐに明るさを取り戻す。笑いが起きる。
クライマックス。
主人公が覚悟を決めて走り出す。
ほんの一瞬、視界がにじむ。佳奈は息を止めた。
主題歌がかかりエンドロールが流れる。
終幕すると場内に明かりが戻ってきた。
佳奈は壁から頭を離さず、独り言をつぶやいた。
「……危なかった」
「え?」
真奈が横を見る。
「なにが?」
結菜も身を乗り出す。
佳奈は少し遅れて、顔を上げる。
「ううん、なんでもない」
でも2人は気づいた。佳奈の目の周りが、ほんの少し赤い。
「目は赤くなっていないけど、目の周りが赤いよ」
隣の席だった真奈が言う。
「嘘――泣いていないのに」
「目の周りを擦るからじゃない? 結構触ってた」
「……ギリギリ、セーフだから」
「なんのセーフなの」
結菜がじっと佳奈の目を見る。真奈はそっとハンカチを差し出す。
「一応」
「いらない」
少しだけ間があく。佳奈は小さく息を吐いた。
「1人だったら、たぶん危なかった。でも3人だったからなんとか耐えられた」
結菜がぽつりと言う。
「3人で観たから、大丈夫だった?」
佳奈は視線を前に向けたまま、うなずいた。
「……そうかも」
3人は立ち上がり、出口へ向かう。
三姉妹が暗い通路からロビーへ戻ると、現実の喧騒が待っていた。
ポップコーンの甘い香りと映画の予告編の音。
外の空気が、映画の余韻をゆっくりと現実に戻していく。
「ふぅ……」
佳奈はソファに腰を下ろす。目の奥にまだ熱が残っている。
「ねえ、最後のアクションシーンの曲、かっこよくなかった?」
結菜はさっそくサントラを検索している。
真奈は友達と観たい映画のチラシを選んでいる。
佳奈は時計を見る。午後5時5分だった。
「真奈、そろそろじゃない? 時間」
「そうだね。結菜、戻るよ」
シアターエリアを抜ける三姉妹。
「本当、佳奈って映画館で“泣ける映画”避けるよね」
真奈が横目で見る。
「本当そうだよね。なんで?」
結菜も言う。
佳奈は少し歩幅を落とした。
「感情が動かされるシーンで、背中からゾワゾワって鳥肌が上がってくる感覚あるでしょ。あれが、映画館だと無理」
真奈は少しだけ歩く速度を佳奈に合わせる。
「……それは少し分かる」
短く、静かに言う。佳奈がちらりと横を見る。
「胸の奥がきゅっとなるやつでしょ。心拍数が上がるよね」
「そう、それ。心臓の音がバクンバクンくるやつ」
佳奈が続ける。
「……家で観る時に泣くのはいいよ。みんな私が泣くって分かってるから。でも、映画に没入した私にとっては、心が揺れる時、それが他の人には伝わらない感じがして嫌なの」
「佳奈、結局ポップコーン全然食べなかったでしょ。私のキャラメル味、半分以上残ってるよ」
「……それどころじゃなかったの」
佳奈がぶっきらぼうに答えると、真奈はくすくす笑いながら、手に持っていたカップを差し出した。
「今は、糖分、必要じゃない?」
佳奈は一瞬ためらってから、キャラメルのかかったポップコーンを口に放る。
ガリッとした甘さが、緊張していた喉をゆっくりと溶かしていく。
3人は少し歩き、フードコートに着いた。窓の外はまだ明るい。
ブース席にいる父を探す。いた。
人影が止まり、父は顔を上げる。3人が戻ってきたことに気がつく。
「楽しかったか?」
3人はうなずく。父は3人を見る。
真奈と結菜はいつも通りだが、佳奈の目の周りが赤いのに気づく。
だが、そのことには触れない。
「仕事は捗ったの?」
結菜が尋ねる。
「そうだな、ここ数日よりは良かったよ」
父と三姉妹はパスタ屋に入る。
木目調の落ち着いた店内。
フードコートのざわめきとは違い、食器の触れ合う音と小さな会話が静かに混ざっている。
父の隣に真奈が、反対側に結菜と佳奈が座った。
「どうだった?」
父が水を一口飲んで聞く。
「面白かったよ」
結菜が即答する。
「アクション強めのコメディ」
真奈が補足する。
佳奈はメニューを閉じながら言う。
「……無難だった」
「危なかったくせに?」
結菜がすぐ横から言う。
「言わなくていい」
父が少しだけ首を傾げる。
「危なかった?」
「佳奈ちゃんが泣きそうだっただけ」
結菜があっさり説明する。
「泣いてない」
佳奈が即座に否定する。
父は小さく「そうか」とだけ言い、それ以上は聞かない。
注文したナポリタンとカルボナーラが運ばれてくる。
湯気と一緒にトマトとチーズの香りが広がる。
「どこがそんなに来たの?」
真奈がフォークを回しながら聞く。
「中盤の静かなところ」
「あー、主人公が1人になる場面?」
と結菜。
「そう。その一瞬」
「次の瞬間、ギャグで転ぶやつでしょ?」
「その“前”」
佳奈は少しだけ声を強める。
「音楽が消えて、街の音だけになるところ。あそこが危なかった」
「え、あれで?」
結菜が笑う。
「だから映画館は嫌なの。逃げ場ない感じするから。でも観なきゃ物語は楽しめないから。目を背けられない」
真奈が少しだけ真面目な顔になる。
「……対価を払ってるしね」
父はパスタを巻きながら、ぽつりと。
「3人で観れて良かったんだろ」
佳奈は一瞬だけ視線を上げる。
「……それはそうなんだけど」
父はそれ以上、映画の中身には踏み込まない。
仕事の話もせず、ただ同じテーブルで食べている。
「次は子犬のやつ観たい」
と結菜。
「佳奈はアウト確定でしょ」
真奈は指をクロスさせる。
「観てもいいよ。……私、泣かないから……」
佳奈は自信なさげに宣言する。
「ハンカチ一つで足りるかな」
「うるさい」
父が小さく笑う。
「その時も私は別行動だな」
「正解」
真奈が即答する。
結菜がぽつりと言う。
「でもさ、家ではみんなで観るけど、家族5人で映画館って、なかなかないよね」
父は水を飲み、軽く肩をすくめた。
「タイミングが合えばな」
「今度は家族全員で観に行こう」
真奈が横を向いて言う。
父は少し笑う。
「5人分、好み合わせるのは大変だぞ」
佳奈が顔を上げる。
「……映画館で観られるやつ、探すのがまず大変なんだから」
「条件多いもんな」
「佳奈ちゃんの映画館で観る映画の条件は『泣かない、怖くない、重くない』でしょ」
結菜が横にいる佳奈に言う。
「注文多い客だな」
笑いが広がる。
揃うのは、きっと簡単じゃない。
でも、次は5人で。




