動かない背景と、動く出費
午後1時20分
リビングに午後の光が斜めに差し込んでいる。カーテンは半分だけ閉じられていて、テレビは消え、家の中は妙に静かだった。
父がノートパソコンを閉じ、伸びをする。書斎から出てきて階段から呼びかける。
「おーい、結菜。少し環境変えて仕事したいからショッピングモールに行くんだが、一緒に行くか」
階段の上から足音がして、結菜が顔を出した。
「うん、いいよ」
返事はあっさりしている。深く考えた様子もない。
そのやりとりを、キッチンにいた真奈は聞いていた。
包丁を持つ手が、止まる。
「……は?」
低い声。
続いて、2階のから佳奈も顔を出す。
「なんで結菜だけ?」
階段の踊り場で、佳奈が腕を組んで仁王立ち。まるで尋問官みたいな目つきと態度だ。
父は一瞬きょとんとした。
「いや、たまたま近くにいたから」
キッチンから声を出す真奈。
「近くにいたからって、理由として弱くない? 距離の話ならキッチンにいた私の方がお父さんに近かったけど」
「私も家にいますけど」
真奈の声は静かだが、温度が低い。
結菜は着替えて部屋から出て階段を降りる。途中で立ち止まり、困ったように2人を見る。
「別に、そんな大した話じゃ……」
「大した話じゃなくても、選んで呼んだのは結菜なんだよね」
佳奈が小さく笑う。笑っているけれど、目が笑っていない。
真奈は父と結菜の距離を測るみたいに視線を動かしている。
「……なんで結菜だけ?」
今度は真奈が言う。声は低い。
父は少し困ったように頭をかく。
「結菜は静かだからな。一緒にいても邪魔しないし」
その一言で、空気が固まった。
「……へぇ。邪魔、なんだ」
真奈が包丁を置き、ゆっくりと手を拭く。タオルをかける動作一つさえ、どこか儀式的で恐ろしい。
「お父さんにとって、私たちは『仕事に邪魔な存在』ってことね」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、どういう意味?」
佳奈が階段を降りてくる。トントン、という軽い足音が、今はカウントダウンの音に聞こえた。
結菜は階段の途中で立ち尽くしている。
自分が原因みたいになっていることに、うっすら気づいている。
「結菜は静か。私たちは、そうじゃない。つまり、うるさい私たちがついていくと、お父さんの大事なお仕事の邪魔になっちゃうから、誘わなかった。……正解?」
「そんなことはない……」
沈黙が落ちたまま数秒。
父は観念したように息を吐いた。
「……わかった。じゃあ、4人で行くか。どうせ仕事するだけだし、やる作業は変わらん」
その言葉に、真奈と佳奈が同時にわずかに眉を上げる。
「最初からそう言ってくれたらいいのに」
「交渉成立です」
「じゃ、準備してくる」
「私も」
2人は階段を上がり、結菜を追い越して各自自分の部屋に行く。姉2人の様子を見て、父は肩をすくめる。
結菜はほっとしたように小さく笑った。
「……静かじゃなくなるな、今日は」
結菜は靴を履きながら、ぽつりと言った。
「でも、4人の方が楽しいよ」
父は苦笑しつつ、車の鍵を手に取った。
「はいはい。じゃあ行くぞ3人とも」
家の中に、さっきまでの重さが嘘みたいに軽い空気が戻っていた。
⸻
午後1時50分
駐車場はそこそこ混んでいた。自動ドアが開くと、冷房の風と甘い匂いが一斉に流れ込んでくる。
人の声、足音、BGM。
非日常というほどではないが、家とは違う空気だ。
「じゃあ、私はフードコートで仕事するから。5時くらいにフードコートに来てくれ」
「はーい」
結菜が素直に返事をする。
真奈は小さくうなずくだけ。
佳奈は父の背中をじっと見ている。
父はノートパソコンの入ったバッグを肩にかけ、フードコートの方へ歩いていった。
3人だけが残る。
少しの沈黙。
「……で?」
佳奈が結菜に向き直って言う。
「どういうこと?」
「なにが」
結菜はとぼける。
「なんであんたなの」
「たまたまだって」
真奈が静かに口を開く。
「たまたま、ね」
その言葉は短いけれど、重い。
結菜は視線をそらした。
父といるときの自分は、少しだけ楽だ。話さなくてもいい。気を張らなくてもいい。そのことを、姉たちは知らない。
けれど、今ここでそれを言うのは違う気がした。
「服、見る?」
結菜が話題を変えようとする。
佳奈は一瞬むっとした顔をしたが、すぐに息を吐いた。
「……私達もフードコートに行こうか、なんか飲もう」
⸻
「ちょっとトイレ行ってくる」
と結菜が言い、人混みに消えていった。
その背中を見送ったあと。
真奈と佳奈は、なぜか自然とフードコートで、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。父からは微妙に見えない位置。絶妙な死角。
⸻
真奈:ねえ佳奈。どうして私が怒っているのか、わかります?
佳奈:さあ。真奈さんは、あまり怒っているようには見えませんけど。
真奈:そう見えますか。
佳奈:ええ。実際どのくらい怒ってるんです。
真奈:……あなたに「アスパラの肉巻き」を一本多く食べられたときくらい怒ってます。静かに、しかし深く。
佳奈:それは重罪ですね。家庭裁判所レベルです。それで? お父さんにぶつけますか、その怒り。
真奈:こらえます。
佳奈:怒りは胸の奥で熟成させるタイプですね。
真奈:いつかは吐き出さないといけません。ただし、お父さんが私たちをどこかに誘ってくれたら、このメーターも少しは下がるでしょう。家の時から比べたらだいぶ回転数は下がってます。
佳奈:なるほど。怒りの回転数はレッドゾーンからは少し下がったわけですね。……ところで、そもそも何に怒ってるんですか。
真奈:お父さんが気分転換にショッピングモールで仕事をするのに、私たちは誘わず、結菜だけを名指しで連れて行こうとしたことですよ。
佳奈:ああ……それなら私も聞いた瞬間、レッドゾーンに入りかけました。
真奈:でも、分かってます。その怒りは無駄です。誰にぶつけても得はありません。
佳奈:お父さんにぶつけたら。
真奈:今後お出かけには呼ばれなくなりますね。だからしません。
佳奈:結菜にぶつけたら。
真奈:ただの八つ当たりです。
佳奈:分かっていますよ。誘われたら、アイドリングできますけどね。今2500回転くらいです。
真奈:それにしても、結菜への贔屓は否定できません。
佳奈:まあ、末っ子で可愛いからでしょう。
真奈:それなら同じく可愛い私たちも呼ばれるはずです。
佳奈:……「可愛い」だけではない、ということですよ。
真奈:つまり私たちに足りないものがあると。……結菜にあって、私たちにないもの。
佳奈:逆に、私たちにあって、結菜にないものならあります。
真奈:……何ですか。
佳奈:うるさいところです。
真奈:……。
佳奈:たぶん、それだけではありません。
真奈:どういう意味ですか。
佳奈:お父さんの仕事中に口出ししそうでしょう。「その資料、明朝よりゴシックの方が映えるんじゃない? このグラフ見にくいから変えたほうがいいよ」とか。
真奈:……確かに。お父さんもその場は我慢はするでしょうけど、次から誘われませんね。
佳奈:その点、結菜は違います。テーブルの反対側で本かスマホを黙ってみてるだけです。
真奈:あの騒がしい状況であの静寂の集中力……将来は職人ですね。
佳奈:だから結菜は”動かない背景”。私たちは”動く雑音”。
真奈:でも別に、張り付く必要はないでしょう。
佳奈:と言いますと。
真奈:お父さんが仕事中、私たちは別行動でモールを回ればいいのよ。視界に入らず、時間だけ共有。
佳奈:なるほど。放し飼い方式。
真奈:お父さんがパソコンを叩く間に、私たちはコスメを見て、スイーツを食べ、服を一着くらい試着していれば、あっという間よ。
佳奈:……真奈さん。今、はっきり分かりました。
真奈:何が。
佳奈:お父さんが仕事している間、私たちはモールを回りますよね。その時に一緒に移動するものがあります。
真奈:なんですか。
佳奈:父のカードです。
真奈:……気づいた?
佳奈:結菜は”背景”。私たちは”動く出費”。
真奈:経済を回そうとしているだけです。
佳奈:その経済、私たちにはまだ早いです。本当の怒りの原因は、結菜のせいじゃなくて、自分たちのせいじゃないですか。うるさいかカードを使い込むかで。
真奈:……そうかもしれません。それでお父さんと距離感が結菜とは違うのかもね。
真奈:でも、お父さんの仕事が終わる頃には、私たちのメーターもクールダウンしているはずよ。
佳奈:代わりにカードの利用額がレッドゾーンに突入しますけどね。
真奈:……じゃあ、やっぱりアスパラの肉巻きの恨み、お父さんにぶつけてくる。
佳奈:だから、それはお門違いです! それは、食べた私に向けてください。今日なんでも奢りますから。
真奈:奢ってくれるんだ。佳奈のお金で?
佳奈:父のカードで。
真奈:……レッドゾーンですね。
二人:どうもありがとうございました。
「お姉ちゃんたち何やってるの」
結菜がジュースを持って、真奈と佳奈を見下す。
「ちょっと父と結菜のことで議論があってね」
⸻
ショッピングモールの通路は明るく、床はぴかぴかに磨かれている。ガラス越しに並ぶ春物の服。ポップな色合いのポスター。
真奈はちらりと結菜を見る。
父に誘われたときの、あの素直な返事。
自分はあんなふうに言えるだろうか。
悔しい、というより――置いて行かれた感じ。
遠くで、フードコートのざわめきが聞こえる。
父はきっと、パソコンを開いている。
その距離を意識しながらも、各々行きたいお店に散り散りになった。




