シャトルの向かう先
キッチンには夕飯前の静けさが満ちていた。
真奈はまな板の上で野菜を切っている。包丁が木の板を叩く音は一定で、淀みがない。
佳奈は少し離れた場所から黙って見つめていた。真奈は背後に注がれる視線を感じながら、話すタイミングを探していた。
「ねえ、佳奈」
「んー」
佳奈の短い返事を聞いて、真奈は意を決して続ける。
「結菜のこと、相談があるんだけど」
真奈は包丁の動きを少し緩め、視線を落としたまま告白した。
「私、結菜のことよく分からなくて。3人でいる時は自然体でいられるんだけど。
2人きりになると、どうすればいいか緊張しちゃう。結菜が何を考えてるのか、分からなくなる」
包丁の音が、ふと途切れた。佳奈は少しだけ間を置いて口を開く。
「そう? 結菜はあの通り天真爛漫。無邪気で、素直な……かわいい末っ子じゃない」
そこまで言ってから、佳奈は言葉を継ぎ足した。
「ああ、でも……単純そうに見えて、意外に周りを見てるところもあるしね。真奈が『緊張する』って言いたいことも、分かる気がするよ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
真奈は包丁を置き、手を拭いて佳奈に向き直った。その瞳には、切実な問いが浮かんでいた。
「一緒になにかしてみたら」
「それって……運動?」
「おお、それいいかも。結菜は身体を動かしてるときは、余計なことを考えない『素』の状態だから。結菜のことを知るには、それが最適解かも」
それは長年、一番近くで結菜を見てきた姉だからこそ言える助言だった。
「結菜はね」
佳奈は目線を上げ、言葉を丁寧に選ぶようにゆっくりと話した。
「真奈と2人っきりになっても、緊張してないし無理もしてないと思う。家族だし。……真奈が一方的に萎縮してるだけだよ。ただ自然にそこにいるのを感じる。結菜にとってそれだけで心地がいいんじゃない」
その言葉は、真奈の凝り固まった肩の力をふっと抜いてくれた。
佳奈はそれ以上、具体的な指示は出さなかった。真奈と結菜で関係を築くべきだと分かっていたからだ。ただ一つだけ、優しく付け足した。
「うまくやろうとしなくていいよ。ちゃんと見てるから、結菜は。真奈がなにかしなくても、相手を見る気持ちがあれば、結菜はそれだけで全部感じ取るよ」
⸻
真奈は自室に戻り、イスにに座り考える。
私はどうして結菜のこと悩むんだろ。
結菜のこと分かってない……。でも避けてはいない。
明るいのは知ってる。それ以外は……。
結菜と2人でできること考えよう。
運動……何がいいだろうか。
バスケは、違う。走るのも違う。キャッチボール……頭を振る。慣れるまでに時間がかかりすぎる。
勝ち負けではなく、ただ一緒にいて、同じ速さで時間が流れるような、そんなものがいい。
――顔を、ちゃんと見られるもの。
そこでふと思い出したのが、体育の授業でやったバドミントンだった。
ネット越しに向かい合って、ラケットを構える。シャトルは羽のように軽く、空中で一瞬だけ静止するような「間」がある。急がなくてもいい。強く振らなくても、ラリーは続く。
これなら、顔を合わせてできる。目線も、呼吸も、あの滞空時間の中で自然と揃うはずだ。うまくいけば、ラリーの合間に言葉も挟めるかもしれない。
たとえ話さなくても、シャトルを介して空気が通い合う気がした。
それくらいの距離が、今はちょうどいい。真奈は上を向き、決心した。
⸻
翌朝、真奈は結菜に昼休みにバドミントンをやろうと誘った。結菜は一瞬だけ驚いたが、それから「いいよ」と短く答えた。
⸻
昼休みの体育館は、熱気と音に溢れていた。フットサルの激しい足音や、バスケットボールが床を叩く重い音が反響している。
2人はコートの端に立った。ネットは張らない。点数も決めない。ただ、ラケットとシャトルを持って向かい合う。
「じゃあ、いくよ」
「いいよ」
結菜は力を抜き、まるで散歩にでも出るかのような自然な構えを見せた。
真奈が打ち上げた最初のシャトルは高く上がり、結菜の真上に落ちていく。結菜は真上を見上げて距離を測り、足をずらしてタイミングを合わせた――が、空を切る音だけが響き、シャトルは結菜の頭の上にぽとりと落ちた。
「ちょっと結菜っ!?」
真奈は思わず吹き出した。運動神経抜群の結菜が、こんなふうに空振りをするのが意外で、面白くてたまらなかった。
「そんなに笑わないでよ。久しぶりだったから、距離感がずれてただけ」
結菜は平然としていたが、どこか楽しげにシャトルを拾った。
「こっちからいくよ」
結菜がふわりとシャトルを打ち上げる。真奈はそれを高く打ち返した。
ラケットの乾いた音が響く。これは試合ではない。相手を負かす必要もない。
結菜が返した緩い一打に、今度は真奈が空振りをした。
「あ……」
「クフッ、お姉ちゃんも人のこと言えないじゃん」
結菜が言った「お姉ちゃん」という呼び方は、周りに人がいる時だけの呼称だ。その一言と空振りが重なって、真奈の胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「そんな時もあるでしょ」
そう言いながら、真奈はシャトルを拾い、打つ。
2人とも自然と視線が上を向く。相手が打ちやすいように、山なりの軌道で返し合う。
ラリーが続く。続くこと自体が目的であるかのように。
その中で、真奈はあることに気づく。結菜の返球は、いつも真奈の正面か、少し手前の「一番取りやすい場所」に落ちる。無理をさせない高さ。走らせない距離。
(私に合わせてる……?)
そう思った瞬間、真奈のラケットが少しだけ前に出すぎた。シャトルはまっすぐ、速い軌道で落ちていく。結菜は迷わず踏み込み、床ぎりぎりのところでバックハンドを使ってすくい上げた。低い軌道で、シャトルは再び真奈の手元に届けられる。
「ごめん、今の……よく取れたね」
「ん、大丈夫。これくらいなら取れるよ」
何でもないことのように結菜は言うが、その一連の動きに迷いは一切なかった。真奈は結菜の身体能力の底深さを、改めて思い知らされる。
「なら、もうちょっと攻めてもいい?」
「いいよ」
ルール無用のラリー。真奈はシャトルを高く上げ、角度をつけて打つ。結菜は一歩下がり、余裕を持ってそれを受ける。返ってきたシャトルは軽く、真奈の真上あたりできれいに落ちる。それは、どこまでも温かなショットだった。
真奈は少しずつ左右に打ち分ける。結菜はまっすぐ返すことで、真奈を動かさないように配慮していた。その代わり、結菜自身は左右に振られることになる。それでも結菜は追いつき、確実にシャトルを返す。
一瞬届かないかと思う距離でも、結菜は躊躇しない。床を蹴り、踏み込み、振り、返す。
(結菜は優しいし、いつも全力で、諦めないんだね)
けれど、その考えは次第に形を変えていく。結菜は、ただ優しいから合わせているのではない。相手がどう動き、どこまでならラリーを続けられるか、すべてを「分かった上」で打っているのだ。
真奈の反応がわずかに遅れる。急いで打ったシャトルが浅く真奈のコート側に落ちた。結菜は一歩出かけて――止まった。
「……あ、ごめん」
「ううん。今のネットかなと思ってさ。自分でもわからないけど、線、引いちゃうんだよね」
「それが結菜なんだね」
ルールがない場所にさえ、自分なりの「線」を引いて誠実に守る。それが結菜の輪郭なのだと、真奈は理解し始めていた。
シャトルを追いながら、結菜は自分の呼吸を聞いていた。体育館の天井は高く、音が少し遅れて返ってくる。
真奈の打つ球は、ラリーを重ねるごとに安定してきている。最初よりも迷いが消え、腕の振りが大きくなっていた。
(あ、まー姉高く上げようとしてる――)
次に来る球の高さも、落ちる位置も、結菜には打たれる前から見えていた。少し前のなら、本能的に鋭く打ち返していただろう。
結菜は、自分がどこまで届くかを知っている。
バスケでも、走るときでも、身体をどう使えば、どこまでいけるか。どの一歩を出せば、流れを変えられるか。
真奈がサーブを構える。さっきよりも慎重な足幅、ラケットの角度。
(あ、今考えてる)
その真剣な眼差しが分かって、結菜の胸の奥は温かくなった。
次のサーブは真奈にしては控えめな高さだった。結菜は一歩前に出て、それを拾う。力を込めず、角度もつけず、ただ返す。シャトルは真奈の正面、高さもちょうど良い、一番優しい場所に落ちた。
真奈は動かずにそれを打ち返し、その瞬間、ほんの少しだけ笑った。ネットがなくて表情がよく見える。
それを見て、結菜は思う。
(ああ、今のがよかったんだ)
結菜は強く打てることを知っている。本気を出せば、相手に触れさせることさえさせない一打を放てる。
でも、今はそれをしない。する必要もない。
この時間は、勝つための時間でも、強さを誇示するための時間でもない。
2人で同じ天井を見上げ、同じ速さでシャトルを追いかける。
真奈が少しずつリズムを掴んでいく。打つ前に一瞬の間を作る癖、落ちてくる位置を読む目線。
結菜はそれを壊さないように、隣を歩くときに相手が息を切らさない程度の速さを選ぶように、ラリーを続けた。
(……楽しい)
ふっと、そんな感覚が広がる。練習でも勝負でもない、ただ続いていること自体が嬉しい。
シャトルが短く落ちる。真奈のミス。結菜は一瞬だけ迷い、そして足を止めた。拾える。でも、今は拾わない方がいい。
シャトルが床に静かに落ちる音がして、ラリーが途切れた。
「……今の、惜しかったでしょ」
「うん、あと少し伸びてれば返せたんだけどね」
真奈の苦笑いに短く答え、結菜はシャトルを拾いに行く。次に繋ぐラリーのために。
選ぶのは、いつだって自分だ。結菜はラケットを握り直し、再び静かに構えた。
⸻
体育館の2階で佳奈は壁にもたれて立っていた。昼休みの後半、散歩がてらに2人の様子を見に来た。
湿り気を含んだパンッと弾ける音が飛んでいた。
視線の先では、コートの端で真奈と結菜が向かい合っている。ネットも点数もない、曖昧で、けれど温かな距離。
声はかけない。呼ぶ理由もない。
真奈が打ち、結菜が返す。山なりの、続けるための美しい軌道。
(……ああ)
佳奈はすぐに気づいた。結菜は真奈に合わせている。
けれどそれは、決して手を抜いているという意味ではない。
(やっぱり……)
結菜は分かっているのだ。自分がどれほど動けるかも、相手がどこまでなら安心して打てるかも。
「力」を使わないという選択を、自分の意志で行っている。
真奈が何かを言い、結菜が首を振る。表情までは読み取れない。
それでも佳奈には確信があった。結菜はこの時間を、心から楽しんでいる。勝つことでも見せることでもなく、「2人で続けること」を何よりも大切にしている。
佳奈は満足したように視線を外し、背を向けた。
声をかけようかとも思ったが、やめた。邪魔をするべきではない。
この時間は、間違いなくあの2人のものなのだから。
佳奈が体育館を去る足音に混じって、乾いたラケットの音だけが、背中の向こうでいつまで続いていた。
シャトルは高く上がり、ゆっくりと結菜のコートへ向かった。




