まだ梅雨は明けていなかった
午前中から降り続く雨は、午後になると細かくなった。
音もなく降っているようでいて、実際には傘に絶えず当たり続けている。
アスファルトは黒く濡れ、静かな雨が落ちるたびに、水たまりの細い波紋が静かに揺れていた。
3人で並んで帰っていた。前を歩くのは結菜。その少し後ろを、真奈と私が並んで歩く。
「いいよ、うん、それって夏休みに入ってから? 初日からやるの――」
結菜の背中は、いつも通りまっすぐだ。傘の角度も一定で、迷いがない。電話の会話に集中して前しか見ていないんだろうな、と思う。
狭い路地に入る。行く手には大きな水たまりができていた。歩道はない。嫌な感じがする。
(あ、これ……)
足が自然と緩む。結菜は、そのままの速さで進んでいく。
そのとき、背後からエンジン音が近づいてきた。雨のせいで音が反響し、距離がつかみにくい。
振り返ると、白い車。思ったより速い。減速の気配がない。このままだと、結菜が水たまりの脇を歩くタイミングと、車が通るタイミングが重なってしまう。
(来る)
結菜、気づいてる……?
気づいてない――。
声をかける時間はなかった。真奈と目が合う。ほんの一瞬。それだけで十分だった。
2人で同時に踏み出す。結菜の横に体を寄せ、傘を傾けて側面を覆う。
次の瞬間、タイヤが水たまりに突っ込む音がした。
ばしゃっ、という湿った音とともに、冷たい水が跳ね上がる。カーディガンの袖が一気に重くなり、スカートの裾に水が叩きつけられた。顔にも髪にも水が掛かった。
車は、そのまま何事もなかったように走り去っていく。
佳奈は小さくこぼす「もう本当に最悪」文句の一つや二つ言いたくなる。
結菜は無事だった。服も靴も、ほとんど濡れていない。スマホを顔に当てたままの結菜が、振り返り少し遅れて目を見開く。
「……え、なに?」
その顔を見て、私は小さく息を吐いた。やっぱり気づいていなかった。
真奈は無言でスマホを取り出す。私は傘を戻し、真奈を見る。
「ねぇ、今の見た?」
「ばっちり。ナンバー覚えた」
真奈は画面を操作しながら言う。
「警察に電話する」
「え、えっ?」
結菜はまだ状況が飲み込めず、私たちを見比べている。
真奈が少し離れた場所で通話を始める。私は結菜に向き直った。
「結菜。もう少し、周り見たほうがいいよ」
「……はい?」
「さっきの車、結菜は泥はねされるところだった」
自分の袖を示す。濃い色のカーディガンが、さらに暗くなっている
「ほら。私と真奈、びしょ濡れでしょ。しかも顔も髪まで」
結菜はようやく状況を理解したように、私たちを見る。制服の色が変わっていることに、遅れて気づいた顔だ。
「結菜が前を歩いてたから」
私は続ける。
「このまま行ったら、結菜も同じになってた」
結菜は少し黙ってから、小さく言った。
「……ごめん。前しか、見てなかった」
その言葉に、怒る気にはならなかった。分かってやっていたわけじゃない。ただ、視界が狭くなっていただけだ。
悪いのはあの車だ。路地をあんなスピードで走るなんて非常識だ。
真奈が通話を終えて戻ってくる。
「通報はした。場所と時間も伝えた」
それから結菜を見る。
「怪我なくてよかった」
私もうなずいた。それが一番だ。
3人で歩き出す。今度は、結菜が少しだけ歩く速度を落とした。
家に着く頃には、袖の冷たさがじわじわと体に染みてきていた。
⸻
玄関で靴を脱ぐと、やっぱりひどい。水たまりの跡がそのまま残っている。
「……これは、撮っておかないと」
真奈が言い、スマホを構える。2人で濡れた靴と制服を撮影する。
「証拠、ってやつ?」
結菜が不安そうに聞く。
「念のため」
真奈は淡々としている。
私はそのまま洗面所に向かい、タオルで顔と髪を拭き、濡れた服を脱いで着替えた。
「お風呂、沸かすね」
スイッチを入れると、湯張りの音声が家に広がる。それだけで、少し気持ちが緩んだ。
「冷えるから。結菜も、あとで入って」
「……うん」
キッチンでは、真奈が濡れた制服のままコーヒーを淹れている。タオルで拭いたとはいえ、まだ湿っている。湯気と一緒に、苦い香りが立ち上った。
カップを手に取り、ミルクを入れて一口飲む。体の内側から、ゆっくり温まっていく。
「落ち着くね」
ぽつりと言うと、真奈が小さくうなずいた。
結菜は、少し迷ってから口を開く。
「……私さ、ほんとに気づいてなかった」
私と真奈は、黙って耳を傾ける。
「水たまりも、後ろから来る車の音も。前しか見てなくて……」
私は、そっと注意を促した。できるだけ優しい声で。
お風呂が沸いた音が鳴る。
先に被害の大きかった真奈が入り、その後に私が続く。
「次からは、自分で気づけるようにね」
「……うん」
脱衣所で服を脱ぎながら、私は結菜の顔を思い出す。
結菜は、きっと次からは気をつけるだろう。
それでいい。
⸻
結菜は、最後にお風呂に入った。
脱衣所に入り、自分の制服を見る。ほとんど濡れていない。
シャワーのお湯を手に当てると、温かさに肩の力が抜けた。
(もし、2人がいなかったら)
考えてしまって、少し怖くなる。
湯船に浸かりながら、結菜は思い出す。迷いなく前に出てきた姉たちの背中。
(守られてたんだ)
今まで、そんなふうに意識したことはなかった。
前を向いて歩くのは、悪いことじゃない。
でも、周りが見えていないのは、危ないことなんだ。
(佳奈ちゃんもまー姉も、濡れちゃったのに)
誰も怒らなかった。
ただ、次は気をつけてねと言ってくれた。
お風呂から上がる頃には、胸の奥が少しだけ落ち着いていた。
(次は、ちゃんと見よう)
背後の音。足元の感触。前だけじゃない、路地のすべて。
それは、怖がるためじゃない。
最悪からこの身を守るためだ。
結菜は、タオルを握りしめながら、静かに思った。
――ちゃんと、ひとりでも歩けるように。
脱衣所を出ると、リビングから佳奈と真奈の声が聞こえた。
いつも通りの、穏やかな会話。
私は、その方へ歩いていく。
雨はまだ降っているけれど、世界は、さっきより少し広く見えるように感じた。




