私には、パンがある
まだ将来はぼんやりしているけれど、
佳奈には、手のひらで確かめられる「好き」があった。
土曜日の朝、佳奈は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。時計を見ると午前6時。いつもより1時間早い。
そっとベッドから抜け出して、階段を降りる。リビングはまだ静かで、朝日が窓から差し込んでいた。
台所に入り、冷蔵庫から昨夜のうちに用意しておいた生地を取り出す。一次発酵を終えた生地は、ボウルの中でふっくらと膨らんでいた。
「よし」
小さく呟いて、佳奈は作業を始めた。
パン作りを始めたのは半年前。きっかけは、通学路にある小さなパン屋さんだった。毎朝焼きたてのパンの香りが漂ってきて、いつの間にか「自分も作ってみたい」と思うようになっていた。
最初は本当に下手だった。生地がベタベタになったり、固くなりすぎたり。でも諦めずに続けているうちに、少しずつコツがわかってきた。
生地を8等分にして、丸めていく。この作業が好きだ。手のひらで優しく転がすと、生地が丸くまとまっていく感触が心地いい。
「ん……?」
背後から声がして、振り返ると結菜が眠そうな顔で立っていた。
「結菜、早いね」
「なんか……パンの匂いがして」
「まだ焼いてないよ」
「あれ、夢だったのかな」
結菜がテーブルの椅子に座り、あくびをする。
「もうちょっと寝てていいよ」
「いい。見てる」
佳奈は成形した生地をオーブンの発酵機能で二次発酵させることにした。その間、結菜はテーブルに突っ伏してうとうとしている。
「佳奈、将来パン屋さんになるの?」
不意に結菜が顔を上げて聞いた。
「えっ……」
「だって、こんなに頑張ってるし」
「どうかな。なりたいとは思ってるけど」
「なれるよ。佳奈ちゃんのパン、おいしいもん」
結菜がそう言って、また突っ伏した。
パン屋になりたい。その気持ちは確かにある。でも、まだ1年生だし、これから先どうなるかわからない。真奈みたいに確固たる「姉」という立場があるわけでもない。結菜みたいに得意な運動があるわけでもない。
ただ、パンを作るのは好きだ。
タイマーが鳴って、二次発酵が終わった。生地はさらに一回り大きくなっている。
「いい感じ」
オーブンを予熱して、生地に卵液を塗る。真奈が切るのが得意なように、私にもきっと得意なことがあるはず。そう思いながら、丁寧に刷毛を動かす。
「何作ってるの?」
「ロールパン。シンプルなやつ」
「チョコとか入れないの?」
「今日は基本を確認したいから」
結菜が「ふーん」と言って、また目を閉じた。
オーブンに生地を入れる。設定温度は190度、15分。この待ち時間も好きだ。少しずつパンが膨らんでいく様子を、オーブンの窓から眺めるのが楽しい。
「いい匂い……」
5分ほど経つと、パンの香りが台所に広がり始めた。その匂いに誘われたのか、真奈が2階から降りてきた。
「佳奈、パン焼いてるの?」
「うん。朝ごはん用」
「すごい。もう焼けそう?」
「あと10分くらい」
真奈が台所を覗き込む。オーブンの中では、ロールパンが少しずつきつね色に色づいていた。
「ねえ佳奈、いつからこんなに上手になったの?」
「上手くなんてないよ。まだまだ」
「そんなことないって。私、火を使う料理ダメだから、余計にすごいと思う」
真奈がそう言って笑った。いつもは「料理を諦めない」と言い張る真奈が、珍しく自分の苦手を認めている。
「真奈は刺身があるでしょ」
「まあね。でも、朝から刺身は食べないし」
「それもそうだね」
2人で笑っていると、書斎のドアが開いて父が顔を出した。
「おお、いい匂いだな」
「佳奈がパン焼いてるの」
「手作りパンか。いいな。コーヒー淹れようかな」
父が台所に入ってきて、コーヒーメーカーを準備し始める。
「お父さん、今日は仕事休み?」
真奈が父に尋ねる。
「うん。でもクロスワードが残ってる」
「また解けなかったの?」
「最後のマスがどうしてもわからなくてね」
父が困った顔をする。いつものことだ。
タイマーが鳴った。佳奈がオーブンを開けると、きつね色に焼けたロールパンがふっくらと並んでいた。
「わあ……」
真奈が感嘆の声を上げる。
「成功だね」
「うん」
佳奈は焼きたてのパンを網に移した。まだ熱いパンから湯気が立ち上る。
「結菜、起きて。焼けたよ」
「ん……」
結菜がゆっくりと顔を上げた。目をこすりながら、焼きたてのパンを見つめる。
「おいしそう……」
「ちょっと冷ましてから食べようね」
佳奈がテーブルにパンを運ぶと、家族が自然と集まってきた。真奈がバターとジャムを用意し、父がコーヒーを淹れる。結菜は相変わらず眠そうだけれど、パンから目を離さない。
「お母さんは?」
「夜勤明けで寝てる。お昼起きるって言ってた」
真奈が答えた。
「じゃあ4人で食べよう」
少し冷めたところで、佳奈が一つパンを取って割ってみる。中はふわふわで、湯気が立ち上った。
「いただきます」
4人で手を合わせる。
佳奈が一口食べると、ほんのり甘いパンの味が口いっぱいに広がった。外はカリッと、中はふんわり。上手く焼けている。
「おいしい」
真奈が目を細めた。
「本当においしい。パン屋さんのみたい」
「そこまでじゃないって」
「いや、本当に。佳奈、才能あるよ」
父もうなずいた。
「将来パン屋になるのもいいんじゃないか?」
「それも考えてる……」
佳奈は照れくさくなって、また一口パンを食べた。
「でも佳奈、パン屋さんって朝早いよね」
結菜が心配そうに言った。
「そうだね。4時とか5時に起きるって聞いたことある」
「大丈夫なの? 佳奈、朝弱いのに」
「うっ……」
確かに普段は朝が苦手だ。ギリギリまで寝ていたいタイプ。
「でも、好きなことなら起きられるかも」
「今日だって早起きしたんでしょ?」
「うん。6時」
「すごいじゃん。佳奈にしては」
真奈が笑った。
「まあ、まだ1年生だし。これからゆっくり考えればいいさ」
父がコーヒーを飲みながら言った。
「そうだよね」
佳奈はもう一つパンを取った。バターを塗って、一口。温かいパンとバターの塩気が絶妙に合う。
「ねえ佳奈、今度チョコパンも作ってよ」
「いいよ。来週作ろうか」
「やった」
結菜が嬉しそうに笑った。
「私はあんパンがいいな」
「真奈、あんパン難しいんだよ。包むの大変だし」
「じゃあ練習になるでしょ」
「まあ……そうだけど」
「私も手伝うよ。あんこ包むくらいならできるし」
「本当?」
「うん」
真奈が優しく笑った。
「じゃあ今度一緒に作ろう」
「約束ね」
窓の外では、初夏の朝日がだんだん明るくなっていく。土曜の朝、家族と囲む食卓。焼きたてのパンと淹れたてのコーヒー。
佳奈はパンを食べながら思う。パン屋になれるかどうかはまだわからない。でも、家族においしいと言ってもらえるパンを作れるようになった。それだけでも十分嬉しい。
「そういえばお父さん、クロスワードの問いはなに?」
真奈が聞いた。
「ええと、『春に咲く花、5文字』なんだが」
「チューリップは?」
「6文字だろう」
「じゃあスミレとか」
「3文字だ」
「難しいね」
三姉妹が顔を見合わせる。
「サクラソウとか?」
佳奈が言ってみた。
「ここがエアズロックだから、おお、それだ! さすが佳奈」
「たまたまだよ」
父が嬉しそうに新聞に書き込む様子を見て、佳奈は微笑んだ。
真奈には刺身がある。結菜には運動がある。そして私には、パンがある。
それぞれの得意なこと。それぞれの好きなこと。
焼きたてのパンを頬張りながら、佳奈は静かに思った。今日も、いい一日になりそうだ。




