金曜日の刺身
今回は真奈の特技が光ります。
金曜日の刺身
「ただいま」
「おかえり」
金曜日の夕方、佳奈が玄関を開けると、台所で真奈が刺身を引いていた。包丁が静かなリズムでよく動いている。
リビングのソファで、結菜が数学の問題集を広げたまま、何やら真剣な顔でスマホを見ている。
「結菜、勉強してるの?」
「うん。でも今はプロテインバー選んでる。糖質10グラム以下で、タンパク質15グラム以上のやつ
「……勉強は?」
「してるよ。でもおやつも大事だし」
「……おやつへの執着は認めるけど、ノート白紙だよ」
佳奈が鞄を置いて台所を覗くと、真奈がまな板の前でアジを捌いていた。三枚におろされた切り身が、見事なまでに均一な厚さで並んでいる。横にはマグロとイカも置かれていた。
「真奈、それ……」
「お刺身。今日スーパーでアジが安かったから。それとマグロとイカも」
真奈の手つきに迷いはない。包丁が滑らかに動き、薄造りにされたアジが次々と皿に盛られていく。マグロは厚めの切り身に、イカは半透明の薄さに仕上げられていった。
「すごい……」
「うん? ああ、切るのは得意だから。……よし、次は『土台』ね」
真奈は手早く大根を手に取ると、流れるような手つきで桂剥きを始めた。薄い大根の帯が、指先からするすると溢れ出す。それを細く刻んで冷水に放つと、シャキッと立った純白の「つま」ができあがった。
続いて、鮮やかなオレンジ色のニンジンを極細の「けん」に仕立てていく。白と橙が混ざり合い、それだけで食卓がぱっと華やぐ。仕上げに、冷蔵庫から出したばかりのみずみずしい「大葉」を、刺身の間に差し込んでいった。
「うわあ、綺麗……」
「白とオレンジに、大葉の深い緑。このコントラストがないと、せっかくの刺身が死んじゃうでしょ?」
真奈は満足げに、皿の上に「風景」を描いていく。
中央には紅いマグロ、その横に透き通るイカ。そして端には、銀色に輝くアジ。
それらが真っ白な大根と鮮やかなニンジンの上に鎮座し、大葉の緑が全体を力強く引き締めている。
佳奈は複雑な気持ちでその様子を見つめる。料理はからっきしなのに、包丁さばきだけは本当に一級品なのだ。
「まー姉、今日はお刺身?」
結菜がリビングから顔を出す。
「そう。今日はアジとマグロ、イカの三種盛り」
「じゃあ安全だね」
「安全って……」
真奈が少し不満そうな顔をした。
「だってまー姉の料理、火を使わなければ完璧だもん」
「火を使う料理だって、ちゃんと作れるようになりたいんだけど……」
佳奈は冷蔵庫からお茶を取り出しながら、姉の横顔を見る。
真奈は本当に諦めが悪い。というか、諦めるということを知らない。
だからこその頼りになる姉なのだけれど。
「そういえば、お父さんは?」
「書斎。今日締め切りらしい」
「お母さんは?」
「夜勤。もう出かけた」
つまり今夜は三姉妹だけ。
真奈が張り切るのも無理はない。
真奈が少しだけ肩の力を抜いて、それでいて「姉」として張り切る時間。
「ご飯まだじゃん、私がご飯炊くね」
「ありがとう、佳奈」
真奈が笑顔で答える。その笑顔を見て、佳奈は少しほっとした。
以前の真奈なら、きっと「私だってご飯くらい炊ける」と張り合っていただろう。でも今は違う。
家族にはそれぞれ得意なことと苦手なことがある。
真奈は切るのが得意で、火を使うのは苦手。
「ねえ、薬味は何がいい?」
「わさび」
「大葉も欲しい」
リビングから結菜の声が飛ぶ。
「大葉はもう敷いてる」
大葉の上にイカを置く様子は、まるで花を活けているようだった。
「佳奈、味噌汁作ってくれる?」
「いいよ。何入れる?」
「豆腐とワカメで」
「オッケー」
佳奈が味噌汁の準備を始めると、結菜もリビングから台所に入ってきた。
「私は何すればいい?」
「テーブルの用意、お願い」
「はーい」
結菜が食器棚から醤油皿と茶碗とお椀、そして箸を並べていく。
その背中を見ながら、佳奈はふと思った。
「結菜、最近また背伸びた?」
「えっ、そう? 測ってないからわかんない」
「絶対伸びてるよ。佳奈より5センチくらい高くない?」
真奈が楽しそうに言う。
「そんなに!?」
「冗談。でも3センチくらいは違うかも」
佳奈は少しムッとしたが、すぐに笑ってしまった。
前だったら本気でへこんでいたはずなのに。
「まあいいよ。結菜は運動好きだし、伸びるよね」
「佳奈も伸びるよ。女子でも高校から伸びる人いるって」
「そうだといいけど」
3人で手分けして夕食の支度を進める。
真奈の刺身、佳奈の味噌汁とご飯、結菜のテーブルセッティング。
それぞれが、できることをやる。
「できた!」
真奈が満足そうに、刺身の盛り合わせを持ち上げた。
アジの薄造り、マグロの厚切り、イカの透き通った薄さ。
まるで料亭のような一皿だった。
「すごい……」
「これ、写真撮ってもいいレベルだよ」
結菜がスマホを構える。
「ちょっと、刺身を撮るの?」
「だってインスタ映えするもん」
「インスタやってないでしょ」
「やってないけど、映えは大事」
3人で食卓を囲む。
ご飯と味噌汁、そして真奈の刺身。
シンプルだけれど、どこか温かい。
「いただきます」
3人で手を合わせる。
佳奈がアジを一切れ口に運ぶと、甘みがふわりと広がった。
マグロは濃厚で、イカはコリコリとしている。
「おいしい、アジと大葉すごい合うね。わさびも安定の美味しさ」
「でしょ?」
真奈が嬉しそうに笑う。
「真奈、やっぱり刺身職人になればいいのに」
「職人……それもいいかも」
「本気にしないでよ」
佳奈が慌てると、真奈は「冗談よ」と笑った。
そのとき、書斎のドアが開き、父が顔を出した。
「おっ、夕食の時間か」
「お父さん、仕事終わったの?」
「もう少し。ひと段落して、休憩」
父は刺身を見るなり目を丸くした。
「これ、真奈が切ったのか?」
「うん。今日はアジとマグロ、イカ」
「すごいな。料亭みたいだ」
「でしょ? まー姉は刺身だけは本当に上手なんだよ」
結菜が誇らしげに言う。
「じゃあ一切れもらっていい?」
「いいよ」
父は箸を伸ばすと、透き通るようなアジの薄造りに、たっぷりの薬味を添えて口に運んだ。
「……っ、これはすごい。身が締まっていて、甘いな」
目を細めて味わう父の表情を見て、真奈の頬がゆるむ。
「醤油のつけ具合も、この厚みだからこそ引き立つ。真奈、この『引き』の技術は、ちょっとやそっとじゃ真似できないぞ」
「お父さん、褒めすぎだよ」
「いや、本当だ。このアジを食べると、一週間の疲れが吹き飛ぶよ」
父は嬉しそうに、今度はマグロに手を伸ばした。
「なら良かった……」
真奈が照れたように言う。
「刺身専門店『真奈』とかどうだ?」
「やめてよ、恥ずかしい」
そう言いながらも、真奈の顔は赤く、どこか嬉しそうだった。
「でも真奈、次は煮魚にも挑戦したいんでしょ?」
「うん。でも……やっぱり刺身も好きかな」
「好きなことを極めるのは、いいことだよ」
父はそう言って、また箸を伸ばす。
「お父さん、食べすぎ」
「いいじゃないか。こんなにおいしいんだから」
父は三切れほど食べて満足して、コーヒーを淹れて、書斎に戻って行った。
窓の外では、春の夕暮れが静かに深まっていく。
金曜日の夜、三姉妹が囲む食卓。
特別なことは何もない。でも――。
「ねえ、明日の朝ごはんは?」
「パンがいい」
「私も」
「じゃあパンね。真奈、パンは焼かないで」
「……わかってる」
少し拗ねた顔で、真奈はマグロを一切れ口に運んだ。
佳奈は姉の横顔を見つめながら思う。
真奈は、料理が上手なわけじゃない。
でも、刺身を切らせたら本当に見事で、
包丁を動かすその横顔は、いつだって家族のことを考えている。
三姉妹の夜は、笑い声とともに、ゆっくりと更けていった。




