沢山の約束
ドーラは風が収まると少しだけ落胆の色を見せた。
夜風は望む答えをくれなかったみたいだ。
でも名前がわからないのなら、同じようにすればいい。
「僕に名前を付けてくれないかな」
「…わしが付けてよいのじゃ?
じゃって、忘れてるだけで本当の名前があるはず…」
「思い出すまででもいい。
僕も、ドーラに名前を付けて欲しい」
ドーラは最初こそ躊躇したが、再び空を見上げながら考え始めた。
また風が吹き、木々のざわめきに集中するように目を閉じる。
それからあまり間を置かず"主"(ヌシ)と、そう口にした。
「主?それには意味があるの?」
「わしの好きな言葉じゃ」
ドーラは魔女から森の主だと言われたことがあるそうだ。
意味を聞いたドーラは主という言葉を気に入っており、
他人を指す言葉も御主にしていたと教えてくれた。
「御主は相手を指す言葉らしいから、名前じゃないから…。
わしもちょっと変えて、主って呼びたいのじゃ」
「僕、そんなに立派な存在じゃないと思うけど、主って名乗っていいのかな…?」
主の意味を聞くと森で一番強いとか、そんな意味だった。
ドーラには似合うかもしれないが、僕には不釣り合いに思えた。
「…もしかして、気に入らないじゃ?」
「…いや!」
ドーラの不安そうな声にとっさに大声で否定してしまう。
ドーラが決めてくれたのだから不釣り合いでもいいじゃないか。
今日から主として生きてみようと、強く思った。
「気に入ったよ。今日から僕は主だね」
「よかったのじゃ!
そろそろ冷えるから中に入るのじゃ。…えと、…ぬ、主…」
「そうだね、ドーラ」
「…名前を呼び合うのは、ちょっと照れるのじゃ…」
お互いに決めた名前で呼び合うのは、確かに少し照れがある。
でも名前を貰った事で、どこか認めて貰った気持ちになれて、それが心地いい。
少し浮ついた気分で大樹に入ると、外は暗いのに中はなぜか明るかった。
その理由を尋ねると、玄関近くに置いてあったガラスの容器を見せてくれた。
「これも覚えてないじゃ?
これは使ってない予備じゃけど、ヒカリゴケじゃ」
「ヒカリゴケ?」
中には白い苔の乾燥したものが入っていた。
もしこれを使う場合は水を入れて成長させないといけないそうだ。
その成長した苔に日差しを浴びせておくと、暗くなった時に勝手に光ってくれるそうだ。
そして、その苔の真似を大樹にしてもらっているらしい。
「そんな感じの事を魔女が説明してくれたんじゃけど…。
大樹についてはわしも詳しく知らないのじゃ」
「でもなんとなくわかった」
僕が脱いだ靴をドーラは丁寧にそろえ直した。
それから水で手を洗って、水を飲むように指示される。
「外から帰ってきたら、必ず手を洗うじゃ。
それと水分補給は大事じゃって、魔女が言ってたのじゃ」
「わかった」
ドーラは魔女と沢山の約束をしていると言った。
靴を揃えて並べる事もそうだし、手洗いもそうだ。
そうした沢山の約束を守りながら暮らしていると教えてくれた。
「ドーラが守るなら僕も守りたい。…僕にも約束を教えてくれる?」
「もちろんじゃ!」
ドーラは嬉しそうに色々と教えてくれた。
難しくて意味がよくわからないこともあったけど、それは追々でいいと言ってくれた。
約束を教えるついでに、改めて大樹も案内してくれた。
この大きな広間にテーブルと調理場があって、奥にはお風呂とトイレがあるそうだ。
ただ、そのどちらもがわからない。
「お風呂は知らないじゃろうけど、トイレもわからないじゃ?
えーと、そうじゃな…なんて言えば…。まぁ、実際に行って見てみるのじゃ」
案内された小さな部屋で詳しい説明を手振り身振りも加えて受ける。
とにかく催したら服を脱いで此処に座ればいいそうだ。
忘れない事は最後に必ず葉で拭いて、手も必ず洗う事。
次に案内された部屋はお風呂と呼ばれる場所で、湯気が立ち込める部屋だった。
大樹が吸った水を日差しで温めてずっと流していると教わった。
「ここで身体を洗うのじゃ。
水浴びと違って温かくてすごく気持ちよいのじゃ」
ドーラがお湯に手を入れて、もう片方の手で僕を手招きする。
近づいて僕も手を入れて見ると、これがまた気持ちが良い。
それが表情に出てたのか、案内は終わりにしてお風呂に入るように勧められた。
「…じゃ、入ってみようかな?」
「それがよいのじゃ。それならもう少し詳しく教えるのじゃ」
改めてお風呂の入り方を教わった。
ひとつ手前の部屋で服を脱ぎ、汚れた服は籠に入れる。
浴槽に浸かる前に掛け湯をして汚れを落とし、
身体が温まるまで浴槽に浸かる。
それを言葉にしながら反復し、確認してもらった。
「これであってるかな?」
「大丈夫じゃ。
何かあったら大声で呼んでくれればよいのじゃ」
そうしてドーラは部屋から出て行き、僕一人だけになった。
…。




