淡い期待
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オスの姿が見えなくなって、
なんとか我慢していた涙が、ついに溢れ出した。
その場に膝を付いて、せめて声が漏れないように口を押える。
「…ひっく…もうお別れかと思ったのじゃ…。
…よかったのじゃ…」
急に帰ると言われたから、勘違いをしてしまった。
オスが自分を置いて、一人で古巣に帰るって言ったのかと、そう勘違いした。
それを、寝起きの無防備な時に言われたものだから、心構えもしてなくて、
何一つ取り繕えず、みっともなく泣き喚いてしまった。
近くにあった服の一つを、ギュッと抱き締める。
これを洗った意味が無くならなくてよかった。
必要のなくなったこれを一人で片付けるなんて、
そんな悲しい事をしなくてすんで、本当によかった。
「…服…」
服で思い出した。
また、オスに服を渡すのを忘れている。
同じ失敗はなるべくしないようにと、魔女にもよく言われていた。
急いで服を持っていこう。
さっと顔を洗い、涙で濡らした服とは違う服を手に取った。
小走りでお風呂へと急ぎ、扉の前で立ち止まる。
この前、オスのアレを見てしまった時にオスは恥ずかしそうだった。
だから今度は軽く扉を叩いて、外から声を掛けた。
「…主、着替えを、持ってきたのじゃけど…」
返事はない。
もう一度叩いてから、扉を少しだけ開けて中を覗く。
オスの姿は無いけど、ちゃんと脱いだ服はあった。
そっと脱衣所に入って、目立つ場所に服を置いた。
これで、とりあえずするべき事は済んだ。
後はオスが戻ってくる前に、いつもの自分に戻るだけ。
部屋を後にしようと、扉に手を掛けたところで考え直す。
きっと、オスが帰ってしまう日は必ず来る。
それが今日じゃなかっただけで、明日かもしれない。
なら、その瞬間まで、できるだけ一緒に過ごしたい。
それがたとえ、魔女との約束を破る事になっても、
自分が、どうなったとしても。
何度も深呼吸を繰り返して、今度は浴室の扉を叩く。
魔女は、オスの近くで水浴びをするなと何度も言った。
オスの本能を刺激して、襲われる確率がものすごく上がるそうだ。
でも、どうしても今は離れたくない。
「ドーラ?どうしたの?」
「着替え、持ってきたのじゃ」
「あ、ごめん。また忘れちゃったね」
「…。…わしも、一緒に入ってよいじゃろうか…」
「お風呂に?いいよ」
許可が出たので、扉を開く。
浴室に足を踏み入れると、オスの匂いで充満していた。
オスと目が合うと、少し恥ずかしそうに笑っている。
勝手に傷ついていた心が、ほぐされていく。
それからは、一応オスの方を見ないように気を遣い、身体を流した。
そしていよいよ、同じお湯に浸かる。
色々、話したい事があった。
でも頭が真っ白になって、言葉が出てこない。
顔が熱いし、鼓動が恐ろしく早い。
変な気分だ。
もし、今襲われでもしたら、どうなってしまうんだろうか。
仮に襲われたとしても、自分の方が明らかに強い。
でも、オスをちゃんと拒めるかは、正直わからない。
自分はどうするべきか、答えが出ない。
「ドーラ」
「…ひゃいっ!」
「…あはは、驚かせちゃったね」
慌てて返事をしたから、変な声が出てしまった。
それをオスが笑い、自分も気付けば笑っていた。
それがきっかけになって、普通に話せるようになった。
「それで、何かようじゃ?」
「…湖で泣いてたから、大丈夫なのかなって…」
「…もう、大丈夫じゃ…。
…心配してくれて、ありがとうじゃ…」
「何かあったら何でも言ってね」
その言葉に甘えて、全部聞いてしまおうかとも思った。
いつまで、大樹に居てくれるのかって。
どうしたら、ずっと大樹に居てくれるのかって。
いっそ、自分の事をどう思っているかって、聞いてもみたかった。
でも、喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。
今日はもう、平穏に過ごしたい。
核心に触れるような質問をする勇気は、
さっき一緒にお風呂に入る為に使ってしまった。
代わりに、魔女に聞いたお風呂の話をしてあげた。
昔はお風呂に入るのは贅沢だったとか。
本当は薪を使って火を焚いてスープみたいに沸かすものなんだとか。
遠い昔に聞いた、そんな何でもない話を、
オスは終始楽しそうに聞いてくれた。
「それに、今はお風呂に入る種族はあんまり居ないんじゃって」
「そうなの?こんなに気持ちいいのに?」
「大量の水と、薪も必要じゃから大変なんじゃって。
この周辺なら間違いなく大樹にしかないって言ってたのじゃ」
「そんなに珍しいんだ」
「…主は、お風呂、気に入ったのじゃ?」
「すごく気に入った。
こんなに気持ちが良いなら、忘れられないね」
本当に忘れられないなら、こんなに嬉しい事はない。
もしオスが古巣に帰ってしまっても、
時々ならお、風呂に入りにきてくれるかもしれない。
一緒に暮らせずとも、そうなれば時々会えるかもしれない。
そんな小さな淡い期待が、ささやかな心の支えになった。
…。




