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淡い期待

♢



オスの姿が見えなくなって、

なんとか我慢していた涙が、ついに溢れ出した。

その場に膝を付いて、せめて声が漏れないように口を押える。



「…ひっく…もうお別れかと思ったのじゃ…。

 …よかったのじゃ…」



急に帰ると言われたから、勘違いをしてしまった。

オスが自分を置いて、一人で古巣に帰るって言ったのかと、そう勘違いした。

それを、寝起きの無防備な時に言われたものだから、心構えもしてなくて、

何一つ取り繕えず、みっともなく泣き喚いてしまった。


近くにあった服の一つを、ギュッと抱き締める。

これを洗った意味が無くならなくてよかった。

必要のなくなったこれを一人で片付けるなんて、

そんな悲しい事をしなくてすんで、本当によかった。



「…服…」



服で思い出した。

また、オスに服を渡すのを忘れている。

同じ失敗はなるべくしないようにと、魔女にもよく言われていた。

急いで服を持っていこう。

さっと顔を洗い、涙で濡らした服とは違う服を手に取った。


小走りでお風呂へと急ぎ、扉の前で立ち止まる。

この前、オスのアレを見てしまった時にオスは恥ずかしそうだった。

だから今度は軽く扉を叩いて、外から声を掛けた。



「…主、着替えを、持ってきたのじゃけど…」



返事はない。

もう一度叩いてから、扉を少しだけ開けて中を覗く。

オスの姿は無いけど、ちゃんと脱いだ服はあった。


そっと脱衣所に入って、目立つ場所に服を置いた。

これで、とりあえずするべき事は済んだ。

後はオスが戻ってくる前に、いつもの自分に戻るだけ。


部屋を後にしようと、扉に手を掛けたところで考え直す。

きっと、オスが帰ってしまう日は必ず来る。

それが今日じゃなかっただけで、明日かもしれない。

なら、その瞬間まで、できるだけ一緒に過ごしたい。


それがたとえ、魔女との約束を破る事になっても、

自分が、どうなったとしても。


何度も深呼吸を繰り返して、今度は浴室の扉を叩く。

魔女は、オスの近くで水浴びをするなと何度も言った。

オスの本能を刺激して、襲われる確率がものすごく上がるそうだ。

でも、どうしても今は離れたくない。



「ドーラ?どうしたの?」

「着替え、持ってきたのじゃ」

「あ、ごめん。また忘れちゃったね」

「…。…わしも、一緒に入ってよいじゃろうか…」

「お風呂に?いいよ」



許可が出たので、扉を開く。

浴室に足を踏み入れると、オスの匂いで充満していた。

オスと目が合うと、少し恥ずかしそうに笑っている。

勝手に傷ついていた心が、ほぐされていく。


それからは、一応オスの方を見ないように気を遣い、身体を流した。

そしていよいよ、同じお湯に浸かる。


色々、話したい事があった。

でも頭が真っ白になって、言葉が出てこない。

顔が熱いし、鼓動が恐ろしく早い。


変な気分だ。

もし、今襲われでもしたら、どうなってしまうんだろうか。

仮に襲われたとしても、自分の方が明らかに強い。

でも、オスをちゃんと拒めるかは、正直わからない。

自分はどうするべきか、答えが出ない。



「ドーラ」

「…ひゃいっ!」

「…あはは、驚かせちゃったね」



慌てて返事をしたから、変な声が出てしまった。

それをオスが笑い、自分も気付けば笑っていた。

それがきっかけになって、普通に話せるようになった。



「それで、何かようじゃ?」

「…湖で泣いてたから、大丈夫なのかなって…」

「…もう、大丈夫じゃ…。

 …心配してくれて、ありがとうじゃ…」

「何かあったら何でも言ってね」



その言葉に甘えて、全部聞いてしまおうかとも思った。

いつまで、大樹に居てくれるのかって。

どうしたら、ずっと大樹に居てくれるのかって。

いっそ、自分の事をどう思っているかって、聞いてもみたかった。


でも、喉まで出かかった言葉を無理やり飲み込んだ。

今日はもう、平穏に過ごしたい。

核心に触れるような質問をする勇気は、

さっき一緒にお風呂に入る為に使ってしまった。


代わりに、魔女に聞いたお風呂の話をしてあげた。

昔はお風呂に入るのは贅沢だったとか。

本当は薪を使って火を焚いてスープみたいに沸かすものなんだとか。

遠い昔に聞いた、そんな何でもない話を、

オスは終始楽しそうに聞いてくれた。



「それに、今はお風呂に入る種族はあんまり居ないんじゃって」

「そうなの?こんなに気持ちいいのに?」

「大量の水と、薪も必要じゃから大変なんじゃって。

 この周辺なら間違いなく大樹にしかないって言ってたのじゃ」

「そんなに珍しいんだ」

「…主は、お風呂、気に入ったのじゃ?」

「すごく気に入った。

 こんなに気持ちが良いなら、忘れられないね」



本当に忘れられないなら、こんなに嬉しい事はない。

もしオスが古巣に帰ってしまっても、

時々ならお、風呂に入りにきてくれるかもしれない。


一緒に暮らせずとも、そうなれば時々会えるかもしれない。

そんな小さな淡い期待が、ささやかな心の支えになった。



…。

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